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蘇我入鹿(そがのいるか)

飛鳥時代の豪族。蘇我蝦夷の子。大臣として大和朝廷の有力者であったが、乙巳の変において討たれ、その後蘇我氏が凋落するきっかけとなる。青少年期は僧・旻に学問堂で学び、「吾が堂に入る者に宗我大郎(蘇我入鹿のこと)に如くはなし」と言われる程の秀才だったと言われる。蘇我入鹿は大和朝廷の実質の最高権力者としての地位を固めたが、皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で従兄弟に当たる蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げていた際、肩を震わせていた事に不審がっていた所を古人大兄皇子の異母弟で、皇位継承のライバルだった中大兄皇子(後の天智天皇)と佐伯子麻呂に斬り付けら...
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蘇我馬子(そがのうまこ)

蘇我馬子とは、飛鳥時代の豪族。敏達天皇の下で大臣に就き、以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、54年に渡り権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築きました。邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれました。敏達天皇元年(572年)敏達天皇の即位時に大臣となりました。敏達天皇13年(584年)百済から来た鹿深臣が石像一体、佐伯連が仏像一体を持っていたのを馬子がもらい受け、司馬達等と池邊氷田を派遣して修行者を探させたところ、播磨国(一説によると赤穂郡矢野庄)で高句麗人の恵便という還俗者を見つけ出したという。馬子はこれを師として、司馬達等の娘の嶋を得度させて尼とし善信尼となし、更に善信...
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鑑智僧璨(かんちそうさん)

中国唐の時代。中国禅宗の三祖。慧可に就いて嗣法。弟子には大医道信がいる。「璨」とは、「美しい珠」、「光り輝く宝玉(宝石)」。唐の玄宗により鑒智禅師の諡を賜る。生誕 生年不詳(推定500年~505年頃)命日 大業2年10月15日(606年11月20日)<< 戻る
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僧那(そうな)

中国唐の時代。慧可に就いて嗣法。弟子には慧満がいる。生誕 命日 << 戻る
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僧伽難提(そうぎゃなんだい)

4世紀頃のインドの仏教僧。室羅閥城(しらばつじょう/舎衛城/シュラーヴァスティー)の宝荘厳王(ほうしょうごんおう)の王子。羅睺羅多に就いて嗣法。弟子には伽耶舎多がいる。生誕 命日 << 戻る
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孫権(そんけん)

孫権は、後漢末から三国時代にかけて活躍した武将。三国時代の呉の初代皇帝。字は仲謀。呉の礎を築いた父の孫堅、勇猛で恐れられた兄の孫策を相次いで亡くし、19才で孫氏の当主となる。父や兄から引き継いだ家臣団をまとめ、積極的な人材登用を行い、政権を充実させた。208年、曹操が15万の軍で呉へ攻め込もうとした赤壁の戦いでは、孫権軍の策略にかかり曹操軍の軍船は火攻めに遭い撤退。その後、孫権は荊州の大部分を奪った。荊州の奪取によって劉備と敵対した孫権は、後漢の献帝から禅譲を受けて魏を建国した曹丕の皇帝位を承認し、形だけ臣下の礼をとり呉王になった。北方の安全を確保し、222年、荊州奪還のために進軍してきた劉備...
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曹叡(そうえい)

三国時代の魏の第2代皇帝。生誕 建安9年(204年)もしくは建安11年(206年)命日 景初3年1月1日(239年1月22日)<< 戻る
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曹丕(そうひ)

三国時代の魏の初代皇帝。父の曹操の勢力を受け継ぎ、後漢の献帝から禅譲を受けて王朝を開いた。著書に『典論』がある。生誕 中平4年(187年) 命日 黄初7年5月17日(226年6月29日)<< 戻る
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曹操(そうそう)

後漢末期の武将・政治家。詩人・兵法家。字は孟徳(もうとく)、幼名は阿瞞、また吉利。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)出身。後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作る。廟号は太祖、諡号は武皇帝。後世では魏の武帝、魏武とも呼ばれる。小説『三国志演義』では敵役・悪役として設定される。生誕 永寿元年(155年)命日 建安25年1月23日(220年3月15日)<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

『法句経』ダンマパダ【 第23章 象 】

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スッタニパータ【第4 八つの詩句の章】11、争闘

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