
buddhism


9月18日は満月なので布薩の日です。月と地球のライフサイクルにとって満月と新月は転換点なので、その日に会わせて布薩の日、反省の日を設けています。これは少なくとも約2500年前のお釈迦様の時代から続く行事です。

今年2024年は閏年ですが、忌日表を閏年対応版から通常版に切り替えました。忌日表は百箇日までの忌日を一覧にしていますが、閏年は「2月29日」を含むのでズレてしまいます。影響の少ない時期と判断して変更しました。合掌▶ 中陰からの忌日表

その場所に行かなければ味わえないものがある。確かにそうかもしれません。しかし、仏や神という存在をどのように感じるかは個人差があると思いますが、私の場合、そこに行かなければ感じられないような仏や神は大したことないなと思います。どこにいても感じられる仏や神でなければ困ります。それくらい偉大な存在なはずです。

伝統を守ることは難しいですが、その心を伝えることはもっと難しいことです。お釈迦様から私のところまで仏教が伝わったことへの感謝を、正しく伝えることで恩返ししたいと感じています。合掌

祈願法要をおこなう時にはすべての人々、すべての生きものの幸せを祈った上で、特に依頼をいただいた祈願主のお名前と祈願内容を読み上げております。ご興味をいただいた方は毎月実施していますのでご検討いただければ幸いです。

現代日本では満月と新月を意識して生活する人は少なくなっていますが、海の潮の満ち引きをはじめ、地球に影響を与えています。インド文化圏では満月の日に祝日を設けている場合が多く、お釈迦様の誕生、成道、涅槃も満月の日に起きたと伝えられています。月の満ち欠けを重視する人の多くは、新月から満月に向かって人のパワーが強くなり、満月から新月に向かってパワーが衰えていくと考えています。科学的にどうかという話ではなく、そう考えている人が多くいるということは他者を理解する上で大事なことです。

Q「誰でも法要を実施できる動画は依頼をしないと効果はありませんか?」▶▶ A「依頼の有無に関わらず動画を使って法要を実施できます。祈りたいと思う当人、祈りを捧げる対象の方の間で気持ちが整うでしょう。大切な節目には、親族だけでなく、第三者であるお坊さん(寺院センター等)を介することで、公私ともに認められることになります。それは、より強い気持ち、安心感につながると法要依頼者から感謝のお声をいただいております。」

インドでミャンマー寺の宿坊に1ヶ月ぐらい寝泊りしていた時はそこのミャンマー人僧侶やインド人僧侶と行動を共にしていました。若いお坊さんがお経の練習帳を持っていたから聞いてみると、読んでも言葉が違うから分からないと。とにかく暗記するのだとか。日本で仏教批判する人の決まり文句で「上座部仏教は生きている人にお経を聞かせている」と言うけれど、日本も聞いただけじゃ分からないお経を読んでいるのと上座部仏教のそれと大差ないと現地で実感。

誰でも布薩法要を実施できる動画は略式の布薩法要です。略さない場合の布薩法要は多くの仏様やそこから連なって来た祖師に対する礼拝部分が多くあります。そこまで動画に含めると体験してみようとか、継続してやってみようとか、一般の方への敷居がかなり上がってしまうので、本格的なものは出家してからで大丈夫です。お釈迦様の時代にも出家者の布薩と在家者の布薩は区別されていたんですよ。

9月18日は満月🌕なので布薩法要の日です。公開している動画の中にも出てきますが、嘘を言ってはいけない、正しい言葉を使いなさいという内容があります。当然なのですが、これが中々難しいのが人間です。せめて自分に正直に生きたい。失敗したとしても、反省する機会を持とう、、、それが布薩法要であり、反省の日の大事なところです。

祈願は自分の望む前向きな気持ちを宣言する法要です。「こうしたい」「こうなりたい」「こうなってほしい」という気持ちを祈願法要という形で表現する機会です。その結果、力を発揮することになるのは祈願主です。お経の力で願いを叶える訳ではありません。お坊さんはそれを祈る表現方法を知っているだけです。しかし、そうでもしないと、気持ちを形に出来なかったり、スタートを切れなかったりするのだと思います。大丈夫です。随時、祈願法要依頼を受付中です。

人は様々な主義主張を持っています。例えば、12星座占いや何月に生まれた人の運勢は~と毎日のようにテレビやネットで更新されていますが、エンタメとして見ている人も多いと思いますが、自分に当てはまるものを見聞きして、それに影響する人も一定数います。そのような状況も世の中の流れを変えています。○○した方が良いと分かっていたとしても、何らかの情報によって影響する人がいれば、○○でない状況も生まれてしまうのです。このように、占いだったり、インフルエンサーだったりの示す方向に動くこともあるのですが、一人ひとりが正しいと思うことを日々実行することが第一です。

実父が亡くなってから写経した般若心経と戒名授与之証を棺桶に納めました。葬儀告別式もはじめは自分で勤めようかと考えたものの、泣いてしまいそうなので住居近くの御寺院様に勤めていただきました。その後の供養は皆さまのご依頼の法要とともに実施しています。

今は供養や戒名授与、祈願、布薩などの受付を強化しています。少し前までは、仏教を一緒に学ぶことを優先したウェブサイトのつくりにしていました。今年の7月に実父が亡くなったことを機に、供養したい気持ちの時にサポートしてくれるような、誰でも費用は安く、安心して依頼できる法要は必要だと考え直したからです。一緒に仏教で心と身体を整えましょう。

師寮寺には不動明王堂があり毎朝決まった時間に祈祷太鼓で般若心経と不動尊祈り経を唱えていました。何とも言えないのですが、太鼓にお経が乗る様は気分が上がるというか、太鼓で読経することは難しそうに見えて、どちらかと言えば自分に合っているなと感じていました。

首から鉦(かね)を下げ、鉦を叩くための撞木(しゅもく)と鹿の角のついた杖をもち、草鞋履きで歩く姿の彫像が残る阿弥陀聖、市聖、市上人と称される空也上人の本日は命日です。

五感のうちの一つ、触感。例えば鍋を洗う時、見た目はきれいだと思っても、手で内側を触ると汚れによる凹凸があって、もう一度洗うということがあります。視覚にも限界があるので、手で確かめる。これと似たようなことは生活の中でいくつもあるはずです。

お釈迦様の最後の旅(ブッダ最後の旅)は仏教の古典ですが、ペットとしてではないですが猫が登場します。同じくスッタニパータには犬が登場します。身近な生きものなのは今も昔も変わりません。

「眼・耳・鼻・舌・身」は「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚」の五つの感覚、五感と対応する言葉ですが、そこで得られた情報は頭の中で処理され、その影響を受けて私たちの動きは変わります。ボーっと感じていると、ボーっと生きることになります。感覚が鋭いと、生き方も変わります。しかし、簡単には人生変わりません。感じて、行動して、感じて、行動しての繰り返しでようやく思うように動けるようになります。勉強、仕事、修行、どれも基本はここにあります。

お坊さんの見習いにはまずお経の暗記が求められます。そこから成長していない住職が多くては困ります。お経の内容なんてどうでもいいと思う僧侶が多くては困ります。お経の内容を知っていて、説明出来て、あるいは行動で示して、はじめて僧侶として認められます。

お経はただ唱えればいいというものではありません。その作法は正しくても、そこに心が無ければいけないのです。素晴らしい内容を読んでいても、その意味を知らずに呪文のように読んでいてはいけません。大切なものを見失わないよう取り組むことはやりがいのあることです。

ペットと言っても多種多様です。私の師匠の寺では野良犬を保護して育てていました。亡くなった時は境内の一画に埋葬して、毎朝、線香を供え、お経上げて供養していました。私のペット供養の原点です。

一人ひとりが祈ることで心を整理する機会になって欲しいと動画を公開し、各種法要依頼を受け付けています。心を整えることで気兼ねなく生活を送ることが大事だと考えています。

あと、供養動画は形式的でもあります。伝統仏教が伝えて来た法要そのままという意味で形式的です。例えば、すべてを現代語にすることもできますし、歌にすることも出来るでしょう。しかし、形式を崩しては伝統仏教ではなくなってしまうところもあります。多くの人に認められてきた形です。形式的なものに気持ちを込めたら力強いものになりました。

法要について、形式だけでは心が伴わないことがあります。「命日になるから供養しなければいけない」と感じるのであれば少し休憩しましょう。そんな義務感や形式ではなく、供養したいと思う気持ちが大事です。心が伴わない供養は意味がありません。供養動画は気持ちを込めて公開しています。

誰でも祈願法要を実施できる動画(表白→偈文→般若心経/祈祷太鼓→回向)
祈願法要依頼方法


以前、YouTubeでお経動画を公開していた時は、こんなお経もできる、この宗派も対応できる、というように選択と集中が上手くいかずに公開を打ち切っていました。今はシンプルに考えて、誰でも利用してもらえるお経動画を編集中です。

伝統仏教にも問題があります。供養にしても、祈願にしても、布薩にしても、単なる儀式になってしまっている寺院が多くなっています。一人ひとりの気持ちの現れとしての、供養、祈願、布薩であってほしい、そういう場所を残さなければという思いで寺院センターの各種依頼を提供しています。合掌

獅子吼(ししく)
獅子吼とは、ブッダが説法する様子を獅子のほえる様子にたとえたものです。ブッダが大衆に恐れることなく説法することをいいます。師子吼とも書かれます。一般的に使われる場合、雄弁をふるうこと、意気盛んな大演説をすること等の意味で使われます。・「尊き師(ブッダ)はその時僧衆にうやまわれ、獅子が林の中で吼えるように修行僧(比丘)らに法を説いておられた。」(スッタニパータ 1015偈)<< 戻る
