単立

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高山寺-京都府京都市右京区

・高山寺 単立 京都府京都市右京区梅ヶ畑栂尾町8高山寺は京都市右京区栂尾(とがのお)にある古刹である。創建は奈良時代に遡るともいわれ、その後、神護寺の別院であったのが、建永元年(1206)明恵上人が後鳥羽上皇よりその寺域を賜り、名を高山寺として再興した。(リンク先より) << 戻る
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蓮通寺-滋賀県長浜市

・蓮通寺 単立(浄土真宗東本願寺派) 滋賀県長浜市西浅井町岩熊542源平争乱の寿永三年(1184年)、征夷大将軍源義仲は粟津ヶ原で敗死し、その室山吹御前は子息義隆・義順を伴い、北近江浅井郡の山中で世の浮沈を窺って暮らしていたが、義仲を破った頼朝・義経の兄弟も世を去り、琵琶湖にすぐ近い海津の荘に住まいを移したところ、本願寺御開山親鸞聖人、越後に流罪となり琵琶湖を舟で渡ってこられ海津にお着きになり、義隆・義順兄弟と師弟の約諾を交わしてくださり、兄の義隆は海津荘岩谷の地で願慶寺開基となり、弟の義順は浅井郡塩津荘岩熊に赴き蓮通寺の開基となった。(リンク先より) << 戻る
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法台寺-埼玉県新座市

・大平山法台寺ホームページ 単立 埼玉県新座市道場1-10-13源頼朝存命の治承4(1180)年、勅許に依り「館」が建てられた。その館を「清浄殿」と名づけた。それが当寺の原型となった「廣澤の清浄殿」である。執権職北條時宗の時、すなわち文永3(1266)年仲秋、宗尊親王の命に依り、源実朝の御台所久米御前(*5)(法名「廣澤院従二位承山寶臺禅定尼」)の菩提を弔うためにこの、清浄殿を「廣澤院寶臺寺」とした。寺院として建立したのである。(リンク先より) << 戻る
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平等院-京都府宇治市

・平等院 単立 京都府宇治市宇治蓮華116永承7年(1052)、時の関白藤原頼通が、父 道長より譲り受けた別業を仏寺に改め、平等院を開創しました。 この年は末法初年に当たるとされ、末法思想が貴族や僧侶らの心をとらえ、極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行していました。その翌年の天喜元年(1053)には阿弥陀堂(鳳凰堂)が落慶し、堂内には、平安時代の最高の仏師定朝によって制作された丈六の阿弥陀如来坐像が安置され、華やかさを極めたと言われています。(リンク先より)<< 戻る
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正暦寺-奈良県奈良市

・正暦寺 菩提山真言宗 奈良県奈良市菩提山町157992(正暦3)年、一条天皇の勅命を受けて兼俊僧正(藤原兼家の子)によって創建されました。山号を「菩提山」、院号を「龍華樹院」と号します。創建当初は、堂塔・伽藍を中心に86坊の塔頭が渓流をはさんで建ち並び、勅願寺としての威容壮麗を誇っていました。(リンク先より) << 戻る
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圓満院門跡-滋賀県大津市

・圓満院門跡 単立 滋賀県大津市園城寺町33圓満院は寛和三年(987年)に、村上天皇の第三皇子悟円親王により創立された天台宗の門跡寺院です。三井三門跡の一つであり、開基当時は平等院と呼ばれていました。藤原道長が宇治に建てた別荘をその子藤原頼道の時代に寺院にするよう命令が下され、平等院(後の圓満院)の明尊大僧正によって完成しました。(リンク先より) << 戻る
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注連寺-山形県鶴岡市

・注連寺 単立(真言宗) 山形県鶴岡市大網字中台92-1湯殿山注連寺は天長2年(825)弘法大師空海の開基であり、その後、大師が開創した霊場を慕い京都より訪ねてきた弟子の真然大徳が承和2年(835)、湯殿山権現堂を建立し、真然大徳を第一世とするお寺です。(リンク先より) << 戻る
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千光寺-広島県尾道市

・千光寺 単立(真言宗) 広島県尾道市東土堂町15-1開基は平安時代の始め大同元年(806年)で、後に源氏の名将多田満仲の中興と伝えている。境内中央の巨岩「玉の岩」は昔この岩の頂に如意宝珠があって、夜毎に海上を照らしていたのでこの地を「玉の浦」と呼ぶとか。玉の岩の右には朱塗りの本堂、左には龍宮造りの鐘楼を配して、尾道の風光のかなめをなしている。(リンク先より) << 戻る
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往生院六萬寺-大阪府東大阪市

・往生院六萬寺 単立 大阪府東大阪市六万寺町1-22-36天平17年(745年)、行基菩薩49院建立の折に、聖武天皇の勅願により、桜井寺荒廃の跡へ、六萬寺を再建し、薬師如来を本尊としていたことが伝わっています。それ以前も文武天皇の時、役小角(修験道の開祖)が来山し、背後の岩瀧山にこもり、修験錬行の地としていたことも伝えられています。(リンク先より) << 戻る
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円福寺-千葉県銚子市

・飯沼山 圓福寺(円福寺) 単立 千葉県銚子市馬場町293-1天平年間(729~749)になり、行基菩薩がこの奇瑞を耳にして、厨子を作って奉納した。しかし尊像の方が少し大きくて入らなかったので、行基が祈願すると、尊像は首をたれて、みずから厨子に入ったという。後に、弘法大師が東国を巡錫した弘仁年間(810~824)、この尊像を拝したが、海中出現のままの姿だったので、台座や光背を作り、開眼供養をおこなった。そして、下総国の守護千葉氏の系統を引く海上長者が、尊像と大師に帰依して、壮大な伽藍を天生六年(1578)建立したとされる。(リンク先より) << 戻る
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法承寺-福井県福井市

・法承寺 単立 福井県福井市飯塚町23-2飯塚町観音堂に安置し奉る聖観音菩薩御尊像(秘仏)は、人皇第四十四代元正天皇の御代養老二年(718年)に奈良の菅原寺住職の行基が彫刻した御尊像であります。養老二年の春、行基菩薩が当地に巡幸の折、一夜の宿を飯塚の氏神様にお求めになり、その夜に瑞夢に紫雲たなびき光明が輝きましたので、これは不思議の霊地として一刀刻みにより御丈五尺三寸の聖観音菩薩の御尊像を彫刻し、国家安穏、五穀成就、万民快楽を祈願されたのであります。(リンク先より) << 戻る
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松尾寺-奈良県大和郡山市

・松尾寺 単立(松尾山真言宗) 奈良県大和郡山市山田町683松尾寺は、養老2年(718)、天武天皇の皇子舎人親王が、勅命による日本書紀編纂の折、42歳の厄年であったため、日本書紀の無事完成と厄除けの願をかけて建立された日本最古の厄除霊場です。(リンク先より) << 戻る
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願慶寺-石川県白山市

・願慶寺 単立(東本願寺浄土真宗) 石川県白山市吉野タ25-1伝承によれば当寺の草創は極めて古く、養老年間、僧泰澄が白山を開く時に、当寺に立ち寄って一夜の宿としたという。また、古老の語る民話では、『昔吉野の地には大きな沼があり、そこに一匹の龍が住んで、絶えず雨を降らせ、村民は田畑を作ることができずに困っていたという。ある時、たまたまこの地を訪れた高僧(泰澄か?)が泊めてもらった家でこの話を聞き、一晩の恩義に報いるため、三日三晩の祈祷の末、この龍を退治し、白蛇に姿を変えて、小さな祠の中に閉じ込めたという。(リンク先より)※養老年間 717年から724年 << 戻る
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壷阪寺-奈良県高市郡

・壷阪寺 真言宗 奈良県高市郡高取町壷阪3・第五番 ⇒ 西国三十三所 第六番 壺阪山 南法華寺 (壺阪寺) ⇒ 第七番創建は寺蔵の『南法花寺古老伝』によると、大宝3年(703)年に元興寺の僧、弁基上人がこの山で修行していたところ、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した観音像を刻んでまつったのが始まりと言われる(リンク先より) << 戻る
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明星輪寺-岐阜県大垣市

・明星輪寺 真言宗 岐阜県大垣市赤坂町4610持統天皇の勅願により鎮護国家の道場として朱鳥元年(686年)役の小角の創立にかかり七堂伽藍をはじめ一山五坊を創建し本尊虚空蔵菩薩を安置す。その後衰退していたが空海(弘法大師)来山し諸堂を再建修復す。このとき桓武天皇は勅願を下し封戸三百石を寄進された。(リンク先より) << 戻る
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善光寺-長野県長野市

・善光寺 単立 長野県長野市元善町491『善光寺縁起』によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。 この仏像は、仏教の受容を巡っての崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642年)現在の地に遷座いたしました。皇極天皇三年(644年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と...
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法輪寺-奈良県生駒郡

・法輪寺 単立 奈良県生駒郡斑鳩町大字三井1571当寺の創建には二説が伝えられています。ひとつは、推古30年(622)聖徳太子がご病気になられた折、太子の御子山背大兄王がその子由義王らと共に太子のご病気平癒を願って建立されたという説(巻子本『聖徳太子伝私記』引用の『寺家縁起』) もうひとつは、天智9年(670)の斑鳩寺焼失後、百済開法師・圓明法師、下氷新物三人が合力して造寺したとする説(『聖徳太子伝暦』『上宮聖徳太子伝補闕記』)です。昭和に行なわれた石田茂作博士の発掘調査では、伽藍配置が法隆寺式であること、規模は法隆寺西伽藍の3分の2であること、出土する鐙瓦・宇瓦の文様が法隆寺のそれぞれと類似...
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統国寺-大阪府大阪市天王寺区

・統国寺 単立 大阪府大阪市天王寺区茶臼山町1-31聖徳太子の創建になる名刹で、百済の僧観勒(かんろく・・・・602年に来日し、暦法・天文学・地理学・方術などを伝来し、飛鳥寺にも住し僧正に任ぜられている)が開山住持として招かれ、推古天皇の帰依により厚遇を賜った。寺伝(『邦福寺梵鐘銘文』)には帝が専修念仏して、西山に阿弥陀、観音、勢至の尊姿を感得したのにちなんで、別念仏寺とも称されたとある。(リンク先より) << 戻る