人物 佐藤得二(さとうとくじ) 仏教学者、作家。哲学研究者として朝鮮の水原高等農林学校(現・ソウル大学校農業生命科学大学)、京城帝国大学予科教授、第一高等学校教授を歴任。『仏教の日本的展開』は名著として知られる。その後、文部省督学官、社会教育局長、国際文化会館参与などを務めた。生誕 1899年1月30日命日 1970年2月5日<< 戻る 1970.02.05 人物
人物 佐藤春夫(さとうはるお) 詩人・作家。艶美清朗な詩歌と倦怠・憂鬱の小説を軸に、文芸評論・随筆・童話・戯曲・評伝・和歌とその活動は多岐に及び、明治末期から昭和まで旺盛に活動した。筆名を潮鳴、沙塔子、雅号を能火野人と称した。初代新宮市名誉市民。代表作『西班牙犬の家』(1914年、小説)『田園の憂鬱』(1919年、小説)『殉情詩集』(1921年、詩集)『都会の憂鬱』(1922年、小説)『退屈読本』(1926年、随筆集)『車塵集』(1929年、訳詩集)『晶子曼陀羅』(1954年、小説)生誕 1892年(明治25年)4月9日命日 1964年(昭和39年)5月6日凌霄院殿詞誉紀精春日大居士<< 戻る 1964.05.06 人物
人物 斎藤茂吉(さいとうもきち) 歌人、精神科医。伊藤左千夫門下であり、大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物。精神科医としては青山脳病院の院長を務めた。長男は精神科医で随筆家の「モタさん」こと斎藤茂太、次男は精神科医・随筆家・小説家の「どくとるマンボウ」こと北杜夫で、随筆家の斎藤由香はこの北杜夫の娘にあたる。生誕 1882年(明治15年)5月14日命日 1953年(昭和28年)2月25日赤光院仁誉遊阿暁寂清居士<< 戻る 1953.02.25 人物
人物 沢村栄治(さわむらえいじ) 三重県出身のプロ野球選手。 日本プロ野球史上に残る伝説の選手の一人でもあり、戦前のプロ野球界で、NPB史上初の最多勝利を獲得し、NPB史上初の最高殊勲選手も受賞。史上2人目のシーズン防御率0点台や、史上初の投手5冠に輝き、史上初のノーヒットノーラン達成など、様々な記録を打ち立てた。生誕 1917年2月1日命日 1944年12月2日<< 戻る 1944.12.02 人物
人物 佐野常民(さのつねたみ) 武士、政治家。日本赤十字社の創始者。官職は枢密顧問官、農商務大臣、大蔵卿、元老院議長。栄典は正二位勲一等伯爵。「佐賀の七賢人」の1人。名は栄寿、栄寿左衛門。生誕 1823年2月8日(文政5年12月28日)命日 1902年(明治35年)12月7日<< 戻る 1902.12.07 人物
人物 西郷従道(さいごうじゅうどう / つぐみち) 武士、陸軍および海軍軍人、政治家。階級は元帥海軍大将。栄典は従一位大勲位功二級侯爵。名前の読みとして「つぐみち」が広く流布しているが、西郷家によると「じゅうどう」が正訓である。兄の西郷隆盛を「大西郷」と称するのに対し、従道を「小西郷」と呼ぶ。明治維新後、太政官に名前を登録する際、「隆道」をリュウドウと口頭で登録しようとしたところ、訛っていたため役人に「ジュウドウ」と聞き取られ、「従道」と記録されてしまった。しかし本人も特に気にせず、結局「従道」のままで通した。生誕 天保14年5月4日(1843年6月1日)命日 1902年(明治35年)7月18日<< 戻る 1902.07.18 人物
人物 三条実美(さんじょうさねとみ) 公卿、政治家。位階勲等爵位は、正一位大勲位公爵。号は梨堂(りどう)。変名は梨木 誠斉。 幕末には尊王攘夷・討幕派の中心的な人物であり、明治維新後は元勲の一人として右大臣、太政大臣、内大臣、貴族院議員などを歴任した。また内閣総理大臣を一時兼任している。生誕 1837年3月13日(天保8年2月7日)命日 1891年(明治24年)2月18日<< 戻る 1891.02.18 人物
人物 佐藤尚中(さとうたかなか/しょうちゅう) 幕末から明治初期の蘭方医。幼名を竜太郎、舜海と称し、笠翁と号す。佐藤泰然の弟子でのちに養子となる。下総国小見川出身。東京順天堂の第2代堂主、順天堂医院の初代院長。生年については諸説ある。ドラマ化もされた人気漫画「JIN−仁−」の主人公、南方仁のモデルとも言われている。生誕 1827年5月3日(文政10年4月8日)命日 1882年(明治15年)7月23日<< 戻る 1882.07.23 人物
人物 坂本乙女(さかもとおとめ) 江戸時代末期から明治時代にかけての女性。土佐藩郷士坂本八平と幸の三女。弟に坂本龍馬がいる。 本来の名は留で、「乙女」は「お留」への当て字である。「乙女」を「とめ」と読むこともある。薙刀に長け、剣術・馬術・弓術・水泳などの武芸や、琴・三味線・舞踊・謡曲・経書・和歌などの文芸にも長けた、文武両道の人物だったという。弘化3年(1846年)に母・幸が死去すると龍馬の母親代わりを務め、書道・和歌・剣術などを教えた。乙女は当時にしてはかなり男勝りな性格で、体も大きかったため龍馬に常に勝っていた。生誕 1832年2月2日(天保3年1月1日)命日 1879年(明治12年)8月31日<< 戻る 1879.08.31 人物
人物 西郷隆盛(さいごうたかもり) 武士(薩摩藩士)・軍人・政治家。薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。諱は元服時に隆永(たかなが)のちに武雄・隆盛(たかもり)と名を改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変更。号は南洲(なんしゅう)。隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名で届け出てしまい、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門・大島吉之助などの変名も名乗った。藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される... 1877.09.24 人物
人物 澤宣嘉(さわのぶよし) 幕末の公卿。権中納言・姉小路公遂の五男。参議・澤為量の養子。官位は従三位・右衛門権佐。澤家8代当主。維新後、初代外務卿。安政5年(1858年)の日米修好通商条約締結の際は養父と共に勅許に反対して廷臣八十八卿列参事件に関わる。以後、朝廷内において尊皇攘夷派として活動した。文久3年(1863年)に会津藩と薩摩藩が結託して長州藩が京都から追放された八月十八日の政変により朝廷から追放されて都落ちする(七卿落ち)。生誕 天保6年12月23日(1836年2月9日)命日 明治6年(1873年)9月27日<< 戻る 1873.09.27 人物
人物 坂本龍馬(さかもとりょうま) 江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。 諱は直陰、のちに直柔。通称は龍馬。 他に才谷 梅太郎などの変名がある 。 土佐藩郷士の家に生まれ、脱藩したあとは志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中を結成した。薩長同盟の成立に協力するなど、倒幕および明治維新に関与した。大政奉還成立の1か月後に近江屋事件で中岡慎太郎、山田藤吉らと共に暗殺された。暗殺者は諸説あるが、京都見廻組という説が有力である。1891年(明治24年)4月8日、正四位を追贈される。生誕 天保6年11月15日〈1836年1月3日〉命日 慶応3年11月15日〈1867年12月10日〉<< 戻る 1867.11.15 人物年表
人物 佐久間象山(さくましょうざん/ぞうざん) 江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家。通称は修理、諱は国忠、のちに啓、字は子迪、後に子明と称した。位階は贈正四位。象山神社の祭神。象山神社の隣が生家で、長野県の史跡に指定されている。松代三山の一人。生誕 文化8年2月28日(1811年3月22日)命日 元治元年7月11日(1864年8月12日) 清光院仁啓守心居士<< 戻る 1864.07.11 人物
人物 春日局(かすがのつぼね)- 斎藤福(さいとう ふく) 安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号である。 父は美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣であった斎藤利三、母は稲葉良通(一鉄)の娘である安、又は稲葉一鉄の姉の娘於阿牟(おあむ)、養父は稲葉重通。家光死後の貞享3年(1686年)に成立した『春日局略譜』によれば、徳川秀忠・江夫妻が竹千代の実弟・国松(徳川忠長)を溺愛している様子を憂慮し、自害しようとした家光を諌め、元和元年(1615年)、駿府にいた大御所・家康に竹千代の世継を確定させるように直訴したとされる。生誕 天正7年(1579年)命日 寛永20年9月14日(... 1643.09.14 人物
人物 酒井忠世(さかいただよ) 江戸時代初期の大名。江戸幕府の老中、大老。上野那波藩主、伊勢崎藩主を経て厩橋藩の第2代藩主。雅楽頭系酒井家7代。 後世に成立した新井白石『藩翰譜』や『武野燭談』などの史料から、土井利勝や青山忠俊と共に家光が師事したとされる「三臣師傅説」に数えられている。生誕 元亀3年6月5日(1572年7月14日)命日 寛永13年3月19日(1636年4月24日)隆興院発向源真居士<< 戻る 1636.03.19 人物
人物 佐竹義宣(さたけよしのぶ) 戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。出羽国久保田藩(秋田藩)初代藩主。佐竹義重の長男。母は伊達晴宗の娘。伊達政宗は母方の従兄にあたる。官位は従四位上・左近衛中将、右京大夫。佐竹氏19代当主。生誕 元亀元年7月16日(1570年8月17日)命日 寛永10年1月25日(1633年3月5日)浄光院殿傑堂天英大居士<< 戻る 1633.01.25 人物
人物 真田幸村(さなだゆきむら/信繁/のぶしげ) 安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。真田昌幸の次男。通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎。真田幸村の名で広く知られている。豊臣方の武将として大坂夏の陣において徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な活躍が、江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、「日本一の兵」と評されるなどした。後世、そこから軍記物、講談、草双紙(絵本)などが創作され、さらに明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えて宿敵である家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。今でも多くの人に愛され続けている。生誕 永禄10年(1567年)または、元亀元年(1570年)... 1615.05.07 人物
人物 佐竹義重(さたけよししげ) 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。常陸国の戦国大名。佐竹氏第18代当主。 北条氏と関東の覇権を巡って争い、佐竹氏の全盛期を築き上げた。領内の金山に最新の冶金技術を導入して豊富な資金力を実現した。関東一の鉄砲隊を備えたという。生誕 天文16年2月16日(1547年3月7日)命日 慶長17年4月19日(1612年5月19日)知足院殿通庵闐信大居士<< 戻る 1612.04.19 人物
人物 佐々木小次郎(ささきこじろう) 安土桃山時代から江戸時代初期の剣客。剣豪として岩流(巖流、岸流、岸柳、岩龍とも)を名乗ったと言われるが、名前については不明な点が多い。 宮本武蔵との巌流島での決闘で知られる。 身の丈ほどもある長刀「備前長船長光(通称、物干し竿)」を愛刀としており、得意技は斬り下ろした刃を瞬時に返して斬り上げる「燕返し」。生誕 命日 慶長17年4月13日(1612年5月13日)<< 戻る 1612.04.13 人物
人物 真田昌幸(さなだまさゆき) は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。 甲斐国の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将・謀将としての人物像としてよく知られ、武田二十四将の... 1611.06.04 人物
人物 榊原康政(さかきばらやすまさ) 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。上野国館林藩初代藩主。徳川氏の家臣。康政流榊原家初代当主。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、現在も家康覇業の功臣として顕彰されている。生誕 天文17年(1548年)命日 慶長11年5月14日(1606年6月19日)養林院殿前大守職上誉見向大禅定門<< 戻る 1606.05.14 人物
人物 酒井忠次(さかいただつぐ) 戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将。徳川氏の家臣。 徳川四天王・徳川十六神将ともに筆頭とされ、家康第一の功臣として称えられている。生誕 大永7年(1527年)命日 慶長元年10月28日(1596年12月17日)先求院天誉高月縁心居士<< 戻る 1596.10.28 人物
人物 佐々成政(さっさなりまさ) 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。佐々成宗(盛政とも)の子。通称は内蔵助。家紋は棕櫚(シュロ)。馬印は金の三階菅笠。鷹司孝子(本理院・徳川家光正室)の外祖父。生誕 天文5年1月15日(1536年2月6日)、永正9年(1512年)、永正13年(1516年)、天文8年(1539年)説あり命日 天正16年閏5月14日(1588年7月7日)成政寺庭月道閑大居士<< 戻る 1588.05.14 人物
人物 斎藤利三(さいとうとしみつ) 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。明智光秀の家臣。春日局の父。生誕 天文3年(1534年)命日 天正10年6月17日(1582年7月6日)陽剛院殿亡蹄利三居士<< 戻る 1582.06.17 人物
人物 斎藤道三(さいとうどうさん/利政/としまさ) 戦国時代の武将。美濃の戦国大名。道三流斎藤氏初代当主。 名としては、長井規秀・長井秀龍・斎藤利政・道三などが伝わるが、書状などに現れているのは、藤原規秀・斎藤利政・道三などのみである。現在では坂口安吾「信長」や山岡荘八「織田信長」といった小説の影響により美濃の蝮という綽名でも知られる。生誕 明応3年(1494年)命日 弘治2年4月20日(1556年5月28日)円覚院殿一翁道三日抬大居士神儀<< 戻る 1556.04.20 人物
年表 永光寺-石川県羽咋市 ・永光寺 曹洞宗 石川県羽咋市酒井町イ11永光寺(ようこうじ)は、正和元(1312)年、能登(石川県)に地頭酒匂頼親の娘(祖忍)の勧請を受けた太祖瑩山紹瑾禅師が、生涯幽棲の地と定めて創建した開山禅師示寂の道場です。そこで『坐禅用心記』を撰述しました。坐禅の心得を説いた指導書で、『普勧坐禅儀』と共に参禅する者にとって欠くことのできない教説です。創建当時は、本寺を中心に5院20数坊を擁し、曹洞宗五祖の遺品を埋納した五老峯の築造や、三重の利生塔の建立。さらに後醍醐天皇をはじめ、4代に渡り勅願寺を務め隆盛を極めますが、応仁の乱、天正7年(1579)の兵火に遭い全山を焼失。現在の伽藍は寛永以降の再興で、... 1312.01.01 年表
仏教を本気で学ぶ 瑩山禅師、三代相論により大乗寺に移る 正応2(1289)年春、三代相論により永平寺を下山した義介禅師に従い加賀(現在の石川県金沢市)の大乗寺に移る。<< 戻る 1289.01.01 仏教を本気で学ぶ年表
仏教を本気で学ぶ 「正法眼蔵」三十七品菩提分法(さんじゅうしちほんぼだいぶんぽう) こちらのページを閲覧するには、メンバー登録が必要です。詳細はリンク先でご確認ください。なお、定期的にパスワードは変更されます。また、セキュリティの観点から一定時間を経ると再度パスワード入力が必要になります。 << 戻る 1244.02.24 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 「正法眼蔵」三昧王三昧(ざんまいおうざんまい) こちらのページを閲覧するには、メンバー登録が必要です。詳細はリンク先でご確認ください。なお、定期的にパスワードは変更されます。また、セキュリティの観点から一定時間を経ると再度パスワード入力が必要になります。 << 戻る 1244.02.15 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 「正法眼蔵」坐禅儀(ざぜんぎ) こちらのページを閲覧するには、メンバー登録が必要です。詳細はリンク先でご確認ください。なお、定期的にパスワードは変更されます。また、セキュリティの観点から一定時間を経ると再度パスワード入力が必要になります。 << 戻る 1243.11.01 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 「正法眼蔵」山水経(さんすいきょう) こちらのページを閲覧するには、メンバー登録が必要です。詳細はリンク先でご確認ください。なお、定期的にパスワードは変更されます。また、セキュリティの観点から一定時間を経ると再度パスワード入力が必要になります。 << 戻る 1240.10.18 仏教を本気で学ぶ