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近松門左衛門「曽根崎心中」

1703年、近松門左衛門が「曽根崎心中」を著す。<< 戻る
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上正寺-神奈川県茅ヶ崎市

・上正寺 浄土真宗本願寺派 神奈川県茅ヶ崎市小和田2-12-73元禄十五年(1702)僧 圓春 の記せし 境内太子堂縁起 によるに、圓融院 第四皇子 尊勝法親王 郡中寺尾郷(市内小出町)に一宇を建て、海圓院と号し、顕密兼学の道場とす。 文治年中(1185~1189)当村に移れり。 後、嘉禄年中(1225)住僧 了智坊道圓(佐々木四郎高綱公)親鸞聖人(浄土真宗の開祖 1173~1262) に国府津に謁し、其の宗法に帰依し今の宗派に改む。 因りて 了智坊 を宗の開祖とす。其の頃 親鸞聖人 寺号を 無上正覚寺 と名づく。  後、寺務を 智圓に譲り、信州松本に 正行寺 を建て、仁治二年(1241)二月...
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願正寺-佐賀県佐賀市

・願正寺 浄土真宗本願寺派 佐賀県佐賀市呉服元町6-5慶長5年(1600)関ヶ原合戦のとき、後の佐賀藩初代藩主鍋島勝茂は、西軍(豊臣方)に加わったが、敗北し進退に窮した。この謝罪について、西本願寺の准如上人などが中に入り、佐賀藩は事無きを得た。その恩顧に報いるため創立されたものである。それ以後、肥前領内の真宗寺院並びに門信徒は全て西本願寺派となり願正寺はその中心寺院として、肥前国総道場と称された。現本堂は1702年に建立。(リンク先より) << 戻る
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赤穂浪士があだ討ちをする

1702年、赤穂浪士があだ討ちをする。<< 戻る
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徳川光圀(とくがわみつくに)

常陸水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られる。 諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」。水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。生誕 寛永5年6月10日(1628年7月11日)命日 元禄13年12月6日(1701年1月14日)<< 戻る
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浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)

播磨国赤穂藩3代藩主。官位は従五位下、内匠頭。官名から浅野内匠頭と呼称されることが多い。江戸城本丸大廊下にての刃傷とそれに続く赤穂事件で広く知られる。生誕 寛文7年8月11日(1667年9月28日)命日 元禄14年3月14日(1701年4月21日)冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士<< 戻る
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契沖(けいちゅう)

江戸時代中期の真言宗の僧であり、古典学者(国学者)。11歳で摂津国東成郡大今里村(現在の大阪市東成区大今里)の妙法寺の丯定(かいじょう)に学んだ後、高野山で東宝院快賢に師事し、五部灌頂を受け阿闍梨の位を得る。摂津国西成郡西高津村(現在の大阪市天王寺区生玉町)の曼陀羅院の住持となるが、高野山に戻り、円通寺の快円に菩薩戒を受け、和泉国和泉郡久井村(現在の和泉市久井町)の辻森吉行や同郡万町村(現在の和泉市万町)の伏屋重賢のもとで、仏典、漢籍や日本の古典を数多く読み、悉曇研究も行う。延宝5年(1677年)に延命寺・覚彦に安流灌頂を受ける。延宝7年(1679年)に妙法寺の住持となる。『万葉集』の解釈を進...
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河村瑞賢(かわむらずいけん)

江戸時代初期の政商。幼名は七兵衛、通称は平太夫、諱は義通。生年を元和3年(1617年)とする説もある。江戸幕府の土木工事の人夫頭などで徐々に資産を増やすと、材木屋を営むようになり、明暦3年(1657年)、明暦の大火の際には木曽福島の材木を買い占め、土木・建築を請け負うことで莫大な利益を得た。寛文年間に老中で相模国小田原藩主稲葉正則と接触、幕府の公共事業に関わっていく。幕府代官所などが管轄する年貢米を奥州から江戸へ輸送する廻米には、本州沿いの海運を利用し、危険な犬吠埼沖通過を避け、利根川河口の銚子で川船に積み換えて江戸へ運ぶ内川江戸廻りの航路が使われていた。幕命により瑞賢は、寛文11年(1671...
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禅林寺-東京都三鷹市

・霊泉山 禅林寺 公式ホームページ 黄檗宗 東京都三鷹市下連雀4-18-20元禄十二年(一六九九)八月台風のために建物が倒壊したので、松之坊は寺社再建不可能のために寺社地を村方へ返還した。 そこで村方一同は協議の末、江戸本所石原に在った黄檗宗賢洲元養禅師に寺社建立のことを懇請した。(リンク先より) << 戻る
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長建寺の起こり

元禄12(1699)、伏見奉行建部内匠頭政宇が中書島を開拓するにあたり、深草大亀谷即成就院の塔頭多門院を当地に移し、弁財天を祀ったのが当寺の起こりで、寺名は建部氏の長寿を願って名付けられた。<< 戻る
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覚苑寺-山口県下関市

・覚苑寺 黄檗宗 山口県下関市長府安養寺3-3-10当山は長府藩主第三代毛利綱元公が、元禄11年(1698年)、黄檗山万福寺の第七代住持であった中国僧、悦山道宗禅師を勧請開山として迎え創建した黄檗宗の寺院です。もともと、当山の前身は市内綾羅木にあった古刹元享山利済寺でしたが、それを現在地に移し、名を法輪山覚苑寺と改められました。(リンク先より) << 戻る
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円通寺-岡山県倉敷市

・円通寺 曹洞宗 岡山県倉敷市玉島柏島451現在の倉敷市玉島の地に行基菩薩によって星浦観音の霊場が開創され、 その後、元禄11年(1698年)徳翁良高禅師によって曹同宗寺院として開山されました。(リンク先より) << 戻る
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大年寺-宮城県仙台市太白区

・大年寺 黄檗宗 宮城県仙台市太白区門前町3-22元禄9年(1696)11月、第四代仙台藩主伊達綱村公が鍬入れの式を行って茂ケ崎の地を拓き、宮城郡若林にあった廃寺小蓬山仙英寺の遺址を此処に移して新たに堂塔を建設し、両足山大年寺と号しました。同10年(1697)、下総國向島弘福寺普應鐡牛和尚を請うて開山始祖とし、8月、落慶の祝典を挙げました。(リンク先より) << 戻る
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引接寺-茨城県那珂市

・引接寺 浄土宗 茨城県那珂市額田南郷429元禄9年(1696)に、水戸黄門で知られている徳川光圀公により、浄鑑院常福寺の末寺として建立されました。ご本尊阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩は、茨城県の指定文化財となっています。(リンク先より) << 戻る
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松尾芭蕉(まつおばしょう)

江戸時代前期の俳諧師。伊賀国阿拝郡出身。幼名は金作。通称は甚七郎、甚四郎。名は忠右衛門、のち宗房。俳号としては初め宗房を、次いで桃青、芭蕉と改めた。北村季吟門下。伊賀上野(現:三重県上野市赤坂町)の下級武士松尾与左衛門の次男として生を受ける。幼名金作、長じて甚七郎または忠左衛門。兄姉が一人ずつ、妹が三人の六人兄弟。元来、松尾家は伊賀国柘植郡に代々住した平家末流の土豪、柘植七族の支流である。父は伊賀藤堂家の無足人として伊賀上野に来住、手習師匠などを生業としていた。若き日を藤堂良忠に仕える。良忠は北村季吟の教えを受ける俳人であり、そこから俳諧への目を開いていったと思われる。処女発句集『貝おほひ』で...
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菱川師宣(ひしかわもろのぶ)

江戸時代の画家。生年は寛永7年から8年ともいわれる。享年64-65あるいは77。浮世絵の確立者であり、しばしば「浮世絵の祖」と称されるのは、それまで本の挿絵でしかなかった浮世絵版画をひとつの作品と捉え直し、「浮世絵」というジャンルを確立したため。「見返り美人図」生誕 元和4年〈1618年〉命日 元禄7年6月4日〈1694年7月25日〉勝誉即友居士<< 戻る
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三井高利(みついたかとし)

江戸時代の商人である。通称は八郎兵衛。三井家(のちの三井財閥)の基礎を築いた。三井中興の祖と言われる。「現金掛け値なし」で呉服の廉価販売を始め、また呉服は反物単位で売るという当時の常識を覆して切り売りをし、庶民の大人気となった。生誕 元和8年(1622年)命日 元禄7年5月6日(1694年5月29日)松樹院長誉宗寿居士<< 戻る
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井原西鶴(いはらさいかく)

江戸時代の大坂の浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳諧師。別号は鶴永、二万翁、西鵬。 『好色一代男』をはじめとする浮世草子の作者として知られる。談林派を代表する俳諧師でもあった。代表作『好色一代男』(1682年)『好色一代女』(1686年)『日本永代蔵』(1688年)『世間胸算用』(1692年)生誕 寛永19年〈1642年〉命日 元禄6年8月10日〈1693年9月9日〉<< 戻る
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土佐光起(とさみつおき)

江戸時代の土佐派を代表する絵師。和泉国堺出身。父は土佐光則。本姓は藤原、幼名は藤満丸。住吉如慶は父の門人。子は土佐光成、土佐光親。大和絵の主流だった土佐派にあきたらず、ライバルの狩野派や宋元画を学び、従来の温雅なやまと絵に克明な写生描法を取り入れ、江戸時代の土佐派様式を確立した。特に南宋の院体画家李安忠の「鶉図」(国宝。現在は根津美術館蔵)を父譲りの細密描法を用いてしばしば描き、後の土佐派の絵師たちに描き継がれている。江戸中期の国学者、有職故実家である橋本経亮は著書『梅窓筆記』(享和元年(1801年))で、光起の鶉の絵に猫が飛びかかったという伝承を記している。また画題の面でも、風俗画や草木図な...
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熊沢蕃山(くまざわばんざん)

江戸時代初期の陽明学者である。諱は伯継、字は了介、通称は次郎八、後に助右衛門と改む、蕃山と号し、又息遊軒と号した。寛永19年(1642年)伊予国大洲藩を致仕し郷里の近江国小川村(現・滋賀県高島市)に帰郷していた中江藤樹の門下に入り陽明学を学ぶ。寛永18年(1641年)全国に先駆けて開校した藩校「花畠教場」を中心に活動した。正保4年(1647年)には側役、知行300石取りとなる。慶安2年(1649年)には光政に随行し江戸に出府する。慶安3年(1650年)鉄砲組番頭、知行3,000石の上士に累進。慶安4年(1651年)庶民教育の場となる「花園会」の会約を起草し、これが蕃山の致仕後の寛文10年(16...
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東光寺-山口県萩市

・東光寺 黄檗宗 山口県萩市椿東1647吉就は慧極のために寺を建てようとしたが、当時は新寺の建立が禁止されていたので、下関(厚狭郡松谷村)の廃寺であった東光寺(本尊薬師如来)を、家臣の別荘地であった萩松本の土地を買い取って移した。この東光寺創建は元禄四年(1691年)のことである。(リンク先より) << 戻る
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福満寺-愛知県豊田市

・福満寺 浄土宗 愛知県豊田市金谷町5-86元禄四年(1691年)、田地山福満寺が創建される。<< 戻る
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浅井了意(あさいりょうい)

江戸時代前期の浄土真宗の僧・仮名草子作家。父は東本願寺の末寺本照寺の住職。本名は不詳。号は松雲・瓢水子・羊岐斎。京都の出身。代表作品は「御伽婢子」(おとぎぼうこ)、「浮世物語」、「本朝女鑑」、「江戸名所記」、「東海道名所記」、「京雀」など。晩年に京都二条の本性寺の住職となり、昭儀坊了意と名乗った。生誕 命日 元禄4年1月1日(1691年1月29日)<< 戻る
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建福寺-福島県郡山市

・建福寺 臨済宗妙心寺派 福島県郡山市西田町木村字寺ノ前14当山は敕謚大光禅師覆庵宗己大和尚を歓請開山に頂き、開基は、慈雲意公首座和尚である。開創は定かではないが東北横断自動車道遺跡調査報告15(木村舘跡)によると、天正11年木村領主木村越中守が滅亡後、三春領家臣橋本刑部がこの地を治めた。その時、人心を治めるため福聚寺より首座和尚の慈雲意公和尚が錫を止めたのであろうと考えられる。元禄三年、二世中興是心悟公首座和尚が、東西七軒南北四軒三尺の本堂を建てた。(リンク先より)※元禄三年 1690年 << 戻る
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三条別院-新潟県三条市

・三条別院 真宗大谷派 新潟県三条市本町2-1-57三条別院は今から遡ること300年以上前、元禄3年(1690年)に三条の地に創立されました。越後の門徒たちの総力により、寺院の主要な七つの建物である「七堂伽藍(しちどうがらん)」を完備。「北陸で随一の寺院」と称されました。建物は二度の大火に見舞われて焼失しますが、その都度、越後と佐渡の門徒の力によって再建されてきました。(リンク先より) << 戻る
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聖堂を湯島に移し、昌平坂学問所を付設

1690年、聖堂を湯島に移し、昌平坂学問所を付設する。<< 戻る
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紫雲山常光寺-大阪府門真市

・紫雲山常光寺 浄土真宗本願寺派 大阪府門真市野里町24-5惣道場としての成立は江戸初期。 元禄2年(1689)に阿弥陀如来と寺号が許可され、元禄11年には、「親鸞聖人御影」と「七高僧御影」を寂如上人(西本願寺14代宗主)より授受し、江戸中期に道場から寺院に発展いたしました。 その後、天明4年(1784)には、法如上人(西本願寺17代宗主)より、「蓮如上人御影」が許可されました。(リンク先より) << 戻る
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松尾芭蕉「奥の細道」

1689年、松尾芭蕉が「奥の細道」を著す。 << 戻る
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天福寺-長崎県長崎市

・天福寺 曹洞宗 長崎県長崎市樫山郷887元禄元年(一六八八年)深堀菩提寺七世「天瑞萬奇大和尚」が天福寺を開山する。当時この地域の住民の殆どがキリシタン信者であり、寛永十七年(一六四〇年)の寺請檀家制度の実施により、大村藩主第二十二代純長は承応二年(一六五三年)真宗「光照寺」(神浦)、万治三年(一六六〇年)真宗「正林寺」(三重)を建立した。深堀藩鍋島茂春も飛び地領であった樫山に天福寺を建立せざるを得なかった。(リンク先より) << 戻る
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全性寺-群馬県太田市

・全性寺 真言宗豊山派 群馬県太田市大原町371宮林山 全性寺(ぐうりんざん ぜんしょうじ)と読みます。本堂に御本尊 大日如来をおまつりしております。 貞享4年3月21日(1687年)、新田郡新田町の大慶寺第十五世 住職教寛の弟子で全性法印(舜祐和尚)によって開基されました。(リンク先より) << 戻る
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生類憐みの令

1687年、生類憐みの令が出される。<< 戻る
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元禄文化が盛ん

1687年、このころ、元禄文化が盛ん。 << 戻る