奈良時代の公卿・学者。氏姓は下道(しもつみち)朝臣のち吉備朝臣。右衛士少尉・下道圀勝の子。官位は正二位・右大臣。
元正朝の霊亀2年(716年)第9次遣唐使の留学生となり、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂・玄昉らと共に唐(中国)に入ります。唐で18年間、経書と史書のほか、天文学・音楽・兵学などの諸学問を幅広く学びました。唐では知識人として名を馳せ、遣唐留学生の中で唐で名を上げたのは吉備真備と阿倍仲麻呂のただ二人のみと言われるほどでした。
聖武天皇の天平6年(734年)10月に第10次遣唐使の帰国に伴って玄昉と同船で帰途に就き、途中で種子島に漂着しますが、翌天平7年(735年)4月に多くの典籍を携えて帰朝した内容は、経書(『唐礼』130巻)、天文暦書(『大衍暦経』1巻・『大衍暦立成』12巻)、日時計(測影鉄尺)、楽器(銅律管・鉄如方響・写律管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)、弓(絃纏漆角弓・馬上飲水漆角弓・露面漆四節角弓各1張)、矢(射甲箭20隻・平射箭10隻)などを献上し、ほかにも史書『東観漢記』をもたらせたといわれています。
帰朝時に従八位下という卑位にも関わらず、名と招来した物品の詳細が正史に記されていることから、吉備真備がもたらせた物がいかに重要であったかが推察されます。吉備真備は渡唐の功労により従八位下から一挙に十階昇進して正六位下に叙せられるともに、大学助に任官しました。
天平8年(736年)外従五位下に叙せられると、天平9年(737年)正月に内位の従五位下、同年12月には玄昉の看病により回復した皇太夫人・藤原宮子が聖武天皇と36年ぶりに対面したことを祝して中宮職の官人に叙位が行われ、中宮亮の吉備真備は従五位上に叙せられるなど、急速に昇進します。さらに、天平10年(738年)橘諸兄が右大臣に任ぜられて政権を握ると、吉備真備と同時に帰国した玄昉と共に重用され、吉備真備は右衛士督を兼ねました。
天平12年(740年)には吉備真備と玄昉を除こうとして藤原広嗣が大宰府で反乱を起こして敗死しています(藤原広嗣の乱)。
天平勝宝元年(749年)阿倍内親王の即位(孝謙天皇)に伴って従四位上に叙せられます。しかし、大納言兼紫微令に就任した藤原仲麻呂が権勢を強め、左大臣・橘諸兄を圧倒します。この状況の中で、吉備真備も天平勝宝2年(750年)に格下の地方官である筑前守次いで肥前守に左遷されました。
筑前国はかつて藤原広嗣が反乱の際に最初に軍営を造った場所で、肥前国は広嗣が捕らえられ誅殺された国であったことから、吉備真備のこれら国守への任官は広嗣の乱の残党による再度の反乱を防止する為に行われたとする見方もあります。
一方、同年には第12次遣唐使が派遣されることになり、大使に藤原清河、副使に大伴古麻呂が任命されます。ところが、翌天平勝宝3年(751年)になると吉備真備が追加の副使に任ぜられますが、副使が2名となるだけでなく、大使・藤原清河(従四位下)より副使・吉備真備(従四位上)の方が位階が上という異例の人事でした。
結局、天平勝宝4年(752年)出航直前に藤原清河を正四位下(二階)、大伴古麻呂を従四位上(四階)と大幅に昇進させて、体裁が整えられています。同年、吉備真備らは再び危険な航海を経て入唐します。唐では高官に昇っていた阿倍仲麻呂の尽力もあり、仲麻呂を案内者として宮殿の府庫の一切の見学が許されたほか、帰国に当たっては鴻臚卿・蒋挑捥が揚州まで同行するなど、破格の厚遇を得られたといいます。
翌天平勝宝5年(753年)6月頃に遣唐使節一行は帰国の途に就き、11月に蘇州から日本へ向けて出航、吉備真備は第三船に乗船すると、鑑真と同じく屋久島へ漂着し、さらに紀伊国牟漏埼(現在の和歌山県東牟婁郡太地町)を経由して、何とか無事に帰朝しました。なお、この帰途では大使・藤原清河や阿倍仲麻呂らの船は帰国に失敗し、唐に戻されています。
帰朝しても吉備真備は中央政界での活躍は許されず、天平勝宝6年(754年)正四位下・大宰大弐に叙任され、またもや九州地方に下向します。この頃、日本と対等の立場を求める新羅との緊張関係が増していたことから、近い将来の新羅との交戦の可能性も予見し、その防備のために吉備真備を大宰府に赴任させたとの見方があります。
10年近くにわたる大宰府赴任中、大宰帥は石川年足・藤原真楯・阿倍沙弥麻呂・船王・藤原真先の5人でしたが、船王以外はいずれも参議兼官であったことから、吉備真備が大宰府の実質的な責任者であったとみられています。
天平宝字8年(764年)正月に70歳となった吉備真備は、致仕の上表文を大宰府に提出します。しかし、上表文が天皇に奏上される前に造東大寺長官に任ぜられ帰京します。また同年にはかつて吉備真備が唐から持ち帰った大衍暦について、30年近くの長きにわたっての準備の末、儀鳳暦に替えて適用が開始されています。
同年9月に藤原仲麻呂の乱が発生すると、緊急で従三位・参議に叙任されて孝謙上皇側に参画します。吉備真備は中衛大将として追討軍を指揮し、兵を分けて仲麻呂の退路を断つなど優れた軍略により乱鎮圧に功を挙げました。翌天平神護元年(765年)には乱の功労により勲二等を授けられました。
天平神護2年(766年)称徳天皇と法王・弓削道鏡の下で正月に中納言へ、同年3月に藤原真楯薨去に伴い大納言へ、さらに同年10月には従二位・右大臣へ昇進して、左大臣・藤原永手と並んで太政官を領導しました。これは地方豪族出身者としては破格の出世であり、学者から立身して大臣にまで至ったのも、近世以前では吉備真備と菅原道真の二人のみです。
生誕 持統天皇9年(695年)
命日 宝亀6年10月2日(775年11月3日)
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