飛鳥時代

仏教を本気で学ぶ

智通・智達等も法相宗を広める

658年(斉明天皇4年) 入唐した智通・智達等も法相宗を広めた。これらは同系統に属し、平城右京に元興寺が創建されると法相宗も移り、元興寺伝、南伝と言われた。<< 戻る
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横蔵寺-兵庫県加古川市

・横蔵寺 曹洞宗 兵庫県加古川市平岡町新在家900白雉年間(西暦653年)法道仙人により開基。平安時代には58代 光孝天皇(在位884―887)の祈願所となり、59代 宇多天皇(在位887―897)が譲位の後、出家して寛平法皇となってからは、法皇の潜邸として栄えました。(リンク先より) << 戻る
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道昭が入唐留学

653年(白雉4年) 道昭が入唐留学して玄奘に師事し、帰国後飛鳥法興寺で法相宗を広めた。<< 戻る
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天上寺-兵庫県神戸市灘区

・天上寺 高野山真言宗 兵庫県神戸市灘区摩耶山町2-12摩耶山天上寺は、大化二年、孝徳天皇の勅願により、インドの高僧法道仙人によって開創されました。ご本尊は、お釈迦さまがみずから感成されたと言われる一寸八分の秘仏十一面観音です。(リンク先より)※大化二年 646年 << 戻る
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和田寺-兵庫県篠山市

・和田寺 天台宗 兵庫県篠山市今田町下小野原69646年法道仙人開基 足利義澄豊臣秀吉等の擁護を受く後水尾天皇の后新広義門院の祈願所 杉林の参道シャガの群生古木あり立杭焼の郷。646年(大化二年)法道仙人が和田寺山頂上に一宇の堂を建立開基された。820年(弘仁十一年)京都妙法院末となり、以後数拾の堂宇が建ち繁栄したが、1184年(寿永三年、元暦元年)2月兵火に羅り悉く焼失、翌年の文治元年、播州清水寺二﨟理圓和尚が再建する。(リンク先より) << 戻る
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蘇我入鹿(そがのいるか)

飛鳥時代の豪族。蘇我蝦夷の子。大臣として大和朝廷の有力者であったが、乙巳の変において討たれ、その後蘇我氏が凋落するきっかけとなる。青少年期は僧・旻に学問堂で学び、「吾が堂に入る者に宗我大郎(蘇我入鹿のこと)に如くはなし」と言われる程の秀才だったと言われる。蘇我入鹿は大和朝廷の実質の最高権力者としての地位を固めたが、皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で従兄弟に当たる蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げていた際、肩を震わせていた事に不審がっていた所を古人大兄皇子の異母弟で、皇位継承のライバルだった中大兄皇子(後の天智天皇)と佐伯子麻呂に斬り付けら...
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龍泉寺-奈良県吉野郡

・大峯山 龍泉寺 真言宗醍醐派 奈良県吉野郡天川村大字洞川494白鳳年間(645〜710)役行者(えんのぎょうじゃ)が大峯を開山し、修行していた頃、山麓の洞川に下りられ、岩場の中からこうこうと水が湧き出る泉を発見されました。役行者がその泉のほとりに八大龍王尊をお祀りし、行をしたのが龍泉寺の始まりであると伝えられています。この泉を「龍の口」と言い、この地を龍神様の住まわれる泉ということから、龍泉寺と名付けられました。(リンク先より) << 戻る
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法楽寺-兵庫県神崎郡

・法楽寺 高野山真言宗 兵庫県神崎郡神河町中村1048開山は大化年間、開基は法道仙人といわれており、開山の由来から別名「播州犬寺」と呼ばれております。(リンク先より)※大化年間 645年から650年 << 戻る
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文保寺-兵庫県篠山市

・文保寺 天台宗 兵庫県篠山市味間南1097文保寺は、大化元年(645年)に法道仙人(ほうどうせんにん)によって開かれ、自作の聖観世音菩薩を本尊として安置し、聖備山長流寺(しょうびざんちょうりゅうじ)と称されていました。法道仙人は、印度より中国を経て日本に仏教を伝えたと云われ、瀬戸内海を経て加古川上流域の播磨・丹波地方を中心に200ケ寺以上の多くの山岳寺院を開かれており、特に天台真言系の寺院が多くなっています。(リンク先より) << 戻る
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塩船観音寺-東京都青梅市

・塩船観音寺 公式ホームページ 真言宗醍醐派 東京都青梅市塩船194当観音寺は、山号を 大悲山 と称し、寺は地名の塩船を付けて『大悲山塩船観音寺』と申しております。塩船とは、周囲の地形が小丘に囲まれ 舟の形に似ており、仏が衆生を救おうとする大きな願いの舟である『弘誓の舟』になぞらえて塩船と名づけられたのであります。大化年間(西暦645~650年)に若狭国の八百比丘尼が一寸八分の紫金の観音像を当地に安置したのが開山と伝えられ、貞観年間(859~877年)には安然和尚が十二の坊舎を建て興隆を極めたと伝えられております。(リンク先より) << 戻る
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祥龍寺-兵庫県神戸市灘区

・祥龍寺 臨済宗妙心寺派 兵庫県神戸市灘区篠原北町3-6-2祥龍寺は法道仙人(645年頃)の開基と伝えられ古くは広國山と号す。『大阪・堺・須磨・一の谷まで一眸の下に遮る真妙の勝邑』として、平清盛の頃寺運大いに盛んであった。(リンク先より) << 戻る
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乙巳の変

645年、乙巳の変。厩戸王がなくなると、朝廷では蘇我馬子の子の蘇我蝦夷と蘇我入鹿が権勢をふるう。中大兄皇子が中臣鎌足と協力し、蘇我入鹿を殺し蘇我氏を滅ぼす。<< 戻る
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大化改新の詔

645年、大化改新の詔。中大兄皇子は皇太子となって新しい政府をつくり、政治の改革をはじめる。公地公民の制、班田収授の法など。<< 戻る
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善光寺-長野県長野市

・善光寺 単立 長野県長野市元善町491『善光寺縁起』によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。 この仏像は、仏教の受容を巡っての崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642年)現在の地に遷座いたしました。皇極天皇三年(644年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と...
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洞玄寺-山口県山陽小野田市

・洞玄寺 曹洞宗 山口県山陽小野田市郡1896江戸時代の長州藩の公的文書「寺社由来」によると、西暦635年、物部守屋の三男で厚東氏の祖となった辰孤連(たつこのむらじ)が長門守に任ぜられ、この地に推古天皇の持尊仏(一光三尊阿弥陀仏)をまつり新善光寺を創建したと伝えられている。裏山には、4世紀後半の前方後円墳で長門国の初代長官の墓と言われている有名な長光寺山古墳が眠っている。(リンク先より)
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玉泉寺-東京都狛江市

・玉泉寺 -トップページ- 天台宗 東京都狛江市東和泉3-10-23当山、大古は大輪寺と云い、多摩川の対岸に在り、人皇第34代舒明天皇六甲午年(634)10月浄慶法印の開創にて、薬師文殊の両像を安置しました。年を経て建造物も年輪と共に次第に荒廃していき、文応年間北条時頼が諸国行脚の折り、荒廃した堂宇を再造営しましたが、戦乱の世、兵火を逃れ得ても、多摩川の度重なる洪水により甚大な被害を受け、その折文殊の尊像を失い、薬師の尊像のみを奉安しています。(リンク先より) << 戻る
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遣唐使の派遣

630年、遣唐使の派遣。894年までの間、10数回送られる。<< 戻る
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浅草寺-東京都台東区

・あさくさかんのん 浅草寺 公式サイト 聖観音宗 東京都台東区浅草2-3-1寺伝によると、ご本尊がお姿を現されたのは、飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝であった。宮戸川(今の隅田川)のほとりに住む檜前浜成・竹成兄弟が漁をしている最中、投網の中に一躰の像を発見した。仏像のことをよく知らなかった浜成・竹成兄弟は、像を水中に投じ、場所を変えて何度か網を打った。しかしそのたびに尊像が網にかかるばかりで、魚は捕れなかったので兄弟はこの尊像を持ち帰った。 土師中知(名前には諸説あり)という土地の長に見てもらうと、聖観世音菩薩の尊像であるとわかった。そして翌19日の朝、里の童子たちが草でつく...
人物

蘇我馬子(そがのうまこ)

蘇我馬子とは、飛鳥時代の豪族。敏達天皇の下で大臣に就き、以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、54年に渡り権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築きました。邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれました。敏達天皇元年(572年)敏達天皇の即位時に大臣となりました。敏達天皇13年(584年)百済から来た鹿深臣が石像一体、佐伯連が仏像一体を持っていたのを馬子がもらい受け、司馬達等と池邊氷田を派遣して修行者を探させたところ、播磨国(一説によると赤穂郡矢野庄)で高句麗人の恵便という還俗者を見つけ出したという。馬子はこれを師として、司馬達等の娘の嶋を得度させて尼とし善信尼となし、更に善信...
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三論宗(元興寺流)が伝わる

625年(推古33年)に高句麗の僧の恵灌が三論宗(元興寺流)を伝えました。インドの龍樹の中論・十二門論、その弟子提婆の百論の三論を所依(基盤とする)の経典とする論宗(経を所依とせず、論を所依とする)です。空を唱える事から、空宗ともいわれます。その他、無相宗・中観宗・無相大乗宗の呼び方もあります。中国隋代に嘉祥大師吉蔵(549年 - 623年)が大成しました。吉蔵の『三論玄義』は三論宗の立場で書かれた仏教概論です。<< 戻る
人物

鞍作鳥(くらつくりのとり)

鞍作鳥とは、7世紀初はじめごろ、飛鳥時代の代表的な仏像彫刻師です。鞍作止利とも表記されます。渡来人で仏教をつたえたと言われる司馬達等(しばたっと)の孫で、止利仏師(とりぶっし)ともいわれ、聖徳太子に用いられました。その作風には北魏(ほくぎ・中国)の影響が見られます。代表作に法隆寺金堂の釈迦三尊像(623年)があります。<< 戻る
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聖徳太子(しょうとくたいし)

厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)、厩戸王(うまやとおう)とも呼ばれ、飛鳥時代の皇族・政治家。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。「聖徳太子」は後世の尊称ないし諡号。推古天皇のもと、蘇我馬子と協力して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなどして進んでいる中国の文化・制度を学び冠位十二階や十七条憲法を定めるなど大王(天皇)や王族が中心である中央集権国家体制の確立を図ったほか仏教や儒教を取り入れ神道と共に信仰し興隆に努めたと言われる。生誕 574年2月7日(敏達天皇3年1月1日)命日 622年4月8日(推古天皇30年2月22日)<< 戻る
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法輪寺-奈良県生駒郡

・法輪寺 単立 奈良県生駒郡斑鳩町大字三井1571当寺の創建には二説が伝えられています。ひとつは、推古30年(622)聖徳太子がご病気になられた折、太子の御子山背大兄王がその子由義王らと共に太子のご病気平癒を願って建立されたという説(巻子本『聖徳太子伝私記』引用の『寺家縁起』) もうひとつは、天智9年(670)の斑鳩寺焼失後、百済開法師・圓明法師、下氷新物三人が合力して造寺したとする説(『聖徳太子伝暦』『上宮聖徳太子伝補闕記』)です。昭和に行なわれた石田茂作博士の発掘調査では、伽藍配置が法隆寺式であること、規模は法隆寺西伽藍の3分の2であること、出土する鐙瓦・宇瓦の文様が法隆寺のそれぞれと類似...
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聖徳太子(厩戸王)が死去

622年、聖徳太子(厩戸王)が死去。<< 戻る
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浄土寺-広島県尾道市

・浄土寺 真言宗泉涌寺派 広島県尾道市東久保町20-28瑠璃山の翠松を背に、玉の浦の碧波に臨む山陽道の名刹転法輪山大乗律院荘厳浄土寺(以下浄土寺)は、遠く飛鳥の昔、推古天皇の二十四(616)年、聖徳太子の開基と伝えています。ある時には高野山に縁を結び又は南都西大寺の列に連なり、更に江戸時代に至って京都の泉涌寺派に属して大本山となっています。(リンク先より) << 戻る
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願成寺-山口県美祢市

・願成寺 曹洞宗 山口県美祢市美東町大田5684615年。百済の国の聖明王の第三皇子であった淋聖太子が推古天皇の御世に、聖徳太子に教えを請おうと渡来された折りに、航海の安全守護の為に供奉されたとの伝えがあります。淋聖太子は、西国第一の守護大名であった大内氏の祖先だと言われている方で、佐波郡多々良浜(現在の防府市)に上陸され、同郡高倉の地に瀬戸内の守護神として祀られ、沖を通る船はよくよく礼を尽くすように伝えられました。(リンク先より)
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『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)

『三経義疏』は聖徳太子によって著されたと伝承されている『法華義疏』(推古天皇23年(615年))・『勝鬘経義疏』(推古天皇19年(611年))・『維摩経義疏』(推古天皇21年(613年))の総称です。それぞれ『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』の三経の注釈書(義疏・注疏)です。<< 戻る
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『法華義疏』(ほっけぎしょ)

『法華義疏』は聖徳太子によって推古天皇23年(615年)に著されたと伝承されています。また、『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)の一つです。<< 戻る
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蓮光院初馬寺-三重県津市

・蓮光院初馬寺 真言宗御室派 三重県津市栄町3丁目210聖徳太子が厄除け・病気平癒のため開創されたお寺と伝えられております。即ち、太子42歳の厄年の時(614年)東の四天王寺建立を発願せられ、この伊勢の地に来られたおり、急に病に罹られ造営も太子の意のままにならず、そこへ加えて都より使いの者が現れ、御母と正妃がご不例である旨を伝える。太子は大層ご心配になり、師であった高麗の僧、慧慈に「如何せばや」と計られたところ、慧慈は徐に口を開き「聖体今年42歳の厄難の悪しき年廻りにあらせられる。伏して乞う、伽藍の艮(うしとら)の方角に馬頭観世音菩薩を彫み、法報二身を併せ安置し除難の法を厳修したまえ」と申され...
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達磨寺-奈良県北葛城郡

・片岡山 達磨寺 臨済宗南禅寺派 奈良県北葛城郡王寺町本町2-1-40『日本書紀』によると、推古天皇21年(613年)12月、聖徳太子が道のほとりに伏せっていた飢人を見つけ、飲み物と食べ物、それに衣服を与えて助けましたが、飢人は亡くなりました。そのことを大いに悲しんだ聖徳太子は、飢人の墓をつくり、厚く葬りましたが、数日後に墓を確認してみると、埋葬したはずの飢人の遺体が消えてなくなっていました。この飢人が、のちの達磨大師の化身と考えられるようになり、達磨寺は生まれました。(リンク先より) << 戻る
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帝釈寺-宮崎県宮崎市

・帝釈寺 曹洞宗 宮崎県宮崎市下北方町大字戸林5272帝釈寺は約1400年前(推古帝21年:613年)に聖徳太子が湊河勝に命じて国家安泰宝祚長久を祈願する霊場として建立し善法山「帝跡寺」と号されたといわれております。(リンク先より) << 戻る
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『維摩経義疏』(ゆいまきょうぎしょ)

『維摩経義疏』は聖徳太子によって推古天皇21年(613年)に著されたと伝承されています。また、『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)の一つです。<< 戻る