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頼忠寺-千葉県館山市

・宮城山頼忠寺のホームページ 曹洞宗 千葉県館山市宮城170-1元亀元年(1570年)里見家八代義頼公の次男で里見家大家老、堀江能登守頼忠公により創建される。地名を山号に、頼忠公の名を寺号にし、宮城山頼忠寺と号す。(リンク先より) << 戻る
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乗蓮寺-大阪府東大阪市

・乗蓮寺 真宗大谷派 大阪府東大阪市永和2-6-4「乗蓮寺(旧字:乘蓮寺)は、本山本願寺と織田信長、秀吉との戦いである石山合戦(1570~1580年)の頃には、既に存在しており、ご門徒方は炊き出し等の手伝いをされていた」と故 松平博 元大阪府議会 議員(乗蓮寺門徒)は、生前、住職に語られていました。(リンク先より) << 戻る
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宗現寺-新潟県新潟市中央区

・宗現寺 曹洞宗 新潟県新潟市中央区西堀通7-1569宗現寺は、元亀年間(1570-1573)真言律院として開創されましたが、慶長元年(1596)10月25日現在の新潟市中央区西堀通三番町法音寺七世不巌梵学大和尚(慶長18年1月15日寂)によって曹洞宗に改宗されました。歴代住職中、特に、加賀(富山県)高岡の瑞龍寺に昇住した13世霊源活湛大和尚、数次の祝融に遭遇しながら堂宇を再建された25世再中興薬欄文獅大和尚(現本堂を明治38年上棟、昭和14年4月17日寂)、新潟市西船見町満福寺開山、相模大雄山最乗寺、晋んで大本山總持寺独住第20世として曹洞宗管長に就任された26世重興形山瑾映大和尚(昭和57...
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皆満寺-愛知県知多郡

・神宮山皆満寺 真宗大谷派 愛知県知多郡武豊町下門1371570年頃(天文年中)開基に当たる順誓が、本願寺第10世 証如上人に帰依し(一説には実如上人)真宗に改宗し、本願寺の直末となる。寺基を長尾村の神宮社の傍に移したともいう。(町史には、慶長年間とある)1692年(元禄5年)第4代空圓の時に創られた手水鉢が、経緯は不明だが武雄神社に現存する。(リンク先より) << 戻る
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教念寺-大分県玖珠郡

・教念寺 浄土真宗本願寺派 大分県玖珠郡玖珠町大字大隈1218専復専山教念寺の開基について、『元亀元年(1570)当時、教念寺初代とされる森常陸介胤顕は、その父、興三兵衛と共に浄土真宗に深く帰依していた。その頃、浄土真宗のご本山大阪石山本願寺では、第十一世顕如上人が織田信長の石山本願寺攻めにあい未曾有の法難にあった。(リンク先より) << 戻る
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永隣寺-群馬県富岡市

・永隣寺 曹洞宗 群馬県富岡市下丹生1568-1小幡信氏公が国峰城、宮崎城の両城の城主であった時、永隣寺を建て菩提寺とし、寺領として9,750坪を寄進した。信氏公は、永禄12年12月6日、静岡の蒲原の戦いで戦死。徳翁永隣大禅定門となり、信氏の夫人は、天正15年5月29日に逝去。算室正寿大禅定尼となった。(リンク先より)※永禄12年 1569年 << 戻る
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金性寺-福島県南相馬市

・金性寺 真言宗豊山派 福島県南相馬市小高区仲町1-89当寺の創建は古く、小高城主第十五代相馬盛胤公夫人の掛田御前(掛田城主掛田義宗の娘)は永禄十二年(一五六九)十月二十二日逝去。盛胤公が夫人「金室妙仲大禅定尼」の冥福を祈るため、同年十二月小高村堂前(現在の小高町小高字堂前)に錦繍寺を建て、霊牌を安置したことによる。(リンク先より) << 戻る
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榮春寺-京都府京都市伏見区

・榮春寺 曹洞宗 京都府京都市伏見区桃山町丹下30泰澄山榮春寺は元録十一年(1568)傳養和尚が開創された禅寺です。高祖道元禅師が、深草から越前へ赴かれた寛元元年(1243)から三百二十年後、伏見にはじめて建てられた曹洞宗寺院です。この地は小幡山の西北麓で、東南麓は道元禅師誕生の藤原家山荘のあった所である。また禅師の観音導利興聖宝林寺にも近い。(リンク先より) << 戻る
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玖台寺-茨城県高萩市

・玖台寺 曹洞宗 茨城県高萩市安良川686永禄十一年(西暦1568年)六月の開創。一説には大永二年(西暦1522年)開山は清順、天正二年(西暦1574年)二月開山は三清印、あるいは開山を重山宗珍とも。慶長七年(西暦1602年)頃全盛で、のち衰廃したのを雲洞によって中興されたという。(リンク先より) << 戻る
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久遠寺-愛知県名古屋市中区

・賢隆山久遠寺【kuonji.net】 真宗高田派 愛知県名古屋市中区新栄1-4-6当寺は、伊勢国楠村の城下にありました。永禄十年(1567)伊勢国長島へ移転しました。天正元年(1573)清洲城下への願入を行い、後に清洲へ移住。 当時の文献には、『福島宰相正則朝臣を便り、「便利な地を見立てて移るべし」と申され、この言葉を受け、尾張国清洲五条橋の地・朝日郷に移住し「久遠山見立寺」と号しました。』と記されています。(リンク先より) << 戻る
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宝津院-静岡県静岡市葵区

・宝津院 臨済宗妙心寺派 静岡県静岡市葵区津渡野328春陽意公(永禄九年四月十九日寂)が開基と現在も墓地に ありますが、来歴は正確には分かりません。 しかも、室町時代後期の型式といわれている五輪塔があります。 他にも何基かその頃の作造と思われる石塔があり、 その昔は真言宗の寺院であったかと思われます。(リンク先より)※永禄九年 1566年 << 戻る
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足利義輝(あしかがよしてる)

室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第13代征夷大将軍(在職:1546年〈天文15年〉- 1565年〈永禄8年〉)。足利宗家第20代当主。宣教師ルイス・フロイスは、義輝を「とても武勇すぐれて、勇気ある人だった」と評している(『フロイス日本史』第65章)。剣豪として名を馳せていた塚原卜伝から指導を受けた直弟子の一人。奥義「一之太刀」を伝授されたという説もあり、武術に優れた人物であったのではないかといわれている。生誕 1536年3月31日〈天文5年3月10日〉命日 1565年6月17日〈永禄8年5月19日〉光源院融山道圓<< 戻る
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了源寺-千葉県船橋市

・光雲山 了源寺 浄土真宗本願寺派 千葉県船橋市宮本7-7-1寺伝によると開基の伝翁(俗名:藤原匡親)は永禄8年(1565年)に小田原北条家四代目北条氏政に土地を寄進され了源寺は現在の地に始まりました。その後、本願寺と織田信長の争いが激化すると石山本願寺に入り、石山や紀伊国で転戦したとされています。「足利家に仕えており、主君が暗殺された後、仏門に入った」との記載もあり、永禄8年の「永禄の変」(三好三人衆による義輝暗殺)の後に石山に入り石山合戦終結後の天正8年の可能性もあります。(リンク先より) << 戻る
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紫雲寺-愛知県豊橋市

・高足山 紫雲寺 臨済宗妙心寺派 愛知県豊橋市高師本郷町字榎48-1当寺過去帳歴代住持の部に「当庵中興用岳玄公首座」の方名を筆頭に記してある点からみて、それ以前荒廃していたものを玄公首座が再興、東観音寺末としたものとされる。玄公首座は永禄7年(1564年)示寂。(リンク先より) << 戻る
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信楽寺-山梨県甲府市

・信楽寺 浄土宗 山梨県甲府市貢川本町2-8山梨県甲府市の至心山信楽寺は、浄土宗に属し、永禄七年(1564年)より開山した歴史ある寺院です。(リンク先より) << 戻る
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誓教寺-山口県下松市

・誓教寺 浄土真宗本願寺派 山口県下松市切山3471562年の創立以来、ずっと西本願寺の浄土真宗で法灯を継いできました。江戸時代以前は地方寺院の設立規定はそれほど厳しくありませんでした。信者と僧侶で何とか維持できれば、掘立小屋のような寺でも勝手に運営すればよし、という程度のものだったようです。(リンク先より) << 戻る
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尼子晴久(あまごはるひさ)

戦国時代、出雲国の戦国大名、出雲・隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆の守護大名。尼子経久の嫡孫に当たる。山陰山陽十一カ国のうち、八カ国の守護を兼任し中国地方一の大大名となった。また大内、毛利両軍をよく制した。八カ国守護とも言われる。生誕 永正11年2月12日(1514年3月8日)命日 永禄3年12月24日(1561年1月9日)天威心勢大居士月光院殿愚溪宗見大居士光德院殿鳳頷英逸大居士<< 戻る
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玄向寺-長野県松本市

・玄向寺 浄土宗 長野県松本市大村681当寺の歴史は、室町時代の永禄4年(1561)5月、長譽清光和尚が現松本市浅間温泉の地に、「帰命山念佛寺」を開創されたことに始まります。やがて、寛永2年(1625)10月、西譽向順和尚が現在の松本市大村に寺を移して、開山上人のお名前をいただいて、「清光寺」と名前を改めました。(リンク先より) << 戻る
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今川義元(いまがわよしもと)

戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。姉妹との婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義理の兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の広大な地域の支配者。寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで領土を拡大させた。戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長軍に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。生誕 永正16年(1519年)命日 永禄3年5月19日(1560年6月12日)天沢...
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浄國寺-大阪府大阪市天王寺区

・浄國寺 浄土宗 大阪府大阪市天王寺区下寺町1-2-36無衰山浄國寺は永禄3年(1560)寂蓮社円誉上人が創建。約450年の歴史ある寺院です。大阪の名所旧跡・時事・風俗などを記した『浪華百事談』に「順慶町通りより御堂筋の西を浄國寺町と呼べり」とあり、もとは西区新町、浄國寺町と呼ばれた所に在したお寺で、創建よりほどなくして現在の松屋町沿いの下寺町にうつりました。(リンク先より) << 戻る
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徳蔵寺-東京都東村山市

・徳蔵寺 臨済宗大徳寺派 東京都東村山市諏訪町1-26-3徳蔵寺の創立は永禄3年(1560)、開山年は元和年中(1615~1623)と伝えられている。徳蔵寺は当時赤坂種徳寺末であったが、徳蔵寺に住した全叟由禅師は寺の復興に尽力し、 璧英禅師を奉請し中興開山となって頂き、全叟由禅師「自ら」は徳蔵寺中興2代(世)となった。(リンク先より) << 戻る
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法光寺-長野県諏訪市

・手長山 二尊教院 法光寺 浄土宗 長野県諏訪市岡村1-16-5戦国時代、諏訪の中心として栄えた諏訪氏の居城上原城の城下町(茅野市上原)には、鎌倉五山になぞられて上原五山と言われる寺院がありました。永明寺・金剛寺・光明寺・法(報)明寺・極楽寺がこれです。この中、法(報)明寺と光明寺の二ヶ寺が後日合併して、現在の法光寺(諏訪市岡村)にいたっています。 「起立記」によると、謝徳山報恩寺は永禄三年(1560年)、明蓮社賀譽岌興上人(京都百萬遍知恩寺第二十六世)の開山であり、遍照山新光明寺は、然蓮社貞譽良記上人(鎌倉光明寺第十二世)の開基であり、 第八世生蓮社岌往上人がこの二ヶ寺を合併、二仏を一緒に安...
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建功寺-神奈川県横浜市鶴見区

・建功寺 曹洞宗 神奈川県横浜市鶴見区馬場1-2-1ご本尊 釈迦牟尼佛創立 永禄三年頃(1560年)御開山 大洲長譽大和尚開基 諏訪三河守右馬之助(五代目寺尾城主)(リンク先より) << 戻る
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瑞龍寺-静岡県静岡市葵区

・瑞龍寺 曹洞宗 静岡県静岡市葵区井ノ宮町48戦国時代の永禄3年(1560年)、能屋梵藝(のうおくぼんげい)和尚によって開創された曹洞宗の寺です。 能屋梵藝和尚は、現在の静岡市内の沓谷にありました「長源院」の四世・梵梅和尚(ぼんばいおしょう)の法嗣でもありました。(リンク先より) << 戻る
年表

桶狭間の戦い

1560年、桶狭間の戦い。織田信長が今川義元を滅ぼす。<< 戻る
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西王寺-大阪府高槻市

・西王寺 浄土宗 大阪府高槻市成合東の町6-1永禄3年(1560年)の創建で、元禄2年に現在地に再建。山間に抱かれるようにして建つ。現在の本堂と庫裏は、平成7年に建て替えられた。本尊は阿弥陀如来立像で、観音菩薩・勢至菩薩を脇士とする弥陀三尊形式。鎌倉時代後期の作と伝えられている。また珍しい釈迦誕生時の様子の「摩耶夫人像(木造 32センチ 立像)があり、江戸末期の作と伝えられている。(リンク先より)・西王寺<さいおうじ><< 戻る
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狩野元信(かのうもとのぶ)

室町時代の絵師。狩野派の祖・狩野正信の子で、狩野派2代目。京都出身。幼名は四郎二郎、大炊助、越前守、さらに法眼に叙せられ、後世「古法眼」と通称された。弟は雅楽助。 父・正信の画風を継承すると共に、漢画の画法を整理しつつ大和絵の技法を取り入れ、狩野派の画風の大成し、近世における狩野派繁栄の基礎を築いた。重要文化財四季花鳥図 (京都・大仙院) 8幅 紙本著色 京都国立博物館寄託禅宗祖師図 (東京国立博物館) 6幅 紙本墨画淡彩蔬果図 (東京国立博物館) 4幅 紙本墨画淡彩朱買臣図 (東京国立博物館) 2幅 紙本墨画淡彩山水図 (東京国立博物館) 4幅 紙本墨画淡彩太公望・林和靖図 (東京国立博物館...
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龍雲寺-和歌山県新宮市

・龍雲寺 曹洞宗 和歌山県新宮市三輪崎2-15-6名称  太興山 龍雲寺(たいこうざん りゅううんじ) 御本尊 延命地蔵菩薩御開山 静岡県伊豆最勝院8世 大用精賢大和尚(龍雲寺を開かれた方)永禄2年4月28日創建(リンク先より)※1559年 << 戻る
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法海寺-福島県いわき市

・法海寺
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慎福寺-三重県鈴鹿市

・慎福寺 真言宗豊山派 三重県鈴鹿市神戸2-19-8寺伝によると、永禄2年(1559年)法印紹盛上人の開基と伝わり、往時は七堂伽藍を備え、神福寺と称していました。のちに神戸城主織田信孝の祈願寺とされ、寺領六百六十石を受領し栄えたものの、江戸時代の大地震により焼失し、その後再建されて明治の廃仏毀釈の際に寺名を慎福寺と改称したと伝わっています。(リンク先より) << 戻る
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宝福寺-静岡県下田市

・宝福寺 浄土真宗本願寺派 静岡県下田市下田1-18-26永禄2年(1559)11月、信長の圧迫をのがれ、本願寺第11代顕如並に法孫釈了善、真言を改め開基。文久3年1月16日、宝福寺に滞在中の山内容堂に勝海舟が来山し、坂本龍馬の脱藩の罪の許しを乞い、許される。当日、龍馬は町の旅館にあって、その朗報を待っていた。(リンク先より) << 戻る
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織田信行(おだのぶゆき)

戦国時代の尾張の武将。同時代史料に見える諱は信行ではなく、信勝、達成、信成である。父は織田弾正忠家の織田信秀、母は土田御前で織田信長の同母弟である。 信行は、父の信秀の生前から尾張国内に判物を発給するなど一定の統治権を有した。信秀の死後は末森城主となって兄の信長と尾張の支配権を巡って争い、初期の信長の統治にとって大きな脅威となった。一時は信長に代わって弾正忠家の当主を名乗ったが、稲生の戦いで敗北し、その後、信長に謀殺された。信行の人物像について詳細は伝わらないが、信秀の葬儀において、信長が奇矯な行動をとった一方で、信行は礼儀に則った振舞いをしたという逸話がよく知られている。また、白山を信仰して...