平安時代

仏教を学ぶ

天台宗が公認される

延暦25(806)年、華厳宗・律宗・三論宗(成実宗含む)・法相宗(倶舎宗含む)に天台宗を加えて十二名の年分度者が許されることになり、天台宗が公認されました。このころ、最澄上人は空海から、真言、悉曇(梵字)、華厳の典籍を借り、研究したといわれています。<< 戻る
仏教を学ぶ

天鷲寺-大阪府大阪市天王寺区

・天鷲寺公式ホームページ 天台宗 大阪府大阪市天王寺区六万体町3-18平安時代延暦24年(805年)7月に天台宗宗祖『傳教大師最澄』によって開創されたこのお寺は『傳教大師入唐求法帰朝記念のお寺』としてその由緒と格式を現在に伝えている。(リンク先より) << 戻る
仏教を学ぶ

能福寺-兵庫県神戸市兵庫区

・能福寺 天台宗 兵庫県神戸市兵庫区北逆瀬川町1-39延暦24年(805年)伝教大師の開基から1200年以上の年月が経過。神戸の民衆に支えられ、戦争、火事、地震など様々な困難を乗り越え、灯火を御守りしております。(リンク先より) << 戻る
仏教を学ぶ

長楽寺-京都府京都市東山区

・長楽寺 時宗 京都府京都市東山区八坂鳥居前東入円山町626延歴24年(西暦805)桓武天皇の勅命によって、伝教大師を開基として大師御親作の観世音菩薩を本尊として創建された。当初(平安時代)は天台宗・比叡山延暦寺の別院として建てられましたが、その後室町時代の初期当時の一代の名僧国阿上人に譲られ時宗(宗祖一遍上人)に改まり、明治39年に時宗の総本山格であった名刹七条道場金光寺が当寺に合併され今日に至ります。(リンク先より) << 戻る
仏教を学ぶ

教應寺-大阪府大阪市東淀川区

・教應寺 真宗大谷派 大阪府大阪市東淀川区豊里3-13-16教応寺のある東淀川区豊里地域は、かつて聖徳太子が度々足を運ばれ、四天王寺建立の候補地と考えられていた地であります。その地に、唐から帰られた伝教大師最澄が立ち寄られ「法上寺」(805年頃草創)を建てられます。それが教応寺のはじまりと伝えられています。その後、永正14(1517)年真宗に改宗し、天和3(1683)年、寺号を「敎應寺」と改めております。(リンク先より) << 戻る
仏教を学ぶ

空海上人、真言密教の第八祖に

永貞元(延暦24、805)年2月、長安の西明寺に滞在し、まず醴泉寺の印度僧般若三蔵に学び、梵語の経本や新訳経典を与えられる。5月より、正統の真言密教を継がれた第七祖である青龍寺東塔院(しょうりゅうじとうとういん)の恵果和尚(けいかかしょう)を訪れ、6月に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂、8月に伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(大日如来)を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられ、真言密教の第八祖となりました。<< 戻る
仏教を学ぶ

最澄上人、中国で修行し帰国

中国に着いた最澄上人は、今の浙江省天台県に位置する天台山に赴き、修禅寺の道邃(どうずい)・仏隴寺の行満(ぎょうまん)に天台教学を学び、道邃より大乗菩薩戒を受けます。その後禅林寺の翛然(しゅくねん)より禅の教えを受け、帰国前には越州龍興寺で順暁阿闍梨から密教の伝法を受けました。こうして多くの経典や法具を携え、延暦24(805)年に帰国しました。<< 戻る
仏教を学ぶ

空海上人、留学僧として唐へ

延暦23(804)年、31歳の時、それまで私度僧であったのを東大寺戒壇院(かいだんいん)で具足戒を受け公式に僧となり、この頃、名を空海とあらためたといわれています。同年7月6日、留学僧として遣唐使の一行と共に、肥前(長崎県)松浦郡田浦(たのうら)から唐へ出港します。遣唐使船4艘のうち2艘は沈没あるいは航行不能に陥ってしまいますが、天台宗を開いた最澄も、このときのもう1艘に乗って唐に渡りました。<< 戻る
仏教を学ぶ

最澄上人、遣唐使船で中国に渡る

延暦21(802)年、桓武天皇より入唐求法(にっとうぐほう)の還学生(げんがくしょう、短期留学生)に最澄上人が選ばれ、延暦23(804)年7月、遣唐使船で中国に渡りました。当時、中国に渡るのは命がけのことで、4隻で構成された遣唐使船のうち、中国へ無事に着いたのは2隻だけでした。到着した2隻の内の別の船には、後に真言宗を開いた空海が乗っていました。<< 戻る
仏教を学ぶ

正尊寺-岐阜県本巣市

・正尊寺 浄土真宗本願寺派 岐阜県本巣市曽井中島1592天台宗横蔵寺(801年伝教大師最澄創設)の末寺として創建された。しかし、室町時代に入り横蔵寺の衰退と共に正尊寺も無住の廃寺同然になっていたと伝えられている。 その当時は現在の中島の地から北西に1㎞くらい離れた向野の南に建っていた。そこへ、文明5年(1473)福井県吉崎御坊の蓮如上人から遣わされた了光坊が、浄土真宗に改宗し本巣町・大野町・谷汲村・糸貫町・網代西郷の門徒と共に荒れ寺を浄土真宗の道場として正尊寺を再建した。(リンク先より)<< 戻る
人物

和気清麻呂(わけ の きよまろ)

奈良時代末期から平安時代初期にかけての貴族。磐梨別乎麻呂(または平麻呂)の子。769年(神護景雲3年)、和気清麻呂の姉である尼僧・和気広虫(わけ の ひろむし)は、称徳天皇から宇佐八幡宮の神託(神のお告げ)をいただいてくるよう命じられましたが、九州までの長旅は虚弱な身体では耐えられないだろうという理由で、弟である和気清麻呂が代わりに向かうことになりました。その神託の内容は、称徳天皇が寵愛していた「僧・道鏡を皇位につける」という内容でした。神託に従えば、神武天皇から続いてきた皇族による皇位継承が途絶えることにもなります。そもそも、称徳天皇は生涯独身で子どもがなく、孝謙上皇時代(第46代孝謙天皇と...
仏教を学ぶ

長福寿寺-千葉県長生郡

・長福寿寺 天台宗 千葉県長生郡長南町長南969延暦17年(798)に桓武天皇の勅願により、伝教大師最澄〔天台宗の宗祖〕によって創建された由緒ある大古刹です。中世においては日本三大学問所(談義所=僧侶の大学)として寺院子弟の教育にあたり、西に比叡山、東に長福寿寺(当時は東叡山と称した(※))ありと称せられ、実に関東天台の要をなしていました。(リンク先より) << 戻る
仏教を学ぶ

華厳寺-岐阜県揖斐郡

・華厳寺 天台宗 岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積23・第三十二番 ⇒ 西国三十三所 第三十三番 谷汲山 華厳寺 ​⇒ 第一番「谷汲さん」の愛称で親しまれる当山は、山号が「谷汲山(たにぐみさん)」、寺号が「華厳寺(けごんじ)」といいます。寺の草創は桓武天皇(737-806)の延暦十七年(798)で開祖は豊然上人、本願は大口大領です。(リンク先より) << 戻る
人物

善珠(ぜんしゅ/ぜんじゅ)

奈良時代から平安時代前期にかけての僧。俗姓は阿刀氏で、玄昉の子とする史書もあるが、善珠の生まれた723年当時玄昉は遣唐使として唐に滞在している最中である。大和国の出身。秋篠寺の開基とされている。法相六祖の1人。玄昉に師事して法相・因明に通じた。生誕 養老7年(723年)命日 延暦16年4月21日(797年5月25日)<< 戻る
仏教を学ぶ

坂上田村麻呂が征夷大将軍に

797年、坂上田村麻呂が征夷大将軍になる。→蝦夷の平定。<< 戻る
仏教を学ぶ

円満寺-神奈川県横浜市西区

・円満寺ホームページ 天台宗 神奈川県横浜市西区久保町50-1当山は天台宗本山別格阿富貴山安禅院円満寺と号し、天台宗山門派延暦寺末、本山別格の寺院である。安禅院は元は比叡山延暦寺の一坊で、東塔北谷に位置していた。寺院明細帳によると、延暦十三年九月の創建で大教院と号し、延喜元年、宇多法皇が比叡山に行幸の際には御座所にあてられたことがある。(リンク先より)※延暦十三年 794年 << 戻る
仏教を学ぶ

平安京に遷都

794年、平安京に都を遷す。律令制の乱れ。桓武天皇が和気清麻呂らの考えを用い、遷都。<< 戻る
仏教を学ぶ

最澄上人、一乗止観院を建立

延暦7年(788)年、最澄上人は薬師如来を安置する一乗止観院を建立します。現在の総本堂・根本中堂にあたります。<< 戻る
仏教を学ぶ

最澄上人、具足戒を受ける

最澄上人は奈良の都に行き、さらに勉学を積みました。そして延暦4(785)年、東大寺で具足戒を受けました。受戒後、比叡山に籠り一人修行を続けます。<< 戻る
仏教を学ぶ

最澄上人の得度

宝亀9(778)年、12歳のとき、近江の国分寺(現在の大津市石山)に入り行表の弟子となりました。宝亀11(780)年11月12日、14歳で国分寺僧補欠として得度し、「最澄」という名前をいただきました。<< 戻る
仏教を学ぶ

最澄上人の誕生

伝教大師 最澄上人は、神護景雲元(767)年8月18日、現在の滋賀県大津市坂本の一帯を統治していた三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として誕生しました。俗名は広野(ひろの)です。<< 戻る