buddhism

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林照寺-滋賀県高島市

・林照寺 浄土真宗本願寺派 滋賀県高島市新旭町饗庭2454由来によると、親鸞聖人がご存命の鎌倉時代には寺院が建立されておりましたが、正式に「林照寺」という寺号をいただいたのは、寛永17年(1640年)であります。 以来、滋賀県高島市新旭町にて代々継がれているお寺であります。(リンク先より) << 戻る
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宗門改と寺請檀家制度を実施

1640(寛永一七)年、江戸幕府、宗門改役を設置し、宗門改と寺請檀家制度が実施される。宗旨人別帳作成。<< 戻る
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賢明寺-福岡県豊前市

・賢明寺 浄土真宗本願寺派 福岡県豊前市八屋1347もともとは禅宗の寺院であったが、寛永16年(1639年)本願寺より免許をうけたという。(リンク先より) << 戻る
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永泉寺-秋田県由利本荘市

・永泉寺 曹洞宗 秋田県由利本荘市出戸町給人町44―開創― 寛永16年(1639年)―開山― 道叟道愛 (現在 四十二世)―開基― 本荘初代藩主 六郷兵庫頭政乗公―本尊― 聖観世音菩薩(リンク先より) << 戻る
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高家寺-岐阜県各務原市

・高家寺 高野山真言宗 岐阜県各務原市那加北洞町1-390高家寺の縁起には二つの系統があります。一つ目は江戸時代初期 寛永十六(1639)年譜代大名として初めて松平の姓を認められた戸田松平家の姫(二の丸姫)の発願、播州明石の蓮台寺住職の祐加上人の開基岐阜加納の地に創建された高家寺(こうけじ)です現在の高家寺はこの系統を直接受け継いでいます 二つ目は岐阜県飛騨地方で最も古い寺院高家寺(たきへでら:たきへじ)です白鳳時代に創建されましたが何らかの理由で廃寺になりました(壽樂寺廃寺)高家寺は銀杏大師を始め現在も飛騨と縁が深いお寺ですそれ故に飛騨最古のお寺の復興の意味も込めています(リンク先より)<<...
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ポルトガル船の来航を禁止

1639年、ポルトガル船の来航を禁止する。→鎖国の完成。<< 戻る
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三松寺の再建立

江戸時代、大和郡山藩城代家老松平将監供養の為、寛永16年(1639)現在の七条の高台に士族寺として再建立。(参考:瑞雲山 三松寺)
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知恩院、諸堂の再建

1639年(寛永16年)、諸堂の再建なる(御影堂・大小方丈など)。知恩院の火災について三代将軍徳川家光公に報告し、再建の命を下し、片桐貞昌を造営奉行として復興が行われました。1639年(寛永16年)5月には御影堂立柱、同年7月上棟となり、その後約2年で大・小方丈、唐門などを含めた現在の伽藍が再建されました。<< 戻る
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島津忠恒(しまづ ただつね/家久/いえひさ)

安土桃山時代から江戸時代前期の武将、外様大名。薩摩藩初代藩主。通称は又八郎。『絵本太閤記』には島津亦七郎忠常とある。 戦国大名として島津氏を成長させた島津貴久の孫にあたり、島津義弘の子。最初の妻・亀寿は島津義久の娘で、初め忠恒の兄である久保と結婚したが、久保の死後に忠恒と結婚した。後に家久(いえひさ)と改名するが、同名の叔父が存在する区別のために初名の忠恒で呼ばれることが多い。生誕 天正4年11月7日(1576年11月27日)命日 寛永15年2月23日(1638年4月7日)慈眼院殿花心琴月大居士<< 戻る
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龍善寺-東京都新宿区

・龍善寺龍善寺 真宗大谷派 東京都新宿区早稲田町77龍善寺は江戸時代初め1638年に創建されました。 宗派は、親鸞聖人を宗祖とする真宗(浄土真宗)大谷派(いわゆる「お東」)であり、本山は、京都・東本願寺になります。当寺の本尊は、親寺である三河(現在の愛知県岡崎市)の「上宮寺」より移された阿弥陀如来像であり、約800年前の鎌倉時代初期の作と言われ、新宿区の文化財に指定されております。(リンク先より) << 戻る
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願成寺-宮城県塩竃市

・願成寺 臨済宗妙心寺派 宮城県塩竈市錦町3-5寺伝によると、願成寺は14世紀初頭、松島青龍山瑞厳圓福禅寺七世霊厳道昭和尚を拝請して開山とし、臨済宗建長寺派下円覚寺末寺となりました。寛永15年8月10日、瑞巌寺中興九十九世雲居希膺禅師が入寺されたと伝え、この時から瑞巌寺と同様妙心寺派に属したようです。(リンク先より)※寛永15年 1638年 << 戻る
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本多正純(ほんだまさずみ)

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。江戸幕府の老中。下野国小山藩主、同宇都宮藩主(第28代宇都宮城主)。本多正信の長男で、正信系本多家宗家2代。 徳川家康の側近であったが、徳川秀忠の代に失脚した。生誕 永禄8年(1565年)命日 寛永14年3月10日(1637年4月5日)慧光院殿鐵顔宗智大居士<< 戻る
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本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)

江戸時代初期の書家、陶芸家、蒔絵師、芸術家、茶人。通称は次郎三郎。書は寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる。生誕 永禄元年(1558年)命日 寛永14年2月3日(1637年2月27日)<< 戻る
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島原の乱

1637年、島原の乱。肥前(長崎県)の島原半島と肥後(熊本県)の天草地方に起こった農民一揆。幕府のキリシタン弾圧と領主のきびしい政治に対し、益田四郎時貞(天草四郎)を首領として一揆を起こした。<< 戻る
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五人組の制

1637年、五人組の制をきびしくする。<< 戻る
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伊達政宗(だてまさむね)- 独眼竜政宗

出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主である。 幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。生誕 永禄10年8月3日(1567年9月5日)(グレゴリオ暦1567年9月15日)命日 寛永13年5月24日(1636年6月27日)瑞巌寺殿貞山禅利大居士<< 戻る
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酒井忠世(さかいただよ)

江戸時代初期の大名。江戸幕府の老中、大老。上野那波藩主、伊勢崎藩主を経て厩橋藩の第2代藩主。雅楽頭系酒井家7代。 後世に成立した新井白石『藩翰譜』や『武野燭談』などの史料から、土井利勝や青山忠俊と共に家光が師事したとされる「三臣師傅説」に数えられている。生誕 元亀3年6月5日(1572年7月14日)命日 寛永13年3月19日(1636年4月24日)隆興院発向源真居士<< 戻る
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生往寺-福岡県北九州市小倉北区

・生往寺 浄土宗 福岡県北九州市小倉北区京町4-4-37宝蓮山生往寺は、浄土宗峯高寺の末寺として寛永13年(1636)に、今の小倉北区京町に創建されました。その後、宝暦13年(1763)に大阪町に再建され、明治43年(1910)にかつて峯高寺のあった今の地に移転。現在に至っています。生往寺開山上人は真蓮社明誉上人。元和元年に開山されました。(リンク先より) << 戻る
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敬相寺-秋田県秋田市

・敬相寺 浄土真宗本願寺派 秋田県秋田市大町5-7-2江戸時代の初期、寛永13(1636)年、西本願寺十三代良如上人が、同派の地方別院として建立した御坊である。西本願寺の御掛所(おんかけしょ)、御兼帯所(ごけんたいしょ)とも称され、別院として京都の本山から輪番の僧が派遣され、末寺を取り仕切った。開創当初には本山から善察を輪番に下向させ、三年後の寛永16(1639)年には浄円を派遣した。(リンク先より) << 戻る
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智泉院-東京都中央区

・智泉院 天台宗 東京都中央区日本橋茅場町1-5-13寛永12年(1635年)の開山。千代田区永田町の日枝神社の摂社である日本橋摂社の別当寺として創建。本尊の薬師如来は、恵心僧都源信の作で、天海僧正が日本橋摂社の本地仏として勧請したものといわれています。明治時代の神仏分離により日本橋摂社から切り離され、独立寺院になりました。 << 戻る
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浄信寺-愛知県名古屋市中村区

・浄信寺 真宗大谷派 愛知県名古屋市中村区名駅5-20-3真宗大谷派 浄信寺開基:利賢 寛永12(1635年)(リンク先より) << 戻る
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日本人の海外渡航を禁じ、御朱印船を廃止

1635年、日本人の海外渡航を禁じ、御朱印船を廃止する。<< 戻る
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参勤交代が制度化

1635年、大名の参勤交代が制度化される。3代将軍徳川家光のとき。大名は1年おきに江戸と領地を往復。妻子は常に江戸に居住。<< 戻る
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見星寺-大分県臼杵市

・見星寺 臨済宗妙心寺派 大分県臼杵市大字田町277寛永十一年(1634年)四月より法灯を護持し、令和元年で創建三百八十五年になります。(リンク先より) << 戻る
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光恩寺-京都府京都市下京区

・光恩寺ホームページ 浄土真宗本願寺派 京都府京都市下京区西中筋通六条下る住吉町30親鸞聖人御染筆名号一幅、 覚如上人御染筆二幅を供奉し、京都に上京し、烏丸五条に居住し、法名を祐心と改め道場を仮説し、 寛永十年十二月光恩寺と寺号を公称し、是を光恩寺初代となし、累世相続し、現在に及ぶ(リンク先より)※寛永十年 1633年 << 戻る
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佐竹義宣(さたけよしのぶ)

戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。出羽国久保田藩(秋田藩)初代藩主。佐竹義重の長男。母は伊達晴宗の娘。伊達政宗は母方の従兄にあたる。官位は従四位上・左近衛中将、右京大夫。佐竹氏19代当主。生誕 元亀元年7月16日(1570年8月17日)命日 寛永10年1月25日(1633年3月5日)浄光院殿傑堂天英大居士<< 戻る
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養源寺-鳥取県鳥取市

・養源寺 浄土真宗本願寺派 鳥取県鳥取市職人町45御本尊  阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)開基  慶心大和尚(俗名 上田半蔵) 遷移  岐阜県大垣市→愛知県豊橋市→岡山市→鳥取市(1633年)(リンク先より) << 戻る
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海禅寺-愛媛県今治市

・海禅寺 臨済宗妙心寺派 愛媛県今治市山方町2-甲1167当寺院はそもそも「海會寺(かいえじ)」という名前で、戦国乱世の間、長年に渡り荒廃していましたが、江戸時代前期の寛永十年(1633年)に入り、天嶺玄嶝(てんれいげんとう)和尚を開山住職として迎え、今治藩主・藤堂高吉公から免許状を拝領して海禅寺と名を改めて開創されました。(リンク先より) << 戻る
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本覚寺-和歌山県西牟婁郡

・本覚寺(貝寺) 浄土宗 和歌山県西牟婁郡白浜町瀬戸627本覚寺の創建について、詳細は残っておらず、応仁年間(1467~69年)との一説もありますが、過去帳によると、寛永10年(1633年)から始まったとされています。旧記によれば、古来白良浜(白浜町)の奥寺谷にあった真言宗のお寺を、元禄年間に現在の瀬戸に移し、その際に浄土宗に改宗したとされています。(リンク先より) << 戻る
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勢至堂、経蔵、三門以外の建物が焼失

1633年(寛永10年)、知恩院で火災が発生し、勢至堂、経蔵、三門以外の建物が焼失してしまいました。その時の様子が、当時知恩院の山役で、塔頭(たっちゅう)良正院の宗把(そうは)上人の手記に詳細に書かれています。「正月九日亥の刻(午後10時)火が出て、私は一番に方丈に入り火の元に行ったが、すでに小方丈北側半分まで火が移っていた。霊巌上人は猛火の中に飛び込もうとしていたのでそれをなだめ、人を付けてお護りした。私は奥に入り権現様や秀忠公ご拝領の品などを持ち出した。御影堂に延焼するのを防ぐ為、霊巌上人や寺内の衆、一心院住持、近辺の衆と共に御影堂北側の廊下を切り離そうとした。そこへ周防守様の御家中木下宮...
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徳川秀忠(とくがわひでただ)

安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍(在職:1605年 - 1623年)。徳川家康の三男として遠江国浜松に誕生する。母は側室の西郷局。母の実家・三河西郷氏は土岐氏一族で、室町初期には三河守護代を務めたこともある名家であり、当時も三河国の有力な国人であった。乳母・大姥局によって養育される。同母弟に関ヶ原の戦いで活躍した松平忠吉がいる。秀忠が誕生してから5か月後に長兄・信康が切腹している。次兄である秀康は豊臣秀吉に養子として出され、のちに結城氏を継いだため、母親が三河国の名家出身である秀忠が実質的な世子として処遇されることになった。生誕 天正7年4月7日(1579年5...
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蔭凉寺-岡山県岡山市北区

・蔭凉寺 臨済宗妙心寺派 岡山県岡山市北区中央町10-28大樹山蔭凉寺(だいじゅざん いんりょうじ)は寛永9年創建の禅宗寺院で、臨済宗妙心寺派に属します。葬儀中心の仏教に留まらず「今を、どう生きるか」をテーマに、音楽やアートによる「豊かな心」創りに取り組んでおり、安心(あんじん)への方便として、様々な文化活動を行っています。(リンク先より)※寛永9年 1632年 << 戻る