【仏教用語/人物集 索引】

松平信康(まつだいらのぶやす)- 徳川信康(とくがわのぶやす)

投稿日:1579年9月15日 更新日:

 
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川家康の長男。母は関口親永の娘で今川義元の姪・築山殿。また、後に松平宗家の居城の岡崎城主を務めたため、祖父・松平広忠同様に岡崎三郎と名乗った。

永禄10年(1567年)5月、信長の娘である徳姫と結婚し、共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らす。同年6月に家康は浜松城(浜松市中区)に移り、岡崎城を譲られた。7月に元服して信長より偏諱の「信」の字を与えられて信康と名乗る。元亀元年(1570年)に正式に岡崎城主となる。

天正元年(1573年)に初陣する。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは徳川軍の一手の大将として参加し、その後も武田氏との戦いでいくつもの軍功を挙げ、勇猛さが注目された。天正6年(1577年)3月には小山城攻めに参軍する。

織田信長の娘である徳姫は今川の血を引く姑の築山殿との折り合いが悪く、信康とも不和になったので、天正7年(1579年)、父・信長に対して12箇条の手紙を書き、使者として信長の元に赴く徳川家の重臣・酒井忠次に託した。手紙には信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼と内通した、と記されていたとされる。忠次は信康を全く庇わず、全てを事実と認めたため、信長は家康に信康の切腹を要求した。 家康はやむをえず信康の処断を決断。

天正7年(1579年)8月3日、家康が岡崎城を訪れ、翌日信康は岡崎城を出ることになり、大浜城に移された(『家忠日記』)。8月29日、まず築山殿が二俣城(浜松市天竜区)への護送中に佐鳴湖の畔で、徳川家家臣の岡本時仲、野中重政により殺害された。

信康は遠江の堀江城、さらに二俣城に移されたうえ、9月15日に家康の命により切腹させられた。信康の首は一度信長の元に送られ、その後、若宮八幡宮に葬られた。

生誕 永禄2年3月6日(1559年4月13日)

命日 天正7年9月15日(1579年10月5日)

騰雲院殿隆厳長越大居士
清瀧寺殿前三州達岩善通大居士

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