「 ふ 」 一覧
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藤本定義(ふじもとさだよし)
1981/02/18 -人物
02月18日, 12月20日, 1981年, ふ, (命日)02月18日, (生誕)12月20日愛媛県松山市生まれのプロ野球監督。東京巨人軍初代監督。また巨人軍と阪神タイガースの両方で監督を務めた唯一の人物でもある。 生誕 1904年12月20日 命日 1981年2月18日 << ...
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藤井健次郎(ふじいけんじろう)
1952/01/11 -人物
01月11日, 10月05日, 1952年, ふ, (命日)01月11日, (生誕)10月05日、 - )は、日本の植物学者、遺伝学者。帝国大学で植物形態学の研究をし、ドイツ・イギリスに留学。帰国後、ドイツ遺伝学の研究を取り入れ東京帝国大学に細胞遺伝学講座を初めて開設し、日本におけ ...
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二葉亭四迷(ふたばていしめい)
1909/05/10 -人物
02月28日, 05月10日, 1909年, ふ, 戒名, (命日)05月10日, (生誕)02月28日小説家、翻訳家。本名、長谷川辰之助。筆名の由来は、処女作『浮雲』に対する卑下、特に坪内逍遥の名を借りて出版したことに対して、自身を「くたばって仕舞え」と罵ったことによる。文学に理解のなか ...
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福澤諭吉(ふくざわゆきち)
1901/02/03 -人物
02月03日, 12月12日, 1901年, ふ, 戒名, (命日)02月03日, (生誕)12月12日、、 - )は、日本の武士(中津藩士のち旗本)、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者。諱は範(はん)。字は子囲(しい)。新字体で福沢諭吉。主な作品『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論之概略 ...
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仏旗(ぶっき)
「青、黄、赤、自、橙」の5色の旗は仏教のシンボルで仏旗といいます。イギリス人の仏教徒オルコット大尉が、1882年(明治15年)に考案したものといわれています。 1950年(昭和25年)にスリランカのコ ...
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藤田東湖(ふじたとうこ)
1855/10/02 -人物
03月16日, 10月02日, 1855年, ふ, (命日)10月02日, (生誕)03月16日江戸時代末期(幕末)の水戸藩士、水戸学藤田派の学者。東湖神社の祭神。 生誕 文化3年3月16日(1806年5月4日) 命日 安政2年10月2日(1855年11月11日) << 戻る
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福島正則(ふくしままさのり)
は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。賤ヶ岳の七本槍、七将の一人。 生誕 永禄4年(1561年) 命日 寛永元年7月13日(1624年8月26日) 海福寺殿月翁正印大居士 ...
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古田織部(ふるたおりべ/重然/しげなり)
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名、茶人、芸術家。通称は古田織部。豊臣秀吉・徳川家康の茶堂、徳川秀忠の茶の湯指南役。茶道織部流の祖。江戸幕府の御茶吟味役。柳営茶道の祖。南山城・ ...
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佛通寺派(本山佛通寺(広島三原))の開派
応永4(1397)年、愚中周及禅師により始まる。臨済宗佛通寺派(楊岐派の禅)。 << 戻る
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『仏祖統紀』
1269/01/01 -仏教を本気で学ぶ, 年表
1269年, ふ, 仏教(中国)の出来事『仏祖統紀(ぶっそとうき)』は1269年に中国・南宋の僧志磐が天台宗を仏教の正統に据える立場から編纂した全54巻の仏教史書です。 次の5篇19科を立てました。 本紀(8巻) 釈迦仏伝(巻1-4) ...
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「正法眼蔵」仏道(ぶつどう)
1243/09/16 -仏教を本気で学ぶ
1243年, お釈迦様(ブッダ), ふ, 南嶽懐譲, 同安道丕, 大鑑慧能, 天童如浄, 徳山宣鑑, 慧可, 摩訶迦葉, 曹山本寂, 正法眼蔵, 毘婆尸仏, 洞山良价, 潙山霊祐, 百丈懐海, 石頭希遷, 臨済義玄, 菩提達磨大師, 薬山惟儼, 迦葉仏, 阿難, 雲居道膺, 青原行思, 黄檗希運この投稿はパスワードで保護されているため抜粋文はありません。
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「正法眼蔵」仏経(ぶっきょう)
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「正法眼蔵」仏教(ぶっきょう)
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「正法眼蔵」仏向上事(ぶっこうじょうじ)
1242/03/23 -仏教を本気で学ぶ
1242年, ふ, 大医道信, 大鑑慧能, 天皇道悟, 徳山宣鑑, 曹山本寂, 正法眼蔵, 洞山良价, 石頭希遷, 臨済義玄, 雲居道膺, 馬祖道一, 黄檗希運この投稿はパスワードで保護されているため抜粋文はありません。
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「正法眼蔵」仏性(ぶっしょう)
1241/10/14 -仏教を本気で学ぶ
1241年, お釈迦様(ブッダ), ふ, 南泉普願, 塩官斉安, 大医道信, 大満弘忍, 大鑑慧能, 天童如浄, 摩訶迦葉, 正法眼蔵, 満月, 潙山霊祐, 百丈懐海, 迦葉仏, 迦那提婆, 雲居道膺, 馬祖道一, 馬鳴, 黄檗希運, 龍樹この投稿はパスワードで保護されているため抜粋文はありません。
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「正法眼蔵」仏祖(ぶっそ)
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『正法眼蔵随聞記』13、仏々祖々、皆本は凡夫なり
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『正法眼蔵随聞記』51、父母の報恩等の事
1235/06/11 -仏教を本気で学ぶ
05月26日, ふ, 世間の物差しで考えない, 中国の寺院の様子, 正法眼蔵随聞記, 生あるものに利益を与えることを行う, 追善供養この投稿はパスワードで保護されているため抜粋文はありません。
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『正法眼蔵随聞記』84、仏法のためには身命をおしむ事なかれ
1235/06/11 -仏教を本気で学ぶ
06月27日, そのままを理解する, ただ一つの事に向き合う, ふ, 正法眼蔵随聞記, 自分のことばかり考えずに名誉心をも捨てる, 自分の考えを改めるべき場面この投稿はパスワードで保護されているため抜粋文はありません。
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『正法眼蔵随聞記』90、ふるく云く、君子の力は牛に勝れたり
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松殿基房(まつどのもとふさ)- 藤原基房(ふじわらのもとふさ)
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。実名は藤原基房。藤原北家、関白・藤原忠通の五男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。松殿家の祖。 松殿・菩提院・中山を号す。通称は松殿関白。 ...
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『普勧坐禅儀』(ふかんざぜんぎ)
1228年、道元禅師が中国から帰国後直ちに建仁寺にて著された『普勧坐禅儀』には坐禅の心がまえや作法などについて書かれています。 オリジナルは格調高い四六駢儷体の漢文で、坐禅の基本的な仕方から、その本旨 ...
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藤原清衡(ふじわらのきよひら)
1128/07/13 -人物
07月13日, 1128年, ふ, (命日)07月13日平安時代後期の武将で奥州藤原氏初代当主。 天仁元年(1108年)、鳥羽上皇の勅宣により藤原基衡が出羽国最上郡(現・山形県寒河江市)の慈恩寺を再興したという(『瑞宝山慈恩寺伽藍記』)。阿弥 ...
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芙蓉道楷(ふようどうかい)
中国・宋時代の禅僧。投子義青に就いて嗣法。弟子には丹霞子淳がいる。 ・「芙蓉山の楷祖、もはら行持見成の本源なり。国主より定照禅師号ならびに紫袍をたまふに、祖、うけず、修表具辞す。国主とがめあれども、師 ...
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扶桑略記
扶桑略記(ふそうりゃくき)とは、1094年(寛治8年)以降の堀河天皇代に比叡山功徳院の僧・皇円が編纂したとされる私撰歴史書ですが、異説もあります。全30巻より成り、このうち巻二~六、巻二 ...
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藤原頼通(ふじわらのよりみち)
1074/03/02 -人物
03月02日, 1074年, ふ, 平等院-京都府宇治市, (命日)03月02日平安時代中期から後期にかけての公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣藤原道長の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。父・道長から若くして後一条天皇の摂政を譲られ、その後見を受ける ...
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浮山法遠(ふさんほうおん)
中国・宋時代の禅僧。葉県帰省に就いて嗣法。その後、大陽警玄の下で修業を続け、ここでもその力量を認められらがらも、既に嗣法していたため、嗣ぐに相応しい弟子のいない大陽警玄の法を預かり、その後、投子義青に ...
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藤原道長(ふじわらのみちなが)
1028/12/04 -人物
1028年, 12月04日, ふ, (命日)12月04日平安時代の中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。 父・兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼と ...
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補陀落渡海のはじまり
868年11月3日、慶龍上人が熊野那智より渡海したのが一番古い記録です(「熊野年代記」)。補陀洛山寺は「補陀落渡海(ふだらくとかい)」の出発点だったことで知られています。 「補陀落」とはサンスクリット ...
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南泉普願(なんせんふがん)
中国唐の時代の禅僧。鄭州新鄭県の出身。馬祖道一に就いて嗣法。弟子には趙州従諗、長沙景岑がいる。 南泉山に禅院を構え、30数年間、南泉山を下ることがなかった。大和元年(827年)頃、宣歙観 ...
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普寂(ふじゃく)
中国唐の時代。蒲州河東県出身。中国禅宗・北宗の二祖。大通神秀に就いて嗣法。弟子には道璿、宏正(弘正)、一行がいる。諡は大照禅師。別名は華厳尊者、両京法主、三帝国師。 法華・唯識・律を学び ...
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藤原不比等(ふじわらのふひと)
0720/08/03 -人物
08月03日, 720年, ふ, (命日)08月03日飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿。藤原鎌足の次男。文献によっては史と記されている場合もある。『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などの史料では天智天皇の落胤と書かれる。諡 ...