山口県(浄土真宗本願寺派)

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蓮光寺-山口県下関市

・蓮光寺 浄土真宗本願寺派 山口県下関市彦島西山町3-13-6文政2年(1819) 某寺掛所として草庵が建つ明治16年(1883)倒壊・無住時期を経て、説教所として再興される(リンク先より) << 戻る
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専徳寺-山口県岩国市

・専徳寺 浄土真宗本願寺派 山口県岩国市通津2764厳島合戦に勝利した毛利元就は一族の吉川広家を、弘中氏(当時の岩国城主)に代わって岩国地方を領有させた。広家公は、16年の間岩国の領主となったが、元和2年(1616)に家督を嫡男広正公に譲ると、次男彦次郎君を帯同して、玖珂郡通津村本呂尾に隠居所を構えた。当時、高照山にあった常福寺という真言宗の寺院を改宗し、広正公に対して浄土真宗の一寺建立を願い出た。開基に高森正蓮寺開基了善法師(弘中氏の血統)の3男善超師を迎え、寛永元年(1624)年、光照寺(のち専徳寺)が誕生した。(リンク先より) << 戻る
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生蓮寺-山口県美祢市

・生蓮寺 浄土真宗本願寺派 山口県美祢市東厚保町山中6401613 慶長18年 真言宗光臻庵を求む(リンク先より) << 戻る
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浄蓮寺-山口県下松市

・浄蓮寺 浄土真宗本願寺派 山口県下松市美里町2-12-1寺伝によると開基は、大内弘世四代の孫、勝屋左門重治で、父は勝屋右馬允興久と云い陶氏方の武将であった。 興久は徳山・須々万の殿浴山城主であったが、弘治三年(1557)毛利元就との戦いに敗れ、城も落ちて勝屋一族は滅亡する。その際、重治は幼少であったので一命を助けられ、家臣の沼新左衛門・安達藤九郎に伴われて末武荘まで落ちのび、民間に成長した。しかし重治は頼る者もないので、父興久や討たれた家臣の菩提を弔うため発心して出家となり、名を蓮甫と改めた。その後、蓮甫は大島村(徳山・大島)の教西(福間源六広明)と名のる出家と語らって、共に上京し、浄土真宗...
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三光寺-山口県宇部市

・三光寺 浄土真宗本願寺派 山口県宇部市大字東岐波456-1町・戦国時代に西国随一の大名として全盛を迎えた大内氏の菩提寺であり、宗派は天台宗、寺号は「菩提寺」でした。『日野山南麓に、旧寺敷、古墳、鎮守あり』との伝承があることから、寺地は、現在の「門前」と言われる地区にあったと伝わっています。「門前」は、寺の門前にあった故の呼称でしょう。大内氏滅亡の後、当世の住職であった道圓の代に至って一時廃寺となりましたが、その後天正17(1589)年、諸国を遊歴していた道圓は、当時の第11世本願寺門主、顕如上人の弟子となり、法名も了西と改め帰国、天正19(1591)年3月12日、現在の岐波の地に寺地を移して...
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満行寺-山口県萩市

・満行寺 浄土真宗本願寺派 山口県萩市平安古町東区3-268上殿という古い寺のあった地を毛利輝元から下され、天正年間(1573~91)に一宇を建立した。自身の諱をもって寺号とし、土地の名を山号{後年、現在の山号(浄殿)に改める}とした。毛利輝元が広島へ移ったので寺を嫡子祐善に譲り、次男玄徳と共に広島へ移り小庵(現在、広島市東白島町万行寺)を結んだ。防長移封のとき祐伝・祐善は萩に移り、慶長十年(1605)今の地に建立したのが萩満行寺の始まりである。(リンク先より) << 戻る
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善教寺-山口県岩国市

・善教寺 浄土真宗本願寺派 山口県岩国市錦町広瀬6682天正年間に平原に建立。寛永の大火により類焼し、現在の地に再建。(リンク先より)※天正年間 1573年から1593年 << 戻る
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誓教寺-山口県下松市

・誓教寺 浄土真宗本願寺派 山口県下松市切山3471562年の創立以来、ずっと西本願寺の浄土真宗で法灯を継いできました。江戸時代以前は地方寺院の設立規定はそれほど厳しくありませんでした。信者と僧侶で何とか維持できれば、掘立小屋のような寺でも勝手に運営すればよし、という程度のものだったようです。(リンク先より) << 戻る
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妙蓮寺-山口県下関市

・妙蓮寺 浄土真宗本願寺派 山口県下関市蒲生野町415大内義隆の家臣に原田右衛門之尉道信が大永三(一五二三)年仲秋京に上り本願寺九代實如上人に竭し剃髪して法名釋道信を賜り、實如上真筆六字の尊号を頂き、この蒲生野の地に一字を創草する。(リンク先より) << 戻る
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光明寺-山口県下関市

・光明寺 浄土真宗本願寺派 山口県下関市細江町1-7-10 延徳年中(1489~92)に、京都 本願寺の八代目 蓮如上人の弟子となった、常陸の国の釈正善が、長門国に下って、大永年間(1521~28)に豊浦郡西市に堂を建てたことに始まるとされています。(リンク先より) << 戻る