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安藤信正(あんどうのぶまさ)

江戸時代後期の大名。陸奥国磐城平藩5代藩主。官位は従四位下・侍従、長門守、対馬守。対馬守系安藤家10代。幕末に若年寄、次いで老中を務めた。生誕 文政2年11月25日(1820年1月10日)命日 明治4年10月8日(1871年11月20日)謙徳院殿秀譽松巌鶴翁大居士<< 戻る
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宗旨人別帳、寺請檀家制度廃止

1871(明治四)年4月、戸籍法改正され宗旨人別帳、寺請檀家制度廃止。<< 戻る
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毛利敬親 / 慶親(もうり たかちか / よしちか)

長州藩の第13代藩主。敬親は幕末の混乱期にあって有能な家臣を登用し活躍させ、また若い才能を庇護することで窮乏していた長州藩を豊かにし幕末の雄藩に引き揚げ、結果として明治維新を成し遂げるきっかけを作った人物としても有名である。生誕 文政2年2月10日(1819年3月5日)命日 明治4年3月28日(1871年5月17日)<< 戻る
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伊東玄朴(いとうげんぼく)

江戸時代末期(幕末)から明治にかけての蘭方医。江戸幕府奥医師。名は淵。近代医学の祖で、漢方医が主流の中で、官医界における蘭方の地位を確立。伊東玄朴の墓は台東区谷中の天竜院にある。生誕 寛政12年12月28日(1801年2月11日)命日 明治4年1月2日(1871年2月20日)師天院素行然僕居士<< 戻る
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廃藩置県

1871年、当初3府302県に分かれ、新しく府知事・県令をおいたが、後に3府72県に統合した。<< 戻る
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高野山の寺領を国へ返す

明治四年(1871年)、高野山の寺領や寺有林も政府に返上し、経済的地盤も失いました。 << 戻る
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小松帯刀清廉(こまつたてわききよかど)

幕末の薩摩藩家老、政治家。前名は肝付 兼戈。通称は尚五郎のちに帯刀。維新の十傑の1人。吉利領主。 薩摩藩を雄藩に押し上げた藩政改革と幕末政局(薩長同盟、大政奉還など)において重要な役割を果たした。生誕 天保6年10月14日(1835年12月3日)命日 明治3年7月20日(1870年8月16日)<< 戻る
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大村益次郎(おおむらますじろう)

幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者。維新の十傑の一人に数えられる。 長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。生誕 文政7年5月3日(1824年5月30日)命日 明治2年11月5日(1869年12月7日)<< 戻る
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土方歳三(ひじかたとしぞう)

幕末期の幕臣、新選組副長。蝦夷島政府 陸軍奉行並。 諱は義豊、雅号は豊玉、家紋は左三つ巴。 新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として組織を支え、戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、またいわゆる「蝦夷島政府」では、軍事治安部門の責任者に任ぜられて指揮を執った。生誕 天保6年(1835年)命日 明治2年5月11日(1869年6月20日)歳進院殿誠山義豊大居士<< 戻る
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都を東京に移す

1869年、都を東京に移す。<< 戻る
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版籍奉還

1869年、大名支配の土地(版)・人民(籍)を朝廷に返させる。 << 戻る
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四民平等

1869年、四民平等とし、新たに華族・士族・平民の制を設ける。僧侶は江戸時代までも様々な身分・家柄から出てきていたため、僧侶としてまとめてどこかの階級にあてられたわけではなく、結局、江戸時代からの身分・家柄を引き継いだ四民に分かれた。<< 戻る
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青厳寺・興山寺を合併し金剛峯寺と改める

明治二年(1869年)、青巌寺と興山寺が合併して真言宗の一寺院となり、高野山全体の寺号だった「金剛峯寺」を称します。<< 戻る
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一世一元の制

1868年9月、一世一元の制。明治天皇が即位。年号を明治と改め、天皇一代につき年号は一つとした。<< 戻る
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沖田総司(おきたそうじ)

幕末の武士、新選組一番隊組長及び撃剣師範。本姓は藤原を称した。諱は春政、後に房良(かねよし)。幼名は宗次郎。生誕 天保13年(1842年)命日 慶応4年5月30日(1868年7月19日)賢光院仁誉明道居士<< 戻る
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近藤勇(こんどういさみ)

江戸時代末期の武士。新選組局長。後に幕臣に取り立てられ、甲陽鎮撫隊隊長。勇は通称で、諱は昌宜という。慶応4年からは大久保剛を名乗り、後にさらに大久保大和と改めた。家紋は丸の内に三つ引。天然理心流四代目宗家。生誕 天保5年10月9日(1834年11月9日)命日 慶応4年4月25日(1868年5月17日)貫天院殿純忠誠義大居士<< 戻る
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小栗忠順(おぐりただまさ)

江戸時代末期の幕臣、勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行。 通称は又一。「又一」は、代々小栗家当主が名乗る名前。安政6年、従五位下豊後守に叙任。文久3年、上野介と改名した。三河小栗氏第12代当主で、父方の祖父は同じく勘定奉行を務めた中川忠英。安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国した。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。生誕 文政10年6月23日(1827年7月16日)命日 慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)陽寿院殿法岳浄性大居士<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

神仏分離令、廃仏毀釈(しんぶつぶんりれい、はいぶつきしゃく)

1868(明治元)年3月、祭政一致の制を復活。政府は神仏分離令出す。廃仏毀釈によって、寺院仏像などの破却・焼打が各地で起こる。廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)はゆきすぎた仏教廃止運動でした。明治維新の復古思想から神道を国教とする考えがあり、神仏分離令がだされ、神社から仏教的なものがのぞかれました。神官を先頭とする群衆が寺をおそって仏像や仏具を焼いてしまいました。奈良の興福寺の五重塔は、わずか25円(一説には250円)で売りにだされたといいます。<< 戻る
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戊辰戦争

1868年、西郷隆盛と幕府の勝海舟との話し合いによって、江戸は戦火から守られたが、徳川慶喜に対する朝廷の処置に不満をもった旧幕府側の大名や武士たちは、薩長を中心とする新政府と対立し、各地で反抗した。鳥羽・伏見の戦いから函館五稜郭の戦いで抵抗したが、新政府軍に敗れた。この一連の戦いを戊辰戦争という。<< 戻る
年表

江戸城開城

1868年、江戸城開城。<< 戻る
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五箇条の御誓文

1868年、五箇条の御誓文が発せられる。新政府の政治の方針。天皇が神に誓うというかたちで発表された。同時に民衆に対し、五榜の掲示。<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

学侶、行人、聖の三派が廃止

明治元年(1868年)、学侶、行人、聖の三派が廃止される。<< 戻る
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中岡慎太郎(なかおかしんたろう)

志士。陸援隊隊長。名は道正。通称ははじめ福太郎、光次、のち慎太郎。号は遠山・迂山など。変名は石川清之助など。坂本龍馬らと共に薩長同盟の斡旋に尽力するも近江屋事件で横死した。生誕 天保9年4月13日(1838年5月6日)命日 慶応3年11月17日(1867年12月12日)<< 戻る
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坂本龍馬(さかもとりょうま)

江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。 諱は直陰、のちに直柔。通称は龍馬。 他に才谷 梅太郎などの変名がある 。 土佐藩郷士の家に生まれ、脱藩したあとは志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中を結成した。薩長同盟の成立に協力するなど、倒幕および明治維新に関与した。大政奉還成立の1か月後に近江屋事件で中岡慎太郎、山田藤吉らと共に暗殺された。暗殺者は諸説あるが、京都見廻組という説が有力である。1891年(明治24年)4月8日、正四位を追贈される。生誕 天保6年11月15日〈1836年1月3日〉命日 慶応3年11月15日〈1867年12月10日〉<< 戻る
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高杉晋作(たかすぎしんさく)

江戸時代末期の長州藩士。幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。生誕 天保10年8月20日(1839年9月27日)命日 慶應3年4月14日(1867年5月17日)<< 戻る
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王政復古の大号令

1867年、王政復古の大号令<< 戻る
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大政奉還

1867年、前土佐藩主の山内豊信は、坂本竜馬らの意見をとり入れ、15代将軍徳川慶喜に政権を朝廷に返すようすすめた。慶喜はこれを受け入れ、大政奉還を申し出た。これによって約260年続いた江戸幕府はたおれ、鎌倉幕府が開かれてから700年近く続いた武家政治は終わりをつげた。<< 戻る
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徳川家茂(とくがわいえもち)

江戸幕府第14代征夷大将軍。初めは第12代将軍・徳川家慶の偏諱を受けて慶福と名乗っていた。 実父・徳川斉順は家慶の異母弟で、家茂は第13代将軍・家定の従弟にあたる。将軍就任の前は御三家紀州藩第13代藩主であった。 徳川斉順の嫡男であるが、父は家茂が生まれる前に薨去している。祖父は第11代将軍徳川家斉、祖母は妙操院。御台所は孝明天皇の皇妹・親子内親王(静寛院宮)。第13代将軍・徳川家定の後継者問題が持ち上がった際、家定の従弟にあたる慶福は徳川家一門の中で将軍家に最も近い血筋であることを根拠に、大老で譜代筆頭の彦根藩主井伊直弼ら南紀派の支持を受けて13歳で第14代将軍となった。生誕 弘化3年閏5月...
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徳川慶喜が第15代将軍となる

1866年、家持が死去し、徳川慶喜が第15代将軍となる。 << 戻る
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薩長連合

1866年、薩摩藩と長州藩が連合する(薩長連合)。土佐藩出身の坂本竜馬のなかだちで、薩摩藩代表の西郷隆盛・大久保利通、長州藩の木戸孝允らがひそかに軍事同盟を結び、岩倉具視ら京都の公家らも加わり、幕府をたおす計画を進めた。<< 戻る
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福沢諭吉「西洋事情」

1866年、福沢諭吉が「西洋事情」を著す。 << 戻る
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武市瑞山(たけちずいざん)- 武市半平太(たけちはんぺいた)

幕末の志士、土佐藩郷士。土佐勤王党の盟主。通称は半平太で、武市半平太と呼称されることも多い。優れた剣術家であり、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政・吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功した。京都と江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導し、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変により政局が一変すると前藩主・山内容堂によって投獄される。1年8か月20日の獄中闘争を経て切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した。生誕 文政12年9月27日(1829年10月24日)命日 慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)常照院日...