人物 正岡子規(まさおかしき) 俳人、歌人、国語学研究家。名は常規。幼名は処之助で、のちに升と改めた。 俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面に渡り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治を代表する文学者の一人であった。死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。生誕 1867年10月14日〈慶応3年9月17日〉命日 1902年〈明治35年〉9月19日子規居士<< 戻る 1902.09.19 人物
人物 西郷従道(さいごうじゅうどう / つぐみち) 武士、陸軍および海軍軍人、政治家。階級は元帥海軍大将。栄典は従一位大勲位功二級侯爵。名前の読みとして「つぐみち」が広く流布しているが、西郷家によると「じゅうどう」が正訓である。兄の西郷隆盛を「大西郷」と称するのに対し、従道を「小西郷」と呼ぶ。明治維新後、太政官に名前を登録する際、「隆道」をリュウドウと口頭で登録しようとしたところ、訛っていたため役人に「ジュウドウ」と聞き取られ、「従道」と記録されてしまった。しかし本人も特に気にせず、結局「従道」のままで通した。生誕 天保14年5月4日(1843年6月1日)命日 1902年(明治35年)7月18日<< 戻る 1902.07.18 人物
便り 隆光寺-北海道札幌市中央区 ・隆光寺 高野山真言宗 北海道札幌市中央区円山西町2-22-1隆光寺は、明治35年に開山された高野山真言宗の寺院です。「大日如来」を御本尊とします。昭和36年に、「高野山北海道別院隆光寺」の称号を認可され、現在に至っています。(リンク先より) << 戻る 1902.01.01 便り年表
人物 中江兆民(なかえちょうみん) 思想家、ジャーナリスト、政治家。自由民権運動の理論的指導者であり、第1回衆議院議員総選挙における当選者の一人。フランスの啓蒙思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介したことから東洋のルソーと評される。 「兆民」は本名ではなく号であり、「億兆の民」の意味。生誕 弘化4年11月1日(1847年12月8日)命日 明治34年(1901年)12月13日<< 戻る 1901.12.13 人物
人物 福澤諭吉(ふくざわゆきち) 、、 - )は、日本の武士(中津藩士のち旗本)、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者。諱は範(はん)。字は子囲(しい)。新字体で福沢諭吉。主な作品『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論之概略』『帝室論』『福翁自伝』『瘠我慢の説』生誕 天保5年12月12日(1835年1月10日)命日 明治34年(1901年)2月3日大観院独立自尊居士<< 戻る 1901.02.03 人物
人物 黒田清隆(くろだきよたか) 武士、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍中将。栄典は従一位大勲位伯爵。通称は仲太郎、了介。 薩摩藩士として、幕末に薩長同盟のため奔走し、明治元年から明治2年の戊辰戦争に際しては北越から庄内までの北陸戦線と、箱館戦争で新政府軍の参謀として指揮を執った。生誕 1840年11月9日〈天保11年10月16日〉命日 1900年〈明治33年〉8月23日<< 戻る 1900.08.23 人物
便り 永祥寺-北海道帯広市 ・永祥寺 曹洞宗 北海道帯広市西3条南2丁目永祥寺の開創は明治33年(西暦1900年)と伝わっています。初代住職は明治7年、愛知県額田郡福岡町に織田利造の六男として生を受けた織田活道。(リンク先より) << 戻る 1900.01.01 便り年表
便り 千正寺-北海道千歳市 ・千正寺 浄土真宗本願寺派 北海道千歳市清水町1-14千正寺は富山県針原村(現富山市)妙教寺の三男として生まれた團正法師(当山開基住職)が25歳で開教のため渡道し明治33年に千歳のネシコシ地区に説教所を設立したのが始まりです。その2年後現在地近くの造り酒屋を改造して「千歳説教所」を開設。明治42年「千正寺」として寺号公称が認可される。(リンク先より)※明治33年 1900年 << 戻る 1900.01.01 便り年表
人物 勝海舟(かつかいしゅう) 江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の武士(幕臣)、政治家。位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵。初代海軍卿。長崎海軍伝習所に学ぶ。蘭学、西洋兵学を修得し、万延元年(1860)咸臨丸艦長として渡米。文久2年(1862)軍艦奉行並となる。元治元年(1864)軍艦奉行に就任、神戸に海軍操練所を開き、幕臣のほか坂本竜馬ら諸藩の学生、志士を育てる。生誕 1823年3月12日(文政6年1月30日)命日 1899年(明治32年)1月19日大観院殿海舟日安大居士<< 戻る 1899.01.19 人物
便り 東川寺-北海道上川郡 ・東川寺 曹洞宗 北海道上川郡東川町北町4丁目1番3号抑も天真山東川寺は明治三十二年の時、真宗大谷派に属する信者山崎才一郎氏なる者あって禅宗信者なる川本万吉、日比野堅次郎の両氏に諮り、僧の耆宿たる東京市芝区白金台町高幢寺前住職牧玄道師を請し開教の任に當らしめ、假布教所、忠別原野西六号南一番地川本万吉氏の納屋の一隅を以て、之が教所に當て、大いに曹洞宗の旨趣を布演するの途を開きぬ。(リンク先より)※明治三十二年 1899年 << 戻る 1899.01.01 便り年表
人物 ジョン万次郎(ジョンまんじろう)- 中浜万次郎 江戸時代末期から明治にかけてアメリカ合衆国と日本で活動した日本人である。アメリカ人からはジョン・マンという愛称でも呼ばれた。土佐国出身。帰国後は本名として 中浜 万次郎を名乗った。天保12年1月5日(1841年1月27日)早朝の宇佐浦(現・土佐市宇佐町)、14歳になっていた万次郎は、足摺岬沖での鯵鯖漁に出航する漁船に炊係(炊事と雑事を行う係)として乗り込んだ。仲間の構成は、船頭の筆之丞(38歳。のちにハワイで「伝蔵」と改名)を筆頭に、筆之丞の弟で漁撈係の重助(25歳)、同じく筆之丞の弟で櫓係を務める五右衛門(16歳)と、もうひとりの櫓係の寅右衛門(26歳)、そして炊係の万次郎(14歳)であった... 1898.11.12 人物
便り 廣徳寺-北海道虻田郡 ・廣徳寺 真宗大谷派 北海道虻田郡京極町字京極615明治43年に「廣徳寺創立願」が北海道庁に提出され、この添付書類の由緒という一項に、「明治31年5月より布教に着手、同36年に説教所認可。」という内容の記述があり、第一世江隈圓導の署名のある「明細表」には「京極農場への移住者のために布教を始め、京極家の特志もあって明治45年に廣徳寺となった」という内容が記されている。(リンク先より)※明治31年 1898年 << 戻る 1898.05.01 便り年表
便り 密厳寺-北海道余市郡 ・密厳寺 真言宗豊山派 北海道余市郡余市町大川町10-17明治三十一年開山、米沢から来道し庵を結ぶ普及所となる。 昭和十一年に本堂を再建し、寺号公称する。総本山は長谷寺。ご本尊は十一面観音、秘佛歓喜天、大日如来、脇には大聖不動明王。(リンク先より) << 戻る 1898.01.01 便り年表
人物 陸奥宗光(むつむねみつ) 武士(紀州藩士)、外交官、政治家。明治初期に行われた版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正に大きな影響を与えた。また、カミソリ大臣と呼ばれ、第2次伊藤内閣の外務大臣として不平等条約の改正(条約改正)に辣腕を振るった。江戸時代までの通称は陽之助(ようのすけ)。生誕 天保15年7月7日(1844年8月20日)命日 1897年8月24日<< 戻る 1897.08.24 人物
人物 後藤象二郎(ごとうしょうじろう) 幕末から明治時代の武士、政治家、実業家。栄典は正二位勲一等伯爵。土佐三伯の1人。 幼名は保弥太、良輔。象二郎は通称。諱は正本、後に元曄。字は日曄、暢谷、雲濤、不倒翁など。雅号に暘谷、雲濤、光海、鷗公など。生誕 天保9年3月19日(1838年4月13日)命日 明治30年(1897年)8月4日<< 戻る 1897.08.04 人物
便り 大師之寺-三重県四日市市 ・大師之寺 高野山真言宗 三重県四日市市南納屋町6-11明治三十年(1897)、隆道和尚がこの地に立ち寄られた際、小堂を建立して弘法大師をお祀りされ、大師信仰の説教所として開山されました。太平洋戦争が勃発すると、四日市周辺の空襲によって、御堂は悉く焼失してしまいましたが、幸いにも本尊である弘法大師様は、その難を免れることが出来ました。(リンク先より) << 戻る 1897.01.01 便り年表
便り 本光寺-北海道室蘭市 ・本光寺 浄土真宗本願寺派 北海道室蘭市本輪西町3-33-7寺号 蘭北山 本光寺開基 明治29年12月19日(リンク先より)※明治29年 1896年 << 戻る 1896.12.19 便り年表
人物 樋口一葉(ひぐちいちよう) 小説家。東京生まれ。戸籍名は「奈津」だが本人は「夏子」と名乗ることが多かった。 中島歌子に歌、古典を学び、半井桃水に小説を学ぶ。生活に苦しみながら、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」といった秀作を発表、文壇から絶賛される。わずか1年半でこれらの作品を送ったが、24歳6ヶ月で肺結核により死去。生誕 1872年5月2日(明治5年3月25日)命日 1896年(明治29年)11月23日智相院釋妙葉信女<< 戻る 1896.11.23 人物
仏教を本気で学ぶ 清沢満之ら「教界時言社」設立 1896(明治二九)年10月、清沢満之ら「教界時言社」設立し、本山改革をとなえる。『教界時言』発刊(明治31年3月終刊)。この改革は、事務所のあった地名にちなんで「白川党宗門改革運動」と言われた。<< 戻る 1896.10.01 仏教を本気で学ぶ年表
便り 徳念寺-福岡県北九州市門司区 ・徳念寺 浄土真宗本願寺派 福岡県北九州市門司区風師4-3-25明治29年豊後真玉の地より龍眼師、門司に来る。龍眼師の住す所、豊後寺とも称される。念佛の声、高らかに有り。近隣諸辺の人々に徳望高く、敬慕、帰依する人々数多くして忽ちに一宇を建立するに至る。(リンク先より)※明治29年 1896年 << 戻る 1896.01.01 便り年表
便り 青蓮寺-広島県呉市 ・青蓮寺 浄土真宗本願寺派 広島県呉市伏原1-13-16明治28年(1895)初代住職 釈 徹明が開基。布教道場「洗心堂」を据え、常説教、仏教婦人会、日曜学校の活動をする大正期頃(1915)成町(現・伏原)に本堂を建立する(リンク先より) << 戻る 1895.01.01 便り年表
便り 一華寺-広島県呉市 ・一華寺 臨済宗佛通寺派 広島県呉市西中央5-7-1明治28年、自宅医院に隣接した土地に小庵を建て、寛量和尚の常宿ともし、そこで毎月参禅会も開いた。小さな標札には『仏通寺事務所』とあった。(リンク先より)※明治28年 1895年 << 戻る 1895.01.01 便り年表
人物 高橋由一(たかはしゆいち) 江戸生まれの洋画家。幼名は猪之助、のち佁之介。名は浩、字は剛。明治維新後に由一を名乗る。号は藍川、華陰逸人。居庵号は、石蒼波舎、伝神楼。 近世にも洋画や洋風画を試みた日本人画家は数多くいたが、由一は本格的な油絵技法を習得し江戸後末期から明治中頃まで活躍した、日本で最初の「洋画家」と言われる。代表作『花魁』『鮭』生誕 文政11年2月5日(1828年3月20日)命日 明治27年(1894年)7月6日実際院真翁由一居士<< 戻る 1894.07.06 人物
人物 浅田宗伯(あさだそうはく) 漢方医、儒学者。諱は惟常、号は栗園。安政2年(1855年)幕府のお目見得医師となり、安政5年(1858年)将軍家茂に謁して徴士となり、慶応2年(1866年)13代将軍家定の夫人天璋院はじめ大奥の侍医となり、法眼に叙せられた。医師として宗伯は、フランス公使レオン・ロッシュや嘉仁親王(後の大正天皇)の難症を治し救った事で知られている。 浅田飴より販売されている「浅田飴」のルーツとなる処方を考案した人物である。尚、創業者である堀内伊太郎の父は、宗伯の書生であった。生誕 文化12年5月22日(1815年6月29日)命日 明治27年(1894年)3月16日<< 戻る 1894.03.16 人物
便り 龍祥寺-三重県度会郡 ・龍祥寺 曹洞宗 三重県度会郡大紀町阿曽1585不盡山宝泉寺(寛延元年・1748年)と諏訪山龍祥寺(寛文元年・1661年)の二ヶ寺が明治27年宝泉寺を龍祥寺へ合併し、明治30年不盡山龍祥寺として成立し、明治43年現在地(もとの不盡山宝泉寺の境内地)に建立され、現在に至る。(リンク先より)※明治27年-1894年 << 戻る 1894.01.01 便り年表
人物 松平容保(まつだいらかたもり) 幕末の大名。陸奥国会津藩9代藩主。京都守護職。高須四兄弟の一人で、血統的には水戸藩主・徳川治保の子孫。現在の徳川宗家は容保の男系子孫である。生誕 天保6年12月29日(1836年2月15日)命日 明治26年12月5日(1893年12月5日)<< 戻る 1893.12.05 人物