
02月01日


2月1日ご逝去 中陰からの忌日表
初七日忌 2月7日二七日忌 2月14日三七日忌 2月21日四七日忌 2月28日五七日忌・35日法要 3月7日六七日忌 3月14日七七日忌・満中陰・四十九日法要 3月21日百箇日忌 5月11日初七日からの七日毎の法要日は「命日前日」の曜日、百箇日は「命日翌日」の曜日と同じ曜日になるので、上記の日にちの確認と共に間違いのないよう曜日も確認してください。実際に行う法要は都合の良い曜日に繰り上げる、時間帯を調整することが多いようです。>> 年回忌法要が何年かを確認する<< 戻る

榊莫山(さかきばくざん)
書家・作家・元大阪市立真田山小学校教諭であり、1971年より大阪成蹊女子短期大学教授。次いで平成に入り5年間、近畿大学文芸学部芸術学科教授を務めた。 「バクザン先生」の愛称で知られる。前衛的な書画と、作品のイメージ通りの飄々とした印象で、宝酒造の「よかいち」のテレビCMをきっかけにバラエティ番組などにも多数出演。エッセイなども多数著し、関連書籍も含めると100冊を超える。また、商品のロゴなども多数手掛けている。司馬遼太郎と長年親交があり、司馬の作品『空海の風景』に登場した。生誕 1926年2月1日命日 2010年10月3日<< 戻る

海老一染太郎(えびいちそめたろう)
太神楽師(だいかぐらし)。海老一染之助・染太郎(えびいち そめのすけ・そめたろう)という、実の兄弟による伝統演芸コンビの兄。盛り立て役。父親は落語家の三遊亭圓駒。かつては落語協会に所属していた。「お染ブラザーズ」の愛称で「おめでとうございま〜す」と言いながら和傘の上で毬を回す芸が有名で、正月のテレビ番組には欠かせない出演者だった生誕 1932年2月1日命日 2002年2月2日釋染秀信士(東京都新宿区の常敬寺)<< 戻る

大坪砂男(おおつぼすなお)
、 - )は、日本の探偵小説作家。本名和田六郎。谷崎潤一郎の書生、警視庁鑑識課職員などを経て、師事していた佐藤春夫の推薦により「宝石」に発表した『天狗』でデビュー。筆名はE・T・A・ホフマンの「砂男」に由来する。1951年に大坪 沙男と改名した。代表作は他に『立春大吉』『私刑』『男井戸女井戸』などがある。生誕 1904年2月1日命日 1965年1月12日<< 戻る

沢村栄治(さわむらえいじ)
三重県出身のプロ野球選手。 日本プロ野球史上に残る伝説の選手の一人でもあり、戦前のプロ野球界で、NPB史上初の最多勝利を獲得し、NPB史上初の最高殊勲選手も受賞。史上2人目のシーズン防御率0点台や、史上初の投手5冠に輝き、史上初のノーヒットノーラン達成など、様々な記録を打ち立てた。生誕 1917年2月1日命日 1944年12月2日<< 戻る

山県有朋(やまがたありとも)
日本の武士(長州藩士)、陸軍軍人、政治家。階級は元帥陸軍大将。常用字体は山県有朋。内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第3・9代)、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)などを歴任した。生誕 1838年6月14日(天保9年閏4月22日)命日 1922年(大正11年)2月1日報国院釈高照含雪大居士<< 戻る

井伊直政(いいなおまさ)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。井伊氏第17代または24代当主。 上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主。徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の天下取りを全力で支えた功臣として、現在も顕彰されている。生誕 永禄4年2月19日(1561年3月4日)命日 慶長7年2月1日(1602年3月24日)祥壽院殿清凉泰安大居士<< 戻る

良忍(りょうにん)
良忍は、平安時代後期の天台宗の僧で、融通念仏宗の開祖。聖応大師。 尾張国知多郡の領主の秦道武の子。良仁とも書き、房号は光静房または光乗房。生年は延久4年説もある。比叡山東塔常行三昧堂の堂僧となり、雑役をつとめながら、良賀に師事、不断念仏を修める。また禅仁・観勢から円頓戒脈を相承して円頓戒の復興に力を尽くした。尾張国知多郡の富田荘(現愛知県東海市富木島町)に誕生しました。父は藤原秦氏兵曹道武、母は熱田神宮大宮司第二十四代、藤原秀範の息女でした。生まれつき美声の持ち主だったところから、幼名を音徳丸と名づけられました。十二歳で比叡山に登り、良賀僧都のもとで得度し、名を光乗坊良仁と与えられました。良忍...

馬祖道一(ばそどういつ)
中国唐の時代の禅僧。漢州什邡県の出身。南嶽懐譲に就いて嗣法。弟子には百丈懐海、南泉普願、大梅法常、塩官斉安、西堂智蔵、興善惟寛、麻浴宝徹がいる。諡は大寂禅師。洪州開元寺。『馬祖大寂禅師語録』日常生活の中に悟りがある大機大用の禅を説き、「平常心是道」、「即心即仏」など一言で悟りを表す数多くの名言を残す。また、相手に合わせて教え方を変える対機説法を始め、これによって多彩な弟子を育てた。・「南嶽の磚を磨して鏡を求めしも、馬祖の作仏を求めしを戒めたり。坐禅を制するにはあらざるなり。」(『正法眼蔵随聞記』53、大宋の禅院に麦米等をそろえて)・「かつて馬祖の会に参じてとふ、如何是仏と。馬祖云く、即心是仏と...