天台宗の出来事

人物

伝教大師 最澄上人(でんぎょうだいし さいちょうしょうにん)

最澄とは、平安時代の僧で、日本天台宗の開祖であり、伝教大師として広く知られます。中国に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建立して天台宗の開祖となりました。伝教大師とは、最澄のことで、日本で最初に賜った大師号です。最澄は、神護景雲元(767)年8月18日、現在の滋賀県大津市坂本の一帯を統治していた三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として誕生しました。俗名は広野(ひろの)です。宝亀9(778)年、12歳のとき、近江の国分寺(現在の大津市石山)に入り行表の弟子となります。宝亀11(780)年11月12日、14歳で国分寺僧補欠として得度し、「最澄」という名前が付きました。やがて奈良の都に行き、...
仏教を本気で学ぶ

天台法華宗年分学生式を奏上

弘仁9(818)年5月13日、『天台法華宗年分学生式』(てんだいほっけしゅうねんぶんがくしょうしき)(『六条式』『山家学生式』(さんげがくしょうしき)とも)を最澄上人が天皇に奏上しました。そこには、比叡山での教育方針や修行方法などが示され、天台宗の年分度者は比叡山において大乗戒を受けて菩薩僧となり、12年間山中で修行することを義務づけています。国の宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝と為す。故に古人言わく、径寸十枚、是れ国宝にあらず、一隅を照す、此れ則ち国宝なりと。古哲また云わく、能く言いて行うこと能わざるは国の師なり、能く行いて言うこと能わざるは国の用なり、能く行い能く言う...
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正覺寺-岐阜県安八郡

・正覺寺 浄土真宗本願寺派 岐阜県安八郡神戸町北一色寺伝によれば、弘仁八年(817年)に、天台宗を開かれた伝教大師最澄が、神戸町の日吉神社を創建の折、この地にとどまり、朽ち果てた御堂のなかの聖徳太子の御木像を感得(発見)したことにより、寺院を建てたとあります。 その後は、四百有余年の間、「寂静山 妙行院」として、天台宗の一宇としてありました。承久三年(1221年)、後に法然上人のお弟子となる「東 胤頼」の嫡男、東氏二代「東 重胤」が、承久の乱の際、東海道軍として北条泰時氏に属し、宇治川の戦いで負傷。鎌倉への帰国の最中容態が悪化したため、この寺にて、療養していました。その際、一念発起し、出家。当...
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成願寺-愛知県知多郡

・成願寺 曹洞宗 愛知県知多郡南知多町大字片名字稗田9本尊は阿弥陀如来。 弘仁五年( 八一四 )に弘法大師が知多半島に 上陸した際、この片名の地に悪病が流行っていた。 大師は、「 この門をよけて通れよ風の神 とふりに姿のあらん限りは 」 の歌を詠み、厄除けの祈祷を修行し、後に修行大師として別堂に祀っている。江戸時代、元和元年( 一六一五 )笑山恵?大和尚が天台宗だと言われるこの寺を再建し 曹洞宗に改宗した。(リンク先より) << 戻る
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大谷寺-栃木県宇都宮市

・大谷寺 天台宗 栃木県宇都宮市大谷町1198大谷寺本尊千手観音(高さ4m)は、平安時代(810年)弘法大師の作と伝えられています。古くから大谷観音と称され、鎌倉時代に坂東19番の霊場となり、多くの人々から尊崇されてきました。(リンク先より) << 戻る
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東円寺-山梨県南都留郡

・東円寺 天台宗 山梨県南都留郡忍野村忍草38弘仁年間(810年〜824年)、空海上人関東巡錫の砌、富士北麓の地に霊温泉の湧いている所(現在の湯の元の地)を見つけ、一宇を建立。湖畑山南泉寺と号したのが始まりです。 古くは富士山を修験とする真言宗のお寺でした。現存する忍草浅間神社(忍草朝日浅間宮)の国指定重要文化財のご神像の台座には、「正和4年(1315年)、別当東円寺」の墨書があることから、鎌倉期には既に天台宗となり、忍草山大日院東円寺と寺号が改まっていたようです。(リンク先より)<< 戻る
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宝泉寺-東京都新宿区

・宝泉寺 天台宗 東京都新宿区西早稲田1-1-2宝泉寺は「和漢三才図会」(江戸時代の百科事典)や「吾妻鏡」などによると、西暦810年頃の草創と伝えられます。また承平年間(931-938年)平将門の乱を平定した藤原秀郷(俗称、俵藤太) の草創とも伝えられ、そのどちらをみても千年以上の歴史を持つ古寺であることがわかります。(リンク先より) << 戻る
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永福寺-群馬県前橋市

・永福寺 天台宗 群馬県前橋市朝倉町46-1平安時代初めの弘仁年間(810-824)に法相宗の徳一和尚の開基。その後南北朝時代の応安3年(1370)に天台宗となる。江戸時代の天保15年(1844)4月7日夜八つ時に客殿常香盤より出火。客殿、庫裏、十王堂、表門、土蔵、長屋など全山を焼失したが、本尊と朱印状は焼失を免れて現存している。(リンク先より) << 戻る
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西光寺-群馬県前橋市

・西光寺 天台宗 群馬県前橋市上佐鳥町289-1平安時代初めの弘仁年間(810-824)に法相宗の徳一和尚の開基。その後南北朝時代の応安3年(1370)に天台宗となる。江戸時代の天保15年(1844)4月7日夜八つ時に客殿常香盤より出火。客殿、庫裏、十王堂、表門、土蔵、長屋など全山を焼失したが、本尊と朱印状は焼失を免れて現存している。(リンク先より) << 戻る
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明源寺-三重県いなべ市

・明源寺 浄土真宗本願寺派 三重県いなべ市東禅寺562平城天皇の大同3年(808年)、比叡山・延暦寺を建立され、天台宗の開祖である伝教大師・最澄法師が、仏法を広げられるため、当地に御逗留となり、薬師如来を本尊とし観音菩薩を脇侍として、一寺を建立され、足下山(たしたさん)円頓院(えんどんいん)東禅寺と名付けられました。明源寺の根本資料である『明源寺由緒書』によれば、東禅寺の規模は、七堂伽藍を完備した寺院で有ったとあります。(リンク先より) << 戻る
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清水寺-岩手県花巻市

・清水寺 天台寺門宗 岩手県花巻市太田21-10当寺は、大同2年(807年)に征夷大将軍坂上田村麻呂公の勧請により創建されたと伝えられ、古くからその名を知られた古刹で,日本三清水の一つとも言われています。奥州三十三所観音霊場の一つであり、また、当国三十三所観音霊場(南部藩の和賀、稗貫、紫波三郡)の第一番札所でもあります。(リンク先より) << 戻る
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専称寺-佐賀県多久市

・専称寺 浄土宗 佐賀県多久市多久町2158807年 :開山・行基菩薩伝説 天台宗 阿弥陀如来座像(藤原期12世紀初頭)1191年: 本多久移築/12世紀一遍上人伝説 13世紀 : 大ツツジ(樹齢600年 県名木指定)(リンク先より) << 戻る
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櫟野寺-滋賀県甲賀市

・櫟野寺 天台宗 滋賀県甲賀市甲賀町檪野1377福生山自性院櫟野寺(いちいの観音)は桓武天皇の延暦十一年に比叡山の開祖伝教大師様が根本中堂の用材を得る為に甲賀郡杣庄おいでにまりました時、霊夢を感じて此の地の櫟の生樹に一刀三礼の下彫刻安置されました。日本最大坐仏十一面観音菩薩がご本尊様です。(世に生えぬきの観音様と称されております。) その後、延暦二十一年鈴鹿山の山賊追討に当たり、杣ケ谷を櫟野まで登られた坂上田村麻呂公は、当地鎮座の櫟野観音さまに祈られその御力により鈴鹿山の群賊を平定することが出来たのであります。(鈴鹿山の鬼退治と伝わる)それ故将軍は当寺を祈願寺と定め、大同元年七堂伽藍を建立、永...
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妙光院-山形県山形市

・妙光院 天台宗 山形県山形市内表東124-1当院はおよそ1,200年前の延暦25年(806)に伝教大師最澄によって開かれた宗派である天台宗に属する寺院であり、「一隅を照らす」という教えの元、一人一人が輝きあい、手を繋ぎ合って暮らせる社会の実現を願い、日々お勤めしております。(リンク先より) << 戻る
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本吉山清水寺-福岡県みやま市

・本吉山清水寺 天台宗 福岡県みやま市瀬高町本吉1119-1寺の言い伝えによると伝教大師は、唐から帰朝の折り、有明海の東方山中に美しく輝く光を発見されました。その光を求めて、一羽の雉を道案内にこの山に分け入ったところ、苔むした合歓(むね)の霊木に出会われたのでした。このうえなく喜ばれた大師は、大地から生えたままのこの樹に一丈六尺(約5メートル)の千手観音像を刻まれました。そして大同元年(西暦806年)にお堂を建立し、その観音様をお祀されました。(リンク先より) << 戻る
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善雄寺-群馬県みどり市

・善雄寺 天台宗 群馬県みどり市東町大字荻原192善雄寺は、傳教大師の高弟暁海和尚により大同元年(806年)の草創とされる。暦応元年(1338年)弘秀上人が中興。江戸の初期天海僧正(慈眼大師)が元和三年四月、久能山より家康公の御骨を捧げて日光へ登嶽の折に立ち寄られた御縁により、幕府から御朱印十一石二斗を賜った。御本尊は阿弥陀如来立像。(リンク先より) << 戻る
仏教を本気で学ぶ

天台宗が公認される

延暦25(806)年、華厳宗・律宗・三論宗(成実宗含む)・法相宗(倶舎宗含む)に天台宗を加えて十二名の年分度者が許されることになり、天台宗が公認されました。このころ、最澄上人は空海から、真言、悉曇(梵字)、華厳の典籍を借り、研究したといわれています。<< 戻る
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天鷲寺-大阪府大阪市天王寺区

・天鷲寺公式ホームページ 天台宗 大阪府大阪市天王寺区六万体町3-18平安時代延暦24年(805年)7月に天台宗宗祖『傳教大師最澄』によって開創されたこのお寺は『傳教大師入唐求法帰朝記念のお寺』としてその由緒と格式を現在に伝えている。(リンク先より) << 戻る
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能福寺-兵庫県神戸市兵庫区

・能福寺 天台宗 兵庫県神戸市兵庫区北逆瀬川町1-39延暦24年(805年)伝教大師の開基から1200年以上の年月が経過。神戸の民衆に支えられ、戦争、火事、地震など様々な困難を乗り越え、灯火を御守りしております。(リンク先より) << 戻る
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長楽寺-京都府京都市東山区

・長楽寺 時宗 京都府京都市東山区八坂鳥居前東入円山町626延歴24年(西暦805)桓武天皇の勅命によって、伝教大師を開基として大師御親作の観世音菩薩を本尊として創建された。当初(平安時代)は天台宗・比叡山延暦寺の別院として建てられましたが、その後室町時代の初期当時の一代の名僧国阿上人に譲られ時宗(宗祖一遍上人)に改まり、明治39年に時宗の総本山格であった名刹七条道場金光寺が当寺に合併され今日に至ります。(リンク先より) << 戻る
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教應寺-大阪府大阪市東淀川区

・教應寺 真宗大谷派 大阪府大阪市東淀川区豊里3-13-16教応寺のある東淀川区豊里地域は、かつて聖徳太子が度々足を運ばれ、四天王寺建立の候補地と考えられていた地であります。その地に、唐から帰られた伝教大師最澄が立ち寄られ「法上寺」(805年頃草創)を建てられます。それが教応寺のはじまりと伝えられています。その後、永正14(1517)年真宗に改宗し、天和3(1683)年、寺号を「敎應寺」と改めております。(リンク先より) << 戻る
年表

最澄上人、中国で修行し帰国

中国に着いた最澄上人は、今の浙江省天台県に位置する天台山に赴き、修禅寺の道邃(どうずい)・仏隴寺の行満(ぎょうまん)に天台教学を学び、道邃より大乗菩薩戒を受けます。その後禅林寺の翛然(しゅくねん)より禅の教えを受け、帰国前には越州龍興寺で順暁阿闍梨から密教の伝法を受けました。こうして多くの経典や法具を携え、延暦24(805)年に帰国しました。<< 戻る
年表

最澄上人、遣唐使船で中国に渡る

延暦21(802)年、桓武天皇より入唐求法(にっとうぐほう)の還学生(げんがくしょう、短期留学生)に最澄上人が選ばれ、延暦23(804)年7月、遣唐使船で中国に渡りました。当時、中国に渡るのは命がけのことで、4隻で構成された遣唐使船のうち、中国へ無事に着いたのは2隻だけでした。到着した2隻の内の別の船には、後に真言宗を開いた空海が乗っていました。<< 戻る
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正尊寺-岐阜県本巣市

・正尊寺 浄土真宗本願寺派 岐阜県本巣市曽井中島1592天台宗横蔵寺(801年伝教大師最澄創設)の末寺として創建された。しかし、室町時代に入り横蔵寺の衰退と共に正尊寺も無住の廃寺同然になっていたと伝えられている。 その当時は現在の中島の地から北西に1㎞くらい離れた向野の南に建っていた。そこへ、文明5年(1473)福井県吉崎御坊の蓮如上人から遣わされた了光坊が、浄土真宗に改宗し本巣町・大野町・谷汲村・糸貫町・網代西郷の門徒と共に荒れ寺を浄土真宗の道場として正尊寺を再建した。(リンク先より)<< 戻る
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長福寿寺-千葉県長生郡

・長福寿寺 天台宗 千葉県長生郡長南町長南969延暦17年(798)に桓武天皇の勅願により、伝教大師最澄〔天台宗の宗祖〕によって創建された由緒ある大古刹です。中世においては日本三大学問所(談義所=僧侶の大学)として寺院子弟の教育にあたり、西に比叡山、東に長福寿寺(当時は東叡山と称した(※))ありと称せられ、実に関東天台の要をなしていました。(リンク先より) << 戻る
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華厳寺-岐阜県揖斐郡

・華厳寺 天台宗 岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積23・第三十二番 ⇒ 西国三十三所 第三十三番 谷汲山 華厳寺 ​⇒ 第一番「谷汲さん」の愛称で親しまれる当山は、山号が「谷汲山(たにぐみさん)」、寺号が「華厳寺(けごんじ)」といいます。寺の草創は桓武天皇(737-806)の延暦十七年(798)で開祖は豊然上人、本願は大口大領です。(リンク先より) << 戻る
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円満寺-神奈川県横浜市西区

・円満寺ホームページ 天台宗 神奈川県横浜市西区久保町50-1当山は天台宗本山別格阿富貴山安禅院円満寺と号し、天台宗山門派延暦寺末、本山別格の寺院である。安禅院は元は比叡山延暦寺の一坊で、東塔北谷に位置していた。寺院明細帳によると、延暦十三年九月の創建で大教院と号し、延喜元年、宇多法皇が比叡山に行幸の際には御座所にあてられたことがある。(リンク先より)※延暦十三年 794年 << 戻る
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比叡山延暦寺-滋賀県大津市

・比叡山延暦寺 天台宗 滋賀県大津市坂本本町4220最澄は12歳で近江の国分寺行表(ぎょうひょう)の弟子となり、宝亀11年(780)に得度、延暦4年(785)に奈良の東大寺戒壇院で具足戒(250戒)を受け、国に認められた正式な僧侶となられたのです。受戒後3ヵ月ほどで奈良を離れ、比叡山に分け入り修行の生活に入られました。そして若き僧最澄は願文を作り、一乗の教えを体解(たいげ)するまで山を下りないと、み仏に誓いました。その後、延暦7年(788)に一乗止観院(後の根本中堂)を創建、本尊として薬師如来を刻まれました。最澄亡き後、一乗止観院は「延暦寺」の寺額を勅賜され、比叡山延暦寺と呼ばれるようになりま...
年表

最澄上人、一乗止観院を建立

延暦7年(788)年、最澄上人は薬師如来を安置する一乗止観院を建立します。現在の総本堂・根本中堂にあたります。<< 戻る
年表

最澄上人、具足戒を受ける

最澄上人は奈良の都に行き、さらに勉学を積みました。そして延暦4(785)年、東大寺で具足戒を受けました。受戒後、比叡山に籠り一人修行を続けます。<< 戻る
年表

最澄上人の得度

宝亀9(778)年、12歳のとき、近江の国分寺(現在の大津市石山)に入り行表の弟子となりました。宝亀11(780)年11月12日、14歳で国分寺僧補欠として得度し、「最澄」という名前をいただきました。<< 戻る
年表

最澄上人の誕生

伝教大師 最澄上人は、神護景雲元(767)年8月18日、現在の滋賀県大津市坂本の一帯を統治していた三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として誕生しました。俗名は広野(ひろの)です。<< 戻る