仏教を本気で学ぶ

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学生モーガラージャ

学生モーガラージャは『スッタニパータ【第5 彼岸にいたる道の章】16、学生モーガラージャの質問』内に登場するバーヴァリ・バラモンの弟子で、お釈迦様に質問します。<< 戻る
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呪文に通じたバラモン・ティッサ

呪文に通じたバラモン・ティッサは『スッタニパータ【第2 小なる章】2、なまぐさ』に登場する。上記の章には過去七仏の六番目に数えられる迦葉仏より教えられたことが書かれている。また、最初の3つの詩がティッサの言葉だと考えられている。以下抜粋。239 「稷・ディングラカ・チーナカ豆・野菜・球根・蔓の実を善き人々から正しい仕方で得て食べながら、欲を貪らず、偽りを語らない。240 よく炊かれ、よく調理されて、他人から与えられた純粋で美味な米飯の食物を舌鼓って食べる人は、なまぐさを食うのである。カッサパよ。241 梵天の親族(バラモン)であるあなたは、おいしく料理された鳥肉と共に米飯を味わって食べながら、...
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タールッカ・バラモン

タールッカ・バラモンは『スッタニパータ【第3 大いなる章】9、ヴァーセッタ』内でお釈迦様の生きていた時代、コーサラ国のイッチャーナンガラ村に住んでいる著名なバラモンとして紹介されています。ヴェーダの語句と文法とに精通していました。バーラドヴァージャ青年は弟子です。<< 戻る
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学生ビンギヤ

学生ビンギヤは『スッタニパータ【第5 彼岸にいたる道の章】17、学生ビンギヤの質問』内に登場するバーヴァリ・バラモンの弟子で、お釈迦様に質問します。<< 戻る
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ニグローダ・カッパ

ニグローダ・カッパは『スッタニパータ【第2 小なる章】12、ヴァンギーサ』に登場するお釈迦様の弟子です。上記の章にはニグローダ・カッパに師事していたヴァンギーサ(婆耆舎)がお釈迦様に師について尋ねる事柄が記されています。<< 戻る
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ポッカラサーティ・バラモン

ポッカラサーティ・バラモンは『スッタニパータ【第3 大いなる章】9、ヴァーセッタ』内でお釈迦様の生きていた時代、コーサラ国のイッチャーナンガラ村に住んでいる著名なバラモンとして紹介されています。ヴェーダの語句と文法とに精通していました。ヴァーセッタ青年は弟子です。<< 戻る
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バーヴァリ・バラモン

バーヴァリ・バラモンは『スッタニパータ【第5 彼岸にいたる道の章】1、序』内に登場してお釈迦様に自分の弟子たちを向かわせる記述があります。また、その【第5 彼岸にいたる道の章】にはバーヴァリ・バラモンの16人の弟子が登場します。・師は言われた、「彼の年齢は百二十歳である。彼の姓はバーヴァリである。彼の肢体には三つの特徴がある。彼は三ヴェーダの奥義に達している。」(1019偈)<< 戻る
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ダンミカ

ダンミカは『スッタニパータ【第2 小なる章】14、ダンミカ』に登場するお釈迦様の在俗信者です。上記の章でダンミカはお釈迦様の徳を称え、質問する様子が記されています。<< 戻る
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ジャーヌッソーニ・バラモン

ジャーヌッソーニ・バラモンは『スッタニパータ【第3 大いなる章】9、ヴァーセッタ』内でお釈迦様の生きていた時代、コーサラ国のイッチャーナンガラ村に住んでいる著名なバラモンとして紹介されています。<< 戻る
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学生アジタ

学生アジタは『スッタニパータ【第5 彼岸にいたる道の章】1、序』および『2、学生アジタの質問』内に登場するバーヴァリ・バラモンの弟子で、お釈迦様に質問します。<< 戻る
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自力本願と小乗仏教

子ども向けの学習書に目を通す鎌倉新仏教の説明書きその特色として他力本願と自力本願とあるこれを偏向という他力本願が優れていることを示すための自力本願という言葉だと思う自・他の区別を無くしたものが仏教が指し示すところ鎌倉新仏教もそうだったただ自分のところの宗派が優れていると思うことは当然のこと自分のことはよく見えるから智慧が足りないとそんな表現になる大乗仏教もそう自分たちの大乗仏教は優れていると思っているから智慧が足りないと自分たち以外のことを小乗仏教と呼んでしまうこれは差別的な表現で上座部仏教と正される人は対比することですっきりしたい他力本願と自力本願大乗仏教と小乗仏教だからといって片方の言い分...
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浄光仏(じょうこうぶつ)

浄光仏とは、清らかな光線の光明ある者という意味の西方の現在仏です。梵語では suddharasmiprabha(シュッダ・ラシュミ・プラバ)といいます。また、浄光如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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香光仏(こうこうぶつ)

香光仏とは、香りの光輝ある者という意味の上方の現在仏です。梵語では gandhaprabhasa(ガンダ・プラバーサ)といいます。また、香光如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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阿閦鞞仏(あしゅくびぶつ)

阿閦鞞仏とは、阿閦鞞如来、阿閦仏、阿閦如来という記述でも同様に、梵語で Akṣobhya(アクショービヤ)といい、不動なる者という意味の東方の現在仏です。阿閦婆などとも音写し、他にも無動(無動如来)、無瞋恚、無怒、不動などと意訳されている場合もあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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最勝音仏(さいしょうおんぶつ)

最勝音仏とは、その音があまねく鳴り響いている者という意味の北方の現在仏です。梵語では Vaisvanaranirghosa(ヴァイシヴァーナラ・ゴーシャ)といいます。また、最勝音如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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雑色宝華厳身仏(ざっしきほうけごんしんぶつ)

雑色宝華厳身仏とは、身体が宝の花で飾られた者という意味の上方の現在仏です。梵語では ratnakusumasampuspitagatra(ラトナ・クスマ・サンプシピタ・ガートラ)といいます。また、雑色宝華厳身如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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須弥相仏(しゅみそうぶつ)

須弥相仏とは、須弥山の幢幡<はたぼこ>を持つ者という意味の東方の現在仏です。梵語ではメール・ドバージャといいます。また、須弥相如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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無量天鼓震大妙音仏(むりょうてんくしんだいみょうおんぶつ)

無量天鼓震大妙音仏とは、その音声が太鼓の響きの如き者という意味の北方の現在仏です。梵語では dundubhisvaranirghosa(ドゥンドゥビ・スヴァラ・ニルゴーシャ)といいます。また、無量天鼓震大妙音如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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娑羅樹王仏(さらじゅおうぶつ)

娑羅樹王仏とは、樹王サーラの王という意味の上方の現在仏です。梵語では salendraraja(サーレーンドララージャ)といいます。また、娑羅樹王如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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大須弥仏(だいしゅみぶつ)

大須弥仏とは、大いなる須弥山という意味の東方の現在仏です。梵語ではマハー・メールといいます。また、大須弥如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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難沮仏(なんそぶつ)

難沮仏とは、襲い難き者という意味の北方の現在仏です。梵語では duspradharsa(ドゥシプラダルシャ)といいます。また、難沮如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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宝華徳仏(さらじゅおうぶつ)

宝華徳仏とは、宝の蓮花の様に美麗なという意味の上方の現在仏です。梵語では ratnotpalasri(ラトノートパラシュリー)といいます。また、宝華徳如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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須弥光仏(しゅみこうぶつ)

須弥光仏とは、須弥山の輝きある者という意味の東方の現在仏です。梵語ではメール・プラバーサといいます。また、須弥光如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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日生仏(にっしょうぶつ)

日生仏とは、太陽から生まれた者という意味の北方の現在仏です。梵語では Adityasambhava(アーディティア・サンバヴァ)といいます。また、日生如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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見一切義仏(けんいっさいぎぶつ)

見一切義仏とは、一切の意義を見る者という意味の上方の現在仏です。梵語では sarvarthadarsa(サルヴァールタ・ダルシャ)といいます。また、見一切義如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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妙音仏(みょうおんぶつ)

妙音仏とは、妙なる幢幡<はたぼこ>を持つ者という意味の東方の現在仏です。梵語では Manjudhvaja(マンジュ・ドバジャ)といいます。また、妙音如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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網明仏(もうみょうぶつ)

網明仏とは、網の様に広く覆う光明ある者という意味の北方の現在仏です。梵語では jaliniprabha(ジャーリニー・プラバ)といいます。また、網明如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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如須弥山仏(にょしゅみせんぶつ)

如須弥山仏とは、須弥山の如き者という意味の上方の現在仏です。梵語では sumerukalpa(スメール・カルパ)といいます。また、如須弥山如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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師子仏(ししぶつ)

師子仏とは、獅子という意味の下方の現在仏です。梵語では simha(シンハ)といいます。また、師子如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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日月灯仏(にちがつとうぶつ)

日月灯仏とは、月と太陽のごとき燈明ある者という意味の南方の現在仏です。梵語では candrasUryapradIpa(チャンドラ・スーリヤ・プラディーパ)といいます。また、日月燈如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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名聞仏(みょうもんぶつ)

名聞仏とは、名声という意味の下方の現在仏です。梵語では yasas(ヤシャス)といいます。また、名聞如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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名聞光仏(みょうもんこうぶつ)

名聞光仏とは、ほまれの光ある者という意味の南方の現在仏です。梵語では yasahprabha (ヤショー・プラバ)といいます。また、名聞光如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る