江戸時代末期の志士、思想家、越前国福井藩藩士。号は景岳、黎園。諱は綱紀。著書に15歳の時に志を記した『啓発録』がある。
14代将軍を巡る将軍継嗣問題では、松平春嶽を助け一橋慶喜擁立運動を展開し、幕政の改革を訴えた。また英明の将軍の下、雄藩連合での幕藩体制を取った上で、積極的に西欧の先進技術の導入・対外貿易を行うことを構想した。またロシアとの同盟を提唱し、帝国主義と地政学の観点から日本の安全保障を弁じた先覚者でもあった。
安政5年(1858年)、大老となった井伊直弼の手により安政の大獄が始まり、松平春嶽が隠居謹慎を命じられると、将軍継嗣問題に介入したことを問われて取り調べを受け、親戚の朧勘蔵の邸に幽閉され、謹慎を命じられた。
取り調べの際「私心でやったのではなく藩主の命令である」と主張したことが、井伊直弼のしゃくに障ったらしく(当時は藩主をかばうのが当然という朱子学たる武士の倫理があった)、遠島で済む刑罰が重くなり安政6年10月7日(1859年11月1日)、伝馬町牢屋敷で斬首となった。本人も死罪は予想しておらず、最後はその無念さから泣きじゃくりながら死んでいったと伝わる。
生誕 天保5年3月11日(1834年4月19日)
命日 安政6年10月7日(1859年11月1日)
景鄂院紫陵日輝居士
<< 戻る