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藤山一郎(ふじやまいちろう)

歌手・声楽家・作曲家・指揮者。本名、増永丈夫(ますなが たけお)。本名ではクラシック音楽の声楽家・バリトン歌手として活躍。生誕 1911年(明治44年)4月8日命日 1993年(平成5年)8月21日藤光院愛譽白童居士<< 戻る
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藤村富美男(ふじむらふみお)

広島県呉市山手町出身のプロ野球選手・監督・解説者。 日本プロ野球を代表する伝説的な強打者であり、大阪タイガースの黎明期を支え、戦前から1950年代までのプロ野球創成期を代表するスター選手。初代「ミスタータイガース」。「ダイナマイト打線」不動の4番。チームメイトからの愛称は「フジさん」。生誕 1916年8月14日命日 1992年5月28日<< 戻る
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藤山寛美(ふじやまかんび)

喜劇役者。戦後昭和の上方喜劇界を代表する喜劇役者であり、数多くの名作を残した。弟子にはな寛太・いま寛大のはな寛太、山崎海童らがいる。女優の藤山直美は娘。俳優の藤山扇治郎は孫。生誕 1929年6月15日命日 1990年5月21日慈生院法明悦寛治徳善士<< 戻る
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藤本定義(ふじもとさだよし)

愛媛県松山市生まれのプロ野球監督。東京巨人軍初代監督。また巨人軍と阪神タイガースの両方で監督を務めた唯一の人物でもある。生誕 1904年12月20日命日 1981年2月18日<< 戻る
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藤井健次郎(ふじいけんじろう)

、 - )は、日本の植物学者、遺伝学者。帝国大学で植物形態学の研究をし、ドイツ・イギリスに留学。帰国後、ドイツ遺伝学の研究を取り入れ東京帝国大学に細胞遺伝学講座を初めて開設し、日本における遺伝学研究に尽力。生誕 1866年11月11日(慶応2年10月5日)命日 1952年(昭和27年)1月11日<< 戻る
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二葉亭四迷(ふたばていしめい)

小説家、翻訳家。本名、長谷川辰之助。筆名の由来は、処女作『浮雲』に対する卑下、特に坪内逍遥の名を借りて出版したことに対して、自身を「くたばって仕舞え」と罵ったことによる。文学に理解のなかった父に言われたというのは俗説である。長谷川二葉亭とも呼ばれる。別の号に冷々亭主人、杏雨。生誕 1864年4月4日(元治元年2月28日)命日 1909年(明治42年)5月10日二葉亭四迷<< 戻る
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福澤諭吉(ふくざわゆきち)

、、 - )は、日本の武士(中津藩士のち旗本)、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者。諱は範(はん)。字は子囲(しい)。新字体で福沢諭吉。主な作品『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論之概略』『帝室論』『福翁自伝』『瘠我慢の説』生誕 天保5年12月12日(1835年1月10日)命日 明治34年(1901年)2月3日大観院独立自尊居士<< 戻る
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仏旗(ぶっき)

「青、黄、赤、自、橙」の5色の旗は仏教のシンボルで仏旗といいます。イギリス人の仏教徒オルコット大尉が、1882年(明治15年)に考案したものといわれています。1950年(昭和25年)にスリランカのコロンボで、第1回世界仏教徒会議が開かれた際、その中で仏旗制定の議案が提出され満場一致の賛同を得て、法輪と共に正式に万国共通の仏教徒のシンボルとして「仏教徒の旗」略して「仏旗」と決められました。何故「青、黄、赤、白、橙」の5色なのかは諸説がありますが、ブッダが12月8日にプツダガヤで悟りを開かれた時にブッダの身体から5色の光明が輝きあたりを照らしたという故事を元にして採用されたものだと伝えられています...
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藤田東湖(ふじたとうこ)

江戸時代末期(幕末)の水戸藩士、水戸学藤田派の学者。東湖神社の祭神。生誕 文化3年3月16日(1806年5月4日)命日 安政2年10月2日(1855年11月11日)<< 戻る
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福島正則(ふくしままさのり)

は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。賤ヶ岳の七本槍、七将の一人。生誕 永禄4年(1561年)命日 寛永元年7月13日(1624年8月26日)海福寺殿月翁正印大居士<< 戻る
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古田織部(ふるたおりべ/重然/しげなり)

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名、茶人、芸術家。通称は古田織部。豊臣秀吉・徳川家康の茶堂、徳川秀忠の茶の湯指南役。茶道織部流の祖。江戸幕府の御茶吟味役。柳営茶道の祖。南山城・東大和1万石の大名。官位は従五位下織部助。生誕 天文12年(1543年)命日 慶長20年6月11日(1615年7月6日)金甫宗屋禅人<< 戻る
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佛通寺派(本山佛通寺(広島三原))の開派

応永4(1397)年、愚中周及禅師により始まる。臨済宗佛通寺派(楊岐派の禅)。<< 戻る
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『仏祖統紀』

『仏祖統紀(ぶっそとうき)』は1269年に中国・南宋の僧志磐が天台宗を仏教の正統に据える立場から編纂した全54巻の仏教史書です。次の5篇19科を立てました。本紀(8巻) 釈迦仏伝(巻1-4) 西土二十四祖(巻5) 東土九祖(巻6,7) 興道下八祖(巻8)世家(2巻) 天台宗旁出諸師略伝(巻9,10)列伝(12巻) 天台宗諸師法嗣略伝(巻11-22)表(2巻) 歴代伝教表(巻23) 仏祖世繋表(巻24)志(30巻) 山家教典志(巻25) 浄土立教志(巻26-28) 諸宗立教志(巻29) 三世出興志(巻30) 世界名体志(巻31,32) 法門光顕志(巻33) 法運通塞志(巻34-48) 名文光教志...
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「正法眼蔵」仏道(ぶつどう)

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「正法眼蔵」仏経(ぶっきょう)

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「正法眼蔵」仏教(ぶっきょう)

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「正法眼蔵」仏向上事(ぶっこうじょうじ)

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「正法眼蔵」仏性(ぶっしょう)

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「正法眼蔵」仏祖(ぶっそ)

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『正法眼蔵随聞記』13、仏々祖々、皆本は凡夫なり

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『正法眼蔵随聞記』51、父母の報恩等の事

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『正法眼蔵随聞記』84、仏法のためには身命をおしむ事なかれ

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『正法眼蔵随聞記』90、ふるく云く、君子の力は牛に勝れたり

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松殿基房(まつどのもとふさ)- 藤原基房(ふじわらのもとふさ)

平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。実名は藤原基房。藤原北家、関白・藤原忠通の五男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。松殿家の祖。 松殿・菩提院・中山を号す。通称は松殿関白。生誕 天養元年(1144年)/久安元年(1145年)命日 寛喜2年12月28日(1231年2月1日)菩提院松殿中山基房大居士<< 戻る
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『普勧坐禅儀』(ふかんざぜんぎ)

1228年、道元禅師が中国から帰国後直ちに建仁寺にて著された『普勧坐禅儀』には坐禅の心がまえや作法などについて書かれています。オリジナルは格調高い四六駢儷体の漢文で、坐禅の基本的な仕方から、その本旨までが記されています。現在、一般的には書き下し文が読まれることが多い為、こちらのページでも書き下し文を公開しています。道元禅師の開宗宣言ともいうべき書で、現在も坐禅中に読誦するなど、只管打坐をその旨とする宗門において重要な宗典です。①ルビ(かな読み)②書き下し本文(大太字)『普勧坐禅儀』たずぬるにそれ、どうもとえんずう、原ぬるに夫れ、道本圓通、いかでかしゅしょうをからん。争か修証を仮らん。しゅうじょ...
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藤原清衡(ふじわらのきよひら)

平安時代後期の武将で奥州藤原氏初代当主。天仁元年(1108年)、鳥羽上皇の勅宣により藤原基衡が出羽国最上郡(現・山形県寒河江市)の慈恩寺を再興したという(『瑞宝山慈恩寺伽藍記』)。阿弥陀堂(常行堂)・釈迦堂(一切経堂)・丈六堂を新造し、鳥羽院より下賜された阿弥陀三尊を阿弥陀堂に、釈迦三尊と下賜された一切経五千余巻を釈迦堂に、基衡が奉納した丈六尺の釈迦像を丈六堂に安置した。ただし、基衡は1100年前後の生まれと目されるため実際には清衡が再興したか、再興年に誤りがあるとみられる。生誕 天喜4年(1056年)命日 大治3年7月13日(1128年8月10日)<< 戻る
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芙蓉道楷(ふようどうかい)

中国・宋時代の禅僧。投子義青に就いて嗣法。弟子には丹霞子淳がいる。・「芙蓉山の楷祖、もはら行持見成の本源なり。国主より定照禅師号ならびに紫袍をたまふに、祖、うけず、修表具辞す。国主とがめあれども、師、つひに不受なり。」(「正法眼蔵」行持 下)生誕 1043年命日 1118年<< 戻る
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扶桑略記

扶桑略記(ふそうりゃくき)とは、1094年(寛治8年)以降の堀河天皇代に比叡山功徳院の僧・皇円が編纂したとされる私撰歴史書ですが、異説もあります。全30巻より成り、このうち巻二~六、巻二十~三十の計16巻と、巻一及び巻七~十四の抄記が現存します。神武天皇より堀河天皇の1094年(寛治8年)3月2日までの国史について、和漢年代記を書入れ、六国史や『慈覚大師伝』などの僧伝・流記・寺院縁起など仏教関係の記事を中心に、漢文・編年体で記しています。多くの典籍を引用していることは本書の特徴の一つですが、その大半が今日伝わっておらず、出典の明らかでない記事も当時の日記・記録によったと思われます。<< 戻る
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藤原頼通(ふじわらのよりみち)

平安時代中期から後期にかけての公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣藤原道長の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。父・道長から若くして後一条天皇の摂政を譲られ、その後見を受ける。父の死後は朝政の第一人者として後朱雀天皇・後冷泉天皇の治世にて、関白を50年の長きに亘って務め、父道長と共に藤原氏の全盛時代を築いた。現代に残るその栄華の象徴が頼通が造営した平等院鳳凰堂である。しかし、天皇の后にした娘が男子に恵まれなかったばかりか、刀伊の入寇・平忠常の乱・前九年の役など戦乱が相次ぐなど、朝廷の内外からそれまでの絶対的な権力体制を揺さぶられる事態が生じた。そこに加えて晩年には頼通と疎遠な後三条...
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浮山法遠(ふさんほうおん)

中国・宋時代の禅僧。葉県帰省に就いて嗣法。その後、大陽警玄の下で修業を続け、ここでもその力量を認められらがらも、既に嗣法していたため、嗣ぐに相応しい弟子のいない大陽警玄の法を預かり、その後、投子義青に代付した。「法遠不去」(法遠去らず)ある時、浮山法遠は葉県帰省禅師の下で修行をしたいと、天衣義懐と共に入門を願い出ますが許されることなく何日も過ぎていきました。雪の舞うある日、ようやく葉県禅師が現れたのですが、入門を願って集まっていた者たちに水を浴びせる始末です。それにたまりかねて、皆去ってしまいましたが、浮山法遠は天衣義懐と共に諦めません。葉県禅師「まだ去らないなら打つぞ」浮山法遠「禅を求めて禅...
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藤原道長(ふじわらのみちなが)

平安時代の中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。 父・兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし、兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡男・伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが三条天皇とは深刻な対立が生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほど...
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補陀落渡海のはじまり

868年11月3日、慶龍上人が熊野那智より渡海したのが一番古い記録です(「熊野年代記」)。補陀洛山寺は「補陀落渡海(ふだらくとかい)」の出発点だったことで知られています。「補陀落」とはサンスクリット語の「ポタラカ」の音訳で、南方の彼方にある観音菩薩の住まう浄土のことをいい、『華厳経』にはインドの南端にあると説かれています。観音信仰の流布と共に、チベットや中国にも補陀落は想定されました。チベットではラサ北西に建つ、観音の化身ダライラマの宮殿をポタラ(補陀落)宮と呼び、中国では舟山諸島の2つの島を補陀落としました。日本においては南の海の果てに補陀落浄土はあるとされ、その南海の彼方の補陀落を目指して...