【仏教用語/人物集 索引】

徳川家康、教如に京都烏丸七条の寺地を寄付(東西本願寺分立)

投稿日:1602年2月1日 更新日:

1602(慶長七)年2月、徳川家康、教如に京都烏丸六条の寺地を寄付(東西本願寺分立)。

東西本願寺分立に至るまでの大きな分岐点としては、1591(天正十九)年、豊臣秀吉の京都市街経営計画にもとづいて本願寺は再び京都に帰ることとなり、顕如上人は七条堀川の現在地を選び、ここに寺基を移すことに決められた。阿弥陀堂・御影堂の両堂が完成した1592(文禄(ぶんろく)元)年、上人は積年の疲労で倒れられ、50歳で往生された。

長男・教如(きょうにょ)上人が跡を継がれたが、三男の准如(じゅんにょ)上人にあてた譲状(ゆずりじょう)があったので、教如上人は隠退して裏方(うらかた)と呼ばれた。これには大坂本願寺の退去に際して、講和を受け入れた顕如上人の退去派と信長との徹底抗戦をとなえた教如上人の籠城派との対立が背景にあったようだ。その後、教如上人は徳川家康に接近し、1602(慶長七)年、徳川家康から烏丸七条に寺地を寄進され、翌年ここに御堂を建立した。これが大谷派本願寺の起源で、この時から本願寺が西と東に分立したのである。

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