富山県

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蓮台寺-富山県富山市

・蓮台寺 浄土真宗本願寺派 富山県富山市愛宕町1-6-16<< 戻る
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照永寺-富山県富山市

・照永寺 浄土真宗本願寺派 富山県富山市水落46<< 戻る
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覚性寺-富山県富山市

・覚性寺 浄土真宗本願寺派 富山県富山市新庄町2-13-51<< 戻る
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大権寺-富山県富山市

・大権寺 浄土真宗本願寺派 富山県富山市婦中町三瀬225<< 戻る
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大正寺-富山県富山市

・大正寺 浄土真宗本願寺派 富山県富山市婦中町小長沢4812<< 戻る
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浄円寺-富山県富山市

・浄円寺 浄土真宗本願寺派 富山県富山市八尾町今町1663<< 戻る
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善照寺-富山県富山市三室荒屋

・善照寺 浄土真宗本願寺派 富山県富山市三室荒屋389<< 戻る
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得忍寺-富山県富山市

・得忍寺 真宗大谷派 富山県富山市婦中町友坂5377<< 戻る
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長福寺-富山県富山市四方

・長福寺 真宗大谷派 富山県富山市四方一番町2023<< 戻る
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覚順寺-富山県富山市

・覚順寺 真宗大谷派 富山県富山市道正80<< 戻る
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善通寺-富山県富山市

・善通寺 真宗大谷派 富山県富山市婦中町速星272<< 戻る
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念法寺-富山県富山市

・念法寺 真宗大谷派 富山県富山市本宮1031<< 戻る
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国分寺-富山県高岡市

・国分寺 高野山真言宗 富山県高岡市伏木一宮1-1-44・能登 ⇒ 北陸道 越中 国分寺 ⇒ 越後通称「薬師堂」といい、奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、越中国分寺の後継寺院にあたる。<< 戻る
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富山別院-富山県富山市

・富山別院 真宗大谷派 富山県富山市総曲輪2-8-29明治維新という日本が大変革された時代に、廃仏毀釈の嵐が富山藩を吹き荒れました。明治3年、藩内の仏教諸宗に対して一宗に一カ寺しか存続を認めない「合寺令」が断行されたのです。権力による激烈な仏教弾圧によって、藩内の200以上の真宗寺院が取り壊されました。 念仏の灯火が消されそうになった地に、門徒たちは聞法の場を求めました。明治19年、富山城の外堀を埋め立てて説教所の敷地にしようと「砂持奉仕」が実施されました。延べ7000人以上の人々が神通川から土砂を運び、埋め立てて、現在の総曲輪に寺地を築きました。これが富山別院の始まりです。(リンク先より)※...
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本願寺富山別院-富山県富山市

・本願寺富山別院 浄土真宗本願寺派 富山県富山市総曲輪2-7-121800年頃 (寛政年間~天保頃)川端町に町屋を買い本山会所を設ける1884年(明治17年) 9月13日 別院昇格の許可(以後3度の火災にあうが復興する) 1945年(昭和20年) 8月1日 深夜、富山大空襲にて別院4度目の焼失1946年(昭和21年) 8月1日 仮本堂入仏法要(リンク先より)<< 戻る
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本龍寺-富山県高岡市

・本龍寺 浄土真宗本願寺派 富山県高岡市末広町1005浄土真宗本願寺派 光慶寺11代了寿の2男恵仁が、享保4年(1719)5月、佐賀野村で一宇を建立して本龍寺と称した。享保15年(1730)6月、本寺の光慶寺が移転したので、これに応じて鴨嶋村(現博労)へ移った。明治の大火の後、明治30年6月再び高岡市末広町に移転して現在に及んでいる。(リンク先より) << 戻る
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真国寺-富山県富山市

・真国寺 曹洞宗 富山県富山市八ケ山4185春に雪の立山連峰、脚下に日本海を一望できる標高八十メートルの高台に曹洞宗、長岡山御廟真国寺があります。延宝三年(1675年)富山藩主前田公の廟所”長岡御廟”守り役として建立されました。(リンク先より) << 戻る
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瑞龍寺-富山県高岡市

・瑞龍寺 曹洞宗 富山県高岡市関本町35高岡山瑞龍寺は加賀藩二代藩主前田利長公の菩提を弔うため三代藩主利常公によって建立された寺である。 利長公は高岡に築城し、この地で亡くなった。加賀百二十万石を譲られた義弟利常は、深くその恩を感じ、時の名工山上善右衛門嘉広をして七堂伽藍を完備し、広山恕陽禅師をもって開山とされた。 造営は正保年間から、利長公の五十回忌の寛文三年(1663)までの約二十年の歳月を要した。当時、寺域は三万六千坪、周囲に壕を巡らし、まさに城郭の姿を想わせるものがあった。国の重要文化財として、指定されている建造物は、総門、山門、仏殿、法堂、明王堂(現僧堂)、回廊であり、江戸初期の禅宗...
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西福寺-富山県高岡市

・西福寺 浄土真宗本願寺派 富山県高岡市福岡町福岡1865当寺は昔火事に遭った事から由来に関する書物はありませんが伝承によると1600年頃には西福寺は在った様です。(リンク先より) << 戻る
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光琳寺-富山県小矢部市

・光琳寺 真宗大谷派 富山県小矢部市下中368越後西蒲原郡味方村吉江(現 新潟県新潟市南区吉江)に生まれた百姓 庄左衛門は、長尾家7代目当主 長尾為景に仕え、吉江小左衛門の名をいただき、永正の乱(1521)にて、越中に赴いた。(隣家 津川佐次衛門も共に来る)その後、この地(現 小矢部市下中)に半農半僧として留まり、この村の開墾に 百姓として力を尽くし、時には 浄土真宗の僧侶(法名 善教)として法務に励んでいった。それから約70年後、文禄3年(1594) 3代目 善慶の時、「光琳寺」の寺号を名乗る。(リンク先より) << 戻る
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長蓮寺-富山県富山市

・長蓮寺 法華宗(陣門流) 富山県富山市西中野本12-8法華宗総本山本成寺の8世日覺聖人が富山を通りかかられた時、天台宗(当時)の本覚寺と言うお寺で「法華経」の教義をお説きになりました。当時の住職はとても感銘を受け、法華宗に改宗し 一寺を富山覚中町に建立されました。これが「長蓮寺」です。 1556年(弘治2年)3月4日の事でした。(リンク先より) << 戻る
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西蓮寺-富山県砺波市

・西蓮寺 浄土真宗本願寺派 富山県砺波市庄川町庄3804永正甲子元年《一五〇四年、五〇三年前》天台宗金剛寺教誓法師が浄土真宗本願寺九代の実如上人に帰依し西蓮寺と改称されました。当時該寺院は一の谷山に位置し、修行道場を始め伽藍も整い、周辺に存在する幾多の寺坊を圧したる主坊であったと伝えられています。後に現在地に遷居するに際し、金剛寺の寺号を今の村名に残されましたが、天和元年《一六八一年》加州候検地の際、雄神庄村と合併して庄金剛寺となったと旧記されています。(リンク先より) << 戻る
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勝興寺-富山県高岡市

・勝興寺 浄土真宗本願寺派 富山県高岡市伏木古国府17-1本願寺八世蓮如上人が、文明3年(1471年)越中の布教の拠点として、砺波郡蟹谷庄土山(現在の南砺市福光土山)に土山御坊を開き、蓮如の子孫が代々住職を務めました。本願寺が門跡に任ぜられると他の寺院と共に院家に任ぜられるなど、真宗王国越中における代表的寺院であると同時に、本願寺を支える連枝寺院の一つとして重要な働きをなしてきました。永正14年(1517年)寺号を本山に申請したところ、佐渡にあって廃絶していた順徳上皇勅願所「殊勝請願 興行寺」を再興相続して、勝興寺と称することを認められました。(リンク先より) << 戻る
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常光寺-富山県下新川郡

・常光寺 真宗大谷派 富山県下新川郡朝日町泊283寺院明細帳や下新川郡史稿や寺院規則の沿革によると、「祖先は松厳といって前は真言宗で魚津の鹿熊に住んでおり、寺号を常光寺といったが、応仁の乱に戦争のため焼かれて、石川県大聖寺へ寓居(かりずまい)し、文明年間に蓮如聖人が吉崎で布教された時、真宗に帰依し明譚という法名を貰い相変らず常光寺といった。(リンク先より)※文明年間 1469年から1487年 << 戻る
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聞名寺-富山県富山市

・桐野山聞名寺 浄土真宗本願寺派 富山県富山市八尾町今町1662聞名寺がはじめて越中に入ったのは応仁二年(1468)、本格的に拠点を移したのは大永四年(1524)であったと伝えます。八尾南部の山間地(乗峰や倉ヶ谷など)を経て、福島の台地に一旦寺域を構えましたが、越後上杉勢の来襲に備え、天文二十年(1551)、三方を崖に囲まれた旧い砦の址、「八尾前山」(現在地)に移りました。その後寛永十三年(1636)境内に八尾町建てがなされ、当寺は町そのものの母胎として今日に至っています。(リンク先より) << 戻る
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広済寺-富山県高岡市

・福田山 広済寺 浄土真宗本願寺派 富山県高岡市笹川98廣済寺は、むかし旧砺波郡福田郷の十禅師社之別当職真言宗攝生院と号した霊場であった。享徳元年(1452年)四月三日、住職慶榮及び信徒は浄土真宗に帰依し、同郡小栗郷内篠川村領(現在は笹川)に善徳他十数名により、難渋の数年を要して六町歩余の地を開墾し、その地を福田と名づけ堂宇を建立し廣済寺の寺号を賜わる。(リンク先より) << 戻る
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称名寺-富山県黒部市

・含暉山称名寺 浄土真宗本願寺派 富山県黒部市荻生2711結城称名寺七代耀佛の次男、寂照が法師武者として越中に来て、明徳元年(1390)に朝日町道下に一宇を創建、布教に従事、当寺の開基となりました。その後、旧荻生地区辺(現在の一宿、青木等含む)を始め所々に道場を建て教勢を拡張していったのが、含暉山称名寺の由来であります。第5代(住職名不明)の時、信証の生まれた地名と結城の寺号から、芳賀称名寺と名のり、現在の地に建立(年代不詳、現境内にそのころの古木有り)、しかし、越後の長尾氏領内における一向宗禁令の余波により衰微の一路をたどります。(リンク先より) << 戻る
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立山寺-富山県中新川郡

・眼目山 立山寺(りゅうせんじ) 曹洞宗 富山県中新川郡上市町眼目15当山は建徳元年(1370年)に曹洞宗大本山總持寺第二祖峨山紹碩禅師の創設による屈指の寺である。禅師は肥前の出身。美濃の今須に妙応寺を建て、摂津に護国寺を建て、ついで越中に遊化し立山に詣で、その風景を愛し紫雲を見ながら座禅をしていると、そこに禅師の名僧ほまれ高きを慕い、樵(きこり)の姿となって立山権現が現れ立山山麓の小丘(今の櫛形山9を指して「かの地は法要の所、到り見たまえ」と禅師を懇請した。立山権現は禅師と石上に対坐すること7日間、禅要戒法を聞いて、帰依し寺院の建立を約束した。その夜、大豪雨となり上市川に数千の大木が流れつき...
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江雲庵-富山県高岡市

・江雲庵 臨済宗国泰寺派 富山県高岡市太田山岸25921362年、大本山国泰寺三世神會寂岸心光禅師大和尚の開山で本山内塔頭五カ支院の一つでもあり、もとは「月光山 江雲寺」と称した。山号の由来は旧寺地が氷見市島尾地内の「月の森」にあったと伝えられることによるものである。1585年8月、前田利家の命により、本山国泰寺方丈を守山城に書院として招請される際、随伴し、諸般とり計らいの功でにて役院に加えられ、現称の「龍頭山 江雲庵」の改められた。(リンク先より) << 戻る
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玉永寺-富山県富山市

・玉永寺 浄土真宗本願寺派 富山県富山市水橋西大町560本県最古の本願寺門徒集団。本願寺三代覚如の長男存覚の『存覚袖日記』の1360年(延文5)閏4月条には越後柿崎庄(現新潟県柿崎町)に住む教浄房が持参した本尊軸に、存覚が、<越中国水橋門徒 越後国柿崎住人尼浄円本尊也>と書いたとある。この本尊軸は、法然・親鸞・如信・覚如の4祖を描いた先徳連座像で、これら先徳から法系が水橋門徒へと手継(継承)されたことを存覚が認めたことになる。(リンク先より) << 戻る
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国泰寺-富山県高岡市

・国泰寺 臨済宗国泰寺派 富山県高岡市太田184開山の慈雲妙意禅師(1274−1345)は、行脚の時、二上山の幽玄の境にひかれて、山中の草庵で独り坐禅に励まれていた。たまたま通りかかった孤峯覚明禅師(島根県雲樹寺の御開山。三光国師)に誘われて、紀伊由良の西方寺(現 興国寺)の無本覚心禅師(法灯国師)に参じて大悟されたが、まもなく師の遷化(せんげ。お亡くなりになること)に遭い、二上山に戻られ、悟後の修行に励まれた。やがてその禅風を慕って雲水が集まり、嘉元2年(1304)には摩頂山東松寺を開創された。嘉暦2年(1327)には宮中に参内されて後醍醐天皇に法要をお説きになり、 「清泉禅師」の号を賜られ...
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金胎寺-富山県射水市

・金胎寺 高野山真言宗 富山県射水市戸破3315護国山金胎寺は文応元年(1260)頃、高野山大楽院信顕阿闍梨が北陸巡業の折、越中に滞在し、当地に金剛界・胎蔵界の両曼荼羅を安置し、加茂社の神宮寺として草創されました。本堂の天井中央には、周囲に菊華紋をあしらった、墨絵の竜眼図が描かれています。この寺は北陸で一番最初に前田利家の兄である前田安勝公により西国三十三観音に習い越中一国三十三観音の十五番札所(本尊秘仏千手千眼観音菩薩像)に定められた寺でもあります。(リンク先より) << 戻る