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無為(むい)

無為とは、つくられたものでないもののことです。種々の原因・条件(因縁)によって生成されたものではない存在のことです。因果関係を離れている存在であり、成立・破壊を超えた超時間的な存在であり、生滅変化を超えた常住絶対の真実のことを指します。⇔有為。無為は涅槃の異名とされています。大乗仏教では真如そのものと同一視されています。唯識説では空と同一視されています。上座部仏教のアビダルマ教学では、虚空無為・択滅無為・非択滅無為の三種があると説かれています。中国の仏教、特に禅宗などでは、一切のものに対して、捕らわれたり求めたりする心を捨てて、淡々として仏道に徹していくこと、何もなくひっそりとしていて、全ての...
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バーミヤン石窟・世界最大の大仏立像の爆破

バーミヤン石窟(せっくつ)はアフガニスタン東部のヒンドゥクシュ山脈中にある石窟寺院群です。中央アジア・インド・ペルシャ(今のイラン)をむすぶ交通の要所で、数百の仏教石窟が開かれました。5世紀ころつくられた高さ55mと38mの大仏がありましたが、2001年3月12日にイスラム過激派勢力によって爆破破壊されました。唐(中国)の僧・玄奘(げんじょう)もここをおとずれました。<< 戻る
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道心者(どうしんしゃ)

道心者とは、仏道に精進する人、また、道心があって修行する在家の修行者をいいます。・「道心者と云うは、昔より三国皆貧にして身を苦しめ、つづまやかにして慈あり道あるを真の行者と云うなり。」(『正法眼蔵随聞記』38、唐の太宗の時)<< 戻る
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無道心(むどうしん)

無道心とは、悟りを求める道心のないこと、菩提心のないことをいいます。・「無道心の者、仮名に僧堂に居するは、半時片時なりともなお眠るべし。道心あって修行の志あらんは、長からんにつけ喜び修せんずるなり。」(『正法眼蔵随聞記』56、我れ大宋天童禅院に居せし時)・「無智の道心、始終退する事多し。智慧ある人、無道心なれどもついに道心をおこすなり。当世現証是れ多し。しかあれば、先ず道心の有無をいわず、学道勤労すべきなり。」(『正法眼蔵随聞記』88、僧問うて云く、智者の無道心なると)<< 戻る
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道心(どうしん)

道心とは、悟りを求める心、または、悟りを得た人が他の人々を悟らせる心をいいます。自利利他の心。菩提心。・「仏道をもとむるには、まづ道心をさきとすべし。道心のありやう、しれる人まれなり。あきらかにしれらん人に問ふべし。」(「正法眼蔵」道心)・「学道の人も、初めより道心なくとも、ただ強いて道を好み学せば、終には真の道心も起るべきなり。」(『正法眼蔵随聞記』5、古人云く、聞くべし見るべし)・「国の宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝と為す。」(天台法華宗年分学生式)関連:道心者。無道心。<< 戻る
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真言八祖(しんごんはっそ)

真言八祖とは、真言密教における8人の祖師のことです。付法の八祖、伝持の八祖という真言密教には2つの八祖があります。いずれの系譜も日本真言宗の宗祖となる空海に帰結します。付法の八祖は、教えの系譜として、①大日如来、②金剛薩埵、③龍猛、④龍智、⑤金剛智、⑥不空、⑦恵果、⑧空海伝持の八祖は、日本に伝わるまでの歴史に関わった系譜として、①龍猛、②龍智、③金剛智、④不空、⑤善無畏、⑥一行、⑦恵果、⑧空海<< 戻る
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付法の八祖(ふほうのはっそ)

付法の八祖とは、真言八祖のうち、教えの系譜です。そのうち、大日如来と金剛薩埵は実在しない人物です。①大日如来(だいにちにょらい)大宇宙の根源、密教の教主。②金剛薩埵(こんごうさった)大日如来の直弟子で説法を聞き衆生に伝える。③龍猛(ナーガールジュナ)金剛薩埵から密教経典を授かる。④龍智(ナーガボーディ)龍猛から密教を伝授される。⑤金剛智(こんごうち)インドで龍智から密教を学んで唐に渡り「金剛頂経」を伝える。⑥不空(ふくう)西域生まれ。貿易商の叔父に連れられ、唐の長安で金剛智に師仕し「金剛頂経」を翻訳。⑦恵果(けいか)中国人僧侶。金剛界・胎蔵界両部の密教を受け継ぐ。⑧空海(くうかい)恵果より金剛...
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伝持の八祖(でんじのはっそ)

伝持の八祖とは、真言八祖のうち、真言密教が日本に伝わるまでの歴史に関わった実在する人物の系譜です。以下一覧の( )内は造形された場合の一般的によく見られる持物や印。①龍猛(ナーガールジュナ)金剛薩埵から密教経典を授かる。(三鈷杵を右手に持っている。)②龍智(ナーガボーディ)龍猛から密教を伝授される。(経文を右手に持っている。)③金剛智(こんごうち)インドで龍智から密教を学んで唐に渡り「金剛頂経」を伝える。(数珠を右手に持っている。)④不空(ふくう)西域生まれ。貿易商の叔父に連れられ、唐の長安で金剛智に師仕し「金剛頂経」を翻訳。(外縛印を結んでいる。)⑤善無畏(ぜんむい)インド生まれ。大乗仏教を...
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釈迦族(しゃかぞく)

釈迦族とは、お釈迦様の出身種族の名前です。釈迦とは、シャーキヤ族、またはその領国のシャーキヤ国を指す名称でもあります。釈迦はシャーキヤを音写したものです。釈迦牟尼。釋迦族。梵語(サンスクリット語) Śākya シャーキヤ शाक्य巴語(パーリ語)・「姓に関しては太陽の裔といい、種族に関しては釈迦族といいます。王さまよ。私はその家から出家したのです。欲望をかなえるためではありません。」(スッタニパータ 423偈)<< 戻る
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五着(ごじゃく)

五着とは、執着を起こさせるもとである、貪り・怒り・迷妄・高慢・誤った見解の五つのことです。・「五つの束縛を断て。五つの束縛を捨てよ。さらに五つの働きを修めよ。五つの執著を超えた修行僧は、激流を渡った者と呼ばれる。」(ダンマパダ 370偈)<< 戻る
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五根(ごこん)

五根とは、悟りを得るための五つの力または可能力のことです。信・精進(勤)・念・定・慧の五つ。諸々の善いことを生ぜしめる根本であることから五根といいます。信根・精進根・念根・定根・慧根。五勝根ともいいます。・「五つの束縛を断て。五つの束縛を捨てよ。さらに五つの働きを修めよ。五つの執著を超えた修行僧は、激流を渡った者と呼ばれる。」(ダンマパダ 370偈)次に、五種の感覚を生ずる機官、五種の知覚能力を表す場合、眼・耳・鼻・舌・身の五つの感官のことを指します。<< 戻る
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無願(むがん)

無願とは、欲求や目的などの特別な願を持たないことで、欲望を離脱した状態です。また、三解脱門の1つに数えられます。梵語(サンスクリット語) apranidhana巴語(パーリ語) apranihita<< 戻る
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三解脱門(さんげだつもん)

三解脱門とは、空、無相、無願の三種の禅定の名称です。悟りに通ずる三つの道。禅定(三昧)の三つの目標。悟りの境地に至るための三つの解脱門です。略して、解脱門(げだつもん)、三解脱(さんげだつ)ともいいます。三三昧(さんざんまい)とも。①空解脱門(くうげだつもん)は、存在の空を観ずること。②無相解脱門(むそうげだつもん)は、空であるゆえに差別の姿のないことを観ずること。③無願解脱門(むがんげだつもん)は、無相であるゆえに願い求めるべきものがないことを観ずること。また、寺院境内にある山門に同様の意味を込めて三解脱門と呼称するものがあります。<< 戻る
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有相(うそう)

有相とは、本質を持っていることで、形あるもの、現象世界をいいます。対義語の無相(うそう)は、有相・無相を超えた空の姿を示しています。<< 戻る
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無相(むそう)

無相とは、形やすがたがないことです。また、一定の形態や様相を持たないこと。物事には固定的、実体的な姿というものがないという意味です。対義語は有相(うそう)ですが、無相のいわんとするところは有相・無相を超えた空の姿を示しています。また、三解脱門の1つに数えられます。巴語(パーリ語) animitta・「財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、彼らの行く路(足跡)は知り難い。空飛ぶ鳥の迹が知り難いように。」(ダンマパダ 92偈)<< 戻る
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六物(ろくもつ)

六物とは、大衣、上衣、中衣、鉢、臥具、水差しの袋の6つの日用品のことです。修行僧が常備することを許された生活用具で、その内の大衣、上衣、中衣、鉢の4種は三衣一鉢と呼ばれます。最古層の仏教テキストに「財を貯えることなく」等々の表現がよく出てきますが、この三衣一鉢や六物以外のものを貯えてはいけないということを示す言葉です。後代になって、時代背景や、環境の変化、また、世界各地に仏教が広がる過程でその内容は変化していきました。・「財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、彼らの行く路(足跡)は知り難い。空飛ぶ鳥の迹が知り難いように。」(ダンマパダ ...
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三衣一鉢(さんえいっぱつ)

三衣一鉢とは、大衣、上衣、中衣、鉢の4つの日用品のことで、修行僧が常備することを許された6種の生活用具(六物)の内の4種です。残りの2種は、臥具、水差しの袋です。最古層の仏教テキストに「財を貯えることなく」等々の表現がよく出てきますが、この三衣一鉢や六物以外のものを貯えてはいけないということを示す言葉です。後代になって、時代背景や、環境の変化、また、世界各地に仏教が広がる過程でその内容は変化していきました。・「財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、彼らの行く路(足跡)は知り難い。空飛ぶ鳥の迹が知り難いように。」(ダンマパダ 92偈)<<...
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七覚支(しちかくし)

七覚支とは、悟りを得るために役立つ7つの事柄を示しています。「七等覚支」(しちとうがくし)、「七菩提分」(しちぼだいぶん)ともいいます。①択法(ちゃくほう) 教えの中から真実なるものを選びとり、偽りのものを捨てること。②精進(しょうじん) 一心に努力すること。③喜(き) 真実の教えを実行する喜びを感じること。④軽安(きょうあん) 身心からを軽やかに快適にすること。⑤捨(しゃ) 対象への捕ら我を捨てること。⑥定(じょう) 心を集中して乱さないこと。⑦念(ねん) その時その時の思いを穏やかにすること。<< 戻る
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五比丘(ごびく)

五比丘とは、成道以前のブッダとウルヴェーラの苦行林(前正覚山)で6年間の修行を行なった5人の修行者であり、ブッダがブッダガヤで成道後にはじめて教えを説いた(初転法輪)相手も彼らだといわれています。ブッダはブッダガヤでの成道後、最初に法を説く相手として、ウルヴェーラの苦行林(前正覚山)で共に6年間の修行を行なった五比丘のいる鹿野苑を訪れました。当初、五比丘は、修行を捨てたブッダが遠くから来るのを見て、軽蔑の念をも抱き歓迎を拒みましたが、ブッダの堂々とした姿を見て畏敬の念を抱いたことから、自然と座に迎えたといわれます。ブッダ自らが阿羅漢であり正等覚者であることを宣言したブッダは、気持ちの上で拒む五...
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転法輪(てんぼうりん)

転法輪とは、仏(ブッダ)が説法することです。古代インドにおいて輪は統治権の象徴とみなされていましたが、統治の輪を転ずる理想的君主とされた転輪王が全世界を支配するように、仏の説く教えが一切の衆生の間に回転して、迷いを打ち砕くことを表します。ここでいう輪とは、法輪のことです。また、仏が成道後、はじめて教えを説いた時のことを初転法輪といいます。・「生きとし生ける者の最上者、最高の人、牡牛のような人、生きとし生けるものの内の最高の人(ブッダ)は、やがて仙人のあつまる所という名の林で法輪を回転するであろう。猛き獅子が百獣に打ち勝って吼えるように。」(スッタニパータ 684偈)・「転法輪といふは、功夫参学...
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初転法輪(しょてんぼうりん)

初転法輪とは、仏(ブッダ)が成道後、はじめて教えを説いた時のことをいいます。その場所は、インドのバラナシ(ベナレス)の北方約10kmに位置するサールナートの鹿野苑で、その教えを聞いたのは五比丘だと伝えられています。また、仏が説法することを転法輪といいます。ブッダはブッダガヤでの成道後、最初に法を説く相手として、ウルヴェーラの苦行林(前正覚山)で共に6年間の修行を行なった五比丘のいる鹿野苑を訪れました。当初、五比丘は、修行を捨てたブッダが遠くから来るのを見て、軽蔑の念をも抱き歓迎を拒みましたが、ブッダの堂々とした姿を見て畏敬の念を抱いたことから、自然と座に迎えたといわれます。ブッダ自らが阿羅漢で...
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僧伽(そうぎゃ)

僧伽とは、修行僧の集い、聖者の集いのことです。梵語(サンスクリット語)のsamgha、もしくは、巴語(パーリ語)のSangha(サンガ)を音写して「僧伽」、「僧」といいます。5人もしくは5人以上の組織のある団体を指します(4人とする場合、3人とする場合もあるようです)。初期の仏教のはじめから僧伽があったのではなく、いつの頃からか僧伽による共同生活により修行を行うようになりました。個々の僧を指していうのは、原義からの転用に当たります。漢訳では、衆(しゅ)、和合衆(わごうしゅ)・和合僧(わごうそう)などがあります。・「在家者・出家者のいずれとも交わらず、住家がなくて遍歴し、欲の少い人、彼をわたくし...
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ヴェーダ

ヴェーダ(梵語(サンスクリット語): वेद、Veda)とは、紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけてインドで編纂された一連の宗教文書の総称です。 「ヴェーダ」は「知識」を意味し、バラモン教およびヒンドゥーの聖典とされています。長い時間をかけて口伝で伝えられて来たものが後世になって書き留められ、記録されたものです。また、個別の文書を指すのではなく、「実践的な認識」のことを「ヴェーダ」と表現することがあります。・「彼は三ヴェーダの奥義に達し、語彙論・活用論・音韻論・語源論(第四のアタルヴァ・ヴェーダと)第五としての史詩に達し、語句と文法に通じ、順世論や偉人の観相に通達し、三百人の少年にヴェ...
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八正道(はっしょうどう)

八正道とは、①正見(正しい見解)、②正思惟(正しい決意、正しい思い)、③正語(正しい言葉)、④正業(正しい行為)、⑤正命(正しい生活)、⑥正精進(正しい努力)、⑦正念(正しい思念、正しい気づかい)、⑧正定(正しい瞑想、正しい心の落ち着き)の八つの修行のことです。八聖道ともいいます。ブッダは、「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」の四つの真理(四諦)を熟知し、中道、つまり八正道を実践すれば、一切の苦しみから解脱できると説きました。・「さとれる者(仏)と真理のことわり(法)と聖者の集い(僧)とに帰依する人は、正しい知慧をもって、四つの尊い真理を見る。すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3...
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四諦/四聖諦(したい/ししょうたい)

四諦とはブッダの説いた4つの真理「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」のことです。この四諦において、生きていることは「苦」であるという考えを具体的に示し、「苦」からの解放を説いています。「四諦」の「諦」という字の語源は「道理を明らかにする」という意味であって、「真理」や「悟り」を表しています。四聖諦ともいいます。ブッダの初転法輪(最初の説法)はベナレス(バラナシ)の近郊にある鹿野苑(ろくやおん:サールナート)で五比丘(5人の修行の仲間)に4つの聖なる真実、つまり四諦を説いたと伝えられています。「苦諦」(くたい)は、苦しみの真理のことで、この世は苦しみであるということ。生・老・病・死の四苦と、愛別離苦...
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空(くう)

空とは、膨れ上がって中がうつろであるという前提があり、転じて、無い、欠けたという意味を持ちます。また、インド数学では0(零)を指す言葉です。諸々の物事は因縁によって生じたものであって、固定的実体がないということです。つまり、固定的実体がないということを因果関係の側面からとらえた縁起と同様なことを意味します。空を「何も存在しないこと」と誤って理解してはいけません。また、三解脱門の1つに数えられます。梵語(サンスクリット語) śūnya シューニャ、 śūnyatā シューニャター巴語(パーリ語) suññatā スンニャター初期仏教・「諸々の生存状態の内に堅固なものを見いださない」(スッタニパー...
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修行者(しゅぎょうしゃ)- 比丘

修行者は巴語で bhikkhu といい、「乞う者」を意味します。漢訳では「比丘」と音写します。お釈迦様の存命した当時、インドの諸宗教では家を出た全ての修行者は托鉢によって食べ物を得ていたので「乞う者」といいます。在家の人々は修行者に最上の敬意を示して食べ物を捧げますが、修行者は平然とこれを受け、挨拶やお礼を返さないのが作法です。出家者、修行僧ともいいます。また、女性の修行者のことを「比丘尼」といいます。<< 戻る
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此岸(しがん)

此岸とは、迷いの世界、生死の世界のことです。完全な理想の境地の彼岸に対して、このようにいわれます。梵語(サンスクリット語) 巴語(パーリ語) apāra・「彼岸もなく、此岸もなく、彼岸・此岸なるものもなく、恐れもなく、束縛もない人、彼を我はバラモンと呼ぶ。」(ダンマパダ 385偈)<< 戻る
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商量(しょうりょう)

商量とは、商も量もはかるという意味で、商人が物品を売買する時にその値をはかり合って決めることです。そのことから、よくはかり考えることという意味で使われます。師家と修行者、あるいは修行者の間で、問答往来して審議、相談、議論することです。・「次に諸の知事、庫堂に在って商量すらく、明日なんの味を喫し、なんの菜を喫し、なんの粥等を設くと。」(『典座教訓』2、心が整えば味も整う)・「これすなはち正業道支なり。あやまりて仏法の商量すれば、眉鬚墮落し、面目破顔するなり。」(「正法眼蔵」三十七品菩提分法)<< 戻る
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善根(ぜんこん)

善根とは、よい報いを生み出す根本となる善い行い、よい果報をもたらす善い行いのことです。功徳のもととなるもの。ぜんごん。・「此生他生の善種となる。一銭一草の財をも布施すべし、此世他世の善根をきざす。法もたからなるべし、財も法なるべし。」(「正法眼蔵」菩提薩埵四摂法)・「学人祖道に随わんと思わば必ず善根をかろしめざれ。信教を専らにすべし。仏祖の行道は必ず衆善の集まる所なり。」(『正法眼蔵随聞記』65、人は必ず陰徳を修すべし)・「その聖者は、人のためをはかる心あり、未来における最上の清らかな境地を予見していた。その聖者に教えられて、かねて諸々の善根を積んでいたナーラカは、勝利者(ブッダ)を待望しつつ...
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止観(しかん)

止観とは、止めて観ることで、心を練って一切の外境や乱想に動かされず、心を特定の対象にそそいで心の働きを静めるのを「止」といい、それによって正しい智慧を起こし、対象を如実に観るのを「観」といいます。互いに他を成立させ、仏道を全うさせる不離の関係にあります。・「バラモンが二つの事柄(止と観)について彼岸に達した(完全になった)ならば、彼はよく知る人であるので、彼の束縛は全て消え失せるであろう。」(ダンマパダ 384偈)<< 戻る
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甘露(かんろ)

甘露とは、インド神話において神々の飲物で、蜜のように甘く、飲むと不老不死になるというアムリタのことです。ヴェーダでは、ソーマ(soma)酒のことをいいます。その味が蜜のように甘いと言われることから甘露といわれます。須弥山には甘露の雨が降っており、それによって須弥山に住む天たちは空腹を免れるといわれています。また、漢訳仏典では中国伝承の天地陰陽の気が調和すると天から降る甘い液体である甘露と同一視し、「甘露」あるいは「醍醐」と訳すようになりました。甘露は、最大の境地、悟り、涅槃(ニルヴァーナ)を示す言葉としても使われています。梵語(サンスクリット語) amṛta アムリタ巴語(パーリ語) amat...