聖徳太子

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長光寺-滋賀県近江八幡市

・長光寺 高野山真言宗 滋賀県近江八幡市長光寺町694推古天皇の御代、聖徳太子がお妃と共に「老蘇の森」(長光寺から北東4キロ地点)に仮宮されていた時、妃が産気づかれ御難産になられました。(中略)太子はのちに、この香木で千手観音像を刻み腹中に法華経・維摩経・勝鬘経の三部のお経を籠めて本尊とされ、この地を転妙法輪、仏教長久の地として、ここに本堂、金堂、法堂、鐘楼堂、僧堂、食堂など七堂伽藍を建て、峰には十二社権現、東には薬師、十二神将、西には弁財天等をお祀りされました。(リンク先より) << 戻る
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正明寺-滋賀県蒲生郡

・正明寺 黄檗宗 滋賀県蒲生郡日野町松尾560正明寺は聖徳太子の創建と伝えられており、その昔比叡山延暦寺系の地方大寺として栄えていましたが戦国時代の戦火を受けて消失しました。江戸時代に入り再興された時は、永源寺の高僧一絲文守大和尚の尽力によって後水尾上皇の勅建寺となり、黄檗禅の中本山としての寺格を備え、数多くの名僧をこのお寺から輩出しました。(リンク先より) << 戻る
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観音正寺-滋賀県近江八幡市

・観音正寺 天台宗 滋賀県近江八幡市安土町石寺2・第三十一番 ⇒ 西国三十三所 第三十二番 繖山 観音正寺 ​⇒ 第三十三番当山は1400年前、聖徳太子が繖山の山上にて千手観音を彫み、寺を開かれました。爾来この「お山」は仏教、そして観世音菩薩の聖地として脈々と法灯が受け継がれてまいりました。また1300年前には日本の巡礼信仰の基礎ともなった西国三十三所観音霊場の札所寺院として、現在までに多くの仏教徒の拠り所とされ、現在でも全国から多くの巡礼者が当山へお参りされております。(リンク先より) << 戻る
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西教寺-滋賀県大津市

・西教寺 天台真盛宗 滋賀県大津市坂本五丁目13-1西教寺は正しくは、 天台真盛宗総本山戒光山兼法勝西教寺 (てんだいしんせいしゅうそうほんざんかいこうさんけんほっしょうさいきょうじ)といいます。聖徳太子が恩師である高麗の僧慧慈、慧聡のために創建されたと伝えられています。(リンク先より) << 戻る
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國束寺-三重県度会郡

・國束寺 和宗 三重県度会郡度会町平生1481-1聖徳太子様が皇大神宮の神勅に従い開かれました。その神勅とは伊勢神宮の西にある国束山山頂に十一面観音像を安置し、国土安穏を祈念せよとのことで、この寺は鎮護国家の寺、国家安泰を祈願する寺として始まりました。(リンク先より) << 戻る
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四天王寺-三重県津市

・四天王寺 曹洞宗 三重県津市栄町1-892用明天皇の時、聖徳太子は守屋大連の軍に三度も敗れました。そこで太子は四天王尊像を刻み、「もし我が勝利を得れば、寺塔建立するから勝利を与えてほしい」との誓願をたてました。その結果、守屋の軍をやぶることができたため、誓願どおり建立した四つの四天王寺を建立しました。その一つが、本寺であるとされています。 近年、境内から奈良時代の古瓦が出土され、建立されたのは7世紀頃という説もありますが、いずれにせよ1000年以上の歴史があり、平安時代ではこの地方で最も繁栄した寺院でした。(リンク先より)<< 戻る
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南原寺-山口県美祢市

・南原寺 真言宗御室派 山口県美祢市伊佐町南原神功皇后を草創、聖徳太子を開基、花山法皇を中興とする県内最古刹の真言宗寺院で、寺伝によると聖徳太子が仏教を広める為、諸国の霊地を選んで46ヶ寺を建立されたその内の1ヶ寺といわれ、難払寺、難波羅寺、又は難波羅密寺と称していた。(リンク先より) << 戻る
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香園寺-愛媛県西条市

・香園寺 単立(真言宗) 愛媛県西条市小松町南川甲19・60番札所 ⇒ 四国八十八ヶ所 第61番札所 栴檀山 教王院 香園寺 ⇒ 62番札所香園寺は、聖徳太子(574~622)が第31代用明天皇の病気平穏を祈願して創建したと伝わっています。夢の中に、七彩の雲と天より降りた金の衣を着た白髪の老翁があらわれ、「二名の島(現在の四国)に霊地あり。梵舎一宇を建立せば病脳忽ち平癒すべし。」とお告げを残しました。(リンク先より)<< 戻る
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中山寺-兵庫県宝塚市

・中山寺 真言宗中山寺派 兵庫県宝塚市中山寺2-11-1・第二十三番 ⇒ 西国三十三所 第二十四番 紫雲山 中山寺 ⇒ 第二十五番北摂の地に、紫雲たなびくと言われる中山寺は、聖徳太子の創建によると伝えられる我が国最初の観音霊場です。(リンク先より) << 戻る
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極楽寺-奈良県生駒郡

・極楽寺 真言宗国分寺派 奈良県生駒郡安堵町大字東安堵1453聖徳太子により建立された寺院として1400年もの歴史を誇る寺院の境内は落ち着いた雰囲気(リンク先より) << 戻る
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千手院-奈良県生駒郡

・千手院 信貴山真言宗 奈良県生駒郡平群町信貴山22806世紀半ば、聖徳太子が排仏派の物部氏を討ち果たした後、自ら刻んだ毘沙門天王の像を勧請し、この地を「信ずべし、貴ぶべき山」の信貴山と称して堂宇を建立したのが始まりと伝えられています。(リンク先より) << 戻る
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朝護孫子寺-奈良県生駒郡

・信貴山 朝護孫子寺 信貴山真言宗 奈良県生駒郡平群町信貴山2280-1今から1400余年前、聖徳太子は、物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、この山に至りました。太子が戦勝の祈願をするや、天空遥かに毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授かりました。その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻でありました。太子はその御加護で勝利し、自ら天王の御尊像を刻み伽藍を創建、信ずべし貴ぶべき山『信貴山』と名付けました。(リンク先より) << 戻る
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大蔵寺-奈良県宇陀市

・大蔵寺 真言宗豊山派 奈良県宇陀市大宇陀区栗野906当山は人皇三十一代 用明天皇の叡願により、聖徳太子の御開基なり。後ち弘法大師入唐帰朝し勝地を尋ねて先ずこの山に登り、真言宗本初の道場と定めらる。(リンク先より) << 戻る
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西芳寺-京都府京都市西京区

・西芳寺 単立 京都府京都市西京区松尾神ヶ谷町56遡ること1,300年前の奈良時代、聖武天皇の詔により、行基菩薩が畿内四十九院の法相宗の寺として開山しました。開山前の飛鳥時代、西芳寺があった土地には聖徳太子の別荘があったといわれております。平安時代初期には弘法大師が一時住し、鎌倉時代初期には法然上人が浄土宗に改宗。(リンク先より) << 戻る
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了徳寺-京都府京都市右京区

・法輪山 了徳寺 真宗大谷派 京都府京都市右京区鳴滝本町83法輪山 了徳寺は、正西法師によって建てられ、通称「大根焚寺」とも呼ばれております。御本尊は、聖徳太子自ら桂の木を彫ってつくり、応仁の乱後、安置されたと伝えられる阿弥陀如来像です。その阿弥陀如来像の横には鎌倉時代の仏師 湛慶(たんけい)の作とされる親鸞聖人坐像がございます。(リンク先より) << 戻る
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全興寺-大阪府大阪市平野区

・全興寺公式HP 高野山真言宗 大阪府大阪市平野区平野本町4-12-21今から千四百年前の昔、聖徳太子が、平野の野中の地に小宇を建立して薬師如来の像を安置されたと、寺伝にあり、これが全興寺の草創です。その薬師堂からしたいに町が形づくられ「平野」発祥の地とも言われています。(リンク先より) << 戻る
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帝釈寺-大阪府箕面市

・帝釈寺のホームページ 高野山真言宗 大阪府箕面市粟生外院2-14-11古義真言宗高野山金剛峯寺末流なり。外院の里にあり。人皇34代推古天皇の御宇、聖徳太子の創立なり。(リンク先より) << 戻る
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長福寺-愛知県稲沢市

・牛頭山 長福寺 真言宗智山派 愛知県稲沢市平和町下三宅字郷内309聖徳太子が全国に屯倉御県(みやけみあがた)の制をしいたとき牛頭天王を祭り当官を建立。後に津島神社を別院として造営し、別当となる。(リンク先より) << 戻る
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楽運寺-愛知県名古屋市中区

・楽運寺 真宗大谷派 愛知県名古屋市中区大須4-10-23慶長十五年、三河上宮寺第十五世教祐師(1586~1663)により三河上宮寺を本寺として江戸四ツ谷に「龍善寺」を、紀州に「専養寺」を、そして尾張名古屋の八重町(現在、中区栄錦三丁目)に通所として「祐西坊」を開かれました。 この「祐西坊」がのちの楽運寺であります。 当寺の山号を太子山と申すのは、本寺上宮寺より将来された聖徳太子御自作と伝える「聖徳太子二歳木立像」に因むとみられます。 (リンク先より)※慶長十五年 1610年 << 戻る
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西念寺-鳥取県米子市

・西念寺 真宗大谷派 鳥取県米子市法勝寺町87本願寺第12世教如上人(1558~1614)が文禄元年(1592)、九州名護屋滞陣中の豊臣秀吉への陣中見舞いからの帰路、石見国大森銀山(現島根県大田市大森町)に立ち寄られた。 そのおり当山開基教専(敬専)が上人の弟子となり、邇摩郡佐摩村銀山田中の某寺にあった伝聖徳太子作の阿弥陀如来(銀山田中にあったので「田中の本尊」と言う)を奉じ、文禄2年(1593)2月、伯耆大山の麓・伯耆国会見郡中間荘尾高村(現米子市尾高)に一宇を建立、西念寺と号した。(リンク先より)<< 戻る
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浄珠院-愛知県岡崎市

・浄珠院 浄土宗西山深草派 愛知県岡崎市上和田町字北屋敷55上和田浄珠院の濫觴は、人皇第三十一代用明天皇の遺勅により造立された、上宮太子(聖徳太子)直作の孝養像を安置し、慈覚大師(天台中興の祖、円仁)が人皇五十四代仁明天皇承和年中(834~848)に創建された道場で、清光山大海寺と号す。その後、星霜相遷り、堂宇廃絶せしを、応永年中(1394~1428)、開山教然良頓上人(松平二代泰親の長男)京都円福寺の会下より故郷に帰り、仏殿を造立し、元の天台を浄土と改宗して、浄珠院と号した。(リンク先より) << 戻る
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大念佛寺-大阪府大阪市平野区

・大念佛寺の公式サイト 融通念仏宗 大阪府大阪市平野区平野上町1-7-261127年、聖徳太子信仰の厚かった良忍上人が四天王寺に立ち寄った際、太子から夢のお告げを受け、鳥羽上皇の勅願により平野に根本道場として創建したのが始まり。(リンク先より) 平安末期以降広まった念仏信仰の先駆けとなり、国産念仏門の最初の宗派で日本最初の念仏道場と言われる。その後、火災などで荒廃するが、元禄期(1700年頃)に本山として体裁が整い、現在に至る。融通念佛宗の総本山。(リンク先より)<< 戻る
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大安寺-奈良県奈良市

・大安寺 高野山真言宗 奈良県奈良市大安寺2-18-1大安寺は、聖徳太子が平群郡額田部に熊凝道場を創建したことに始まります。やがて百済大寺、高市大寺、大官大寺と名と所を変え、平城京に移って大安寺となりました。この間の事情を『三代実録』元慶四年(880年)冬十月の条には次のように記します。 「昔日、聖徳太子平群郡熊凝道場を創建す。飛鳥の岡本天皇、十市郡百済川辺に遷し建て、封三百戸を施入し、号して百済大寺と曰う。子部大神、寺の近側にあり、怨を含んで屡々堂塔を焼く。天武天皇、高市郡の夜部村に遷し立て、号して高市大官寺といい、封七百戸を施入す。和銅元年平城に遷都し、聖武天皇詔を下して律師道慈に預け、平...
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医王寺-埼玉県秩父郡

・二十三夜寺(医王寺) 真言宗豊山派 埼玉県秩父郡皆野町三沢1960その昔、聖徳太子がこの地を巡訪された際、諏訪明神から夢の中でお告げを受けた。ここは仏法隆盛の地であると奇異な思いを感じた太子は、自ら薬師如来の像を彫刻して草庵に安置、医王善逝の寺とした。これが今の奥の院である。聖武天皇の時代には行基菩薩が巡訪され、勢至菩薩を安置し、師慶山観音院と名付けられた。弘仁元年(810年)に弘法大師が訪れ、この地が往古の霊場との念から坊舎仏閣を建立、大師が自ら馬鳴菩薩を彫刻し、これを安置した。(リンク先より) << 戻る
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教應寺-大阪府大阪市東淀川区

・教應寺 真宗大谷派 大阪府大阪市東淀川区豊里3-13-16教応寺のある東淀川区豊里地域は、かつて聖徳太子が度々足を運ばれ、四天王寺建立の候補地と考えられていた地であります。その地に、唐から帰られた伝教大師最澄が立ち寄られ「法上寺」(805年頃草創)を建てられます。それが教応寺のはじまりと伝えられています。その後、永正14(1517)年真宗に改宗し、天和3(1683)年、寺号を「敎應寺」と改めております。(リンク先より) << 戻る
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円通寺-東京都荒川区

・円通寺 曹洞宗 東京都荒川区南千住1-59-11開創 延暦十年 西暦791年 坂上田村麻呂将軍、八幡太郎義家再建本尊 聖観世音菩薩、聖徳太子一刀三禮御作開山 観月徹禪大和尚(前永平宗慶4世中興・總泉17世中興兼最乗258世)(リンク先より) << 戻る
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石山寺-滋賀県大津市

・石山寺 東寺真言宗 滋賀県大津市石山寺1-1-1・第十二番 ⇒ 西国三十三所 第十三番 石光山 石山寺 ⇒ 第十四番天平19年(747)、石山寺は聖武天皇の勅願により、良弁僧正が建てられた寺院と伝えられます。良弁僧正は聖武天皇から、東大寺の大仏建立にあたって黄金が不足しているので、黄金の産出を祈願するようにと命じられました。はじめは吉野の金峯山で祈願していた良弁僧正ですが、蔵王権現の夢告を受けて、この石山の地にたどりつきます。そして岩の上に、聖武天皇から預かった聖徳太子の念持仏を祀って祈願したところ、陸奥国で黄金が発見されました。祈願が達成されたため、念持仏を移動させようとしましたが、岩から...
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興徳寺-大阪府大阪市天王寺区

・興徳寺 高野山真言宗 大阪府大阪市天王寺区餌差町2-17聖徳太子存世中に今の法円坂付近に「薬師院」として創建され、天平年間(729~749)に行基菩薩によって再建された畿内49ケ院のひとつと言われていますが、第二次世界大戦の大阪大空襲にて現在の山門以外の諸堂を焼失したため詳細は不明です。(リンク先より) << 戻る
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長尾寺-香川県さぬき市

・長尾寺 天台宗 香川県さぬき市長尾町西653・86番札所 ⇒ 四国八十八ヶ所 第87番札所 補陀洛山 観音院 長尾寺 ⇒ 88番札所当山は、聖徳太子の開創と伝えられている。古くより聖武天皇( 724)、天平11年( 739)に行基菩薩がこの地を訪れ、霊感を得られ柳の木「楊柳(ようりゅう)」をもって聖観世音菩薩像(三尺五寸、約1メートル)の尊容を刻み本尊とし、 堂宇を建立して安置した。大同年間( 806- 810)に空海上人が、当山にて年頭七夜五穀豊熟、国土安穏を祈念された。その後、空海上人が唐に渡る前にこの地を訪れ、護摩修法を行い人々に護摩符を授けた。唐から帰国した空海は、天長2年( 825...
人物

鞍作鳥(くらつくりのとり)

鞍作鳥とは、7世紀初はじめごろ、飛鳥時代の代表的な仏像彫刻師です。鞍作止利とも表記されます。渡来人で仏教をつたえたと言われる司馬達等(しばたっと)の孫で、止利仏師(とりぶっし)ともいわれ、聖徳太子に用いられました。その作風には北魏(ほくぎ・中国)の影響が見られます。代表作に法隆寺金堂の釈迦三尊像(623年)があります。<< 戻る
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法輪寺-奈良県生駒郡

・法輪寺 単立 奈良県生駒郡斑鳩町大字三井1571当寺の創建には二説が伝えられています。ひとつは、推古30年(622)聖徳太子がご病気になられた折、太子の御子山背大兄王がその子由義王らと共に太子のご病気平癒を願って建立されたという説(巻子本『聖徳太子伝私記』引用の『寺家縁起』) もうひとつは、天智9年(670)の斑鳩寺焼失後、百済開法師・圓明法師、下氷新物三人が合力して造寺したとする説(『聖徳太子伝暦』『上宮聖徳太子伝補闕記』)です。昭和に行なわれた石田茂作博士の発掘調査では、伽藍配置が法隆寺式であること、規模は法隆寺西伽藍の3分の2であること、出土する鐙瓦・宇瓦の文様が法隆寺のそれぞれと類似...
年表

聖徳太子(厩戸王)が死去

622年、聖徳太子(厩戸王)が死去。<< 戻る