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浅井了意(あさいりょうい)

江戸時代前期の浄土真宗の僧・仮名草子作家。父は東本願寺の末寺本照寺の住職。本名は不詳。号は松雲・瓢水子・羊岐斎。京都の出身。代表作品は「御伽婢子」(おとぎぼうこ)、「浮世物語」、「本朝女鑑」、「江戸名所記」、「東海道名所記」、「京雀」など。晩年に京都二条の本性寺の住職となり、昭儀坊了意と名乗った。生誕 命日 元禄4年1月1日(1691年1月29日)<< 戻る
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八百屋於七(やおやおしち)

江戸時代前期、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる少女である。井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など芸能において多様な趣向の凝らされた諸作品の主人公になっている。八百屋お七。墓所の円乗寺にあるお七地蔵堂の八百屋於七地蔵尊は現在、縁結びのパワースポットとしても知られている。生誕 寛文8年(1668年)命日 天和3年3月28日(1683年4月24日)妙栄禅定尼<< 戻る
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狩野探幽(かのうたんゆう)

江戸時代初期の狩野派の絵師。狩野孝信の子。法号は探幽斎、諱は守信。早熟の天才肌の絵師、と評されることが多いが、桃山絵画からの流れを引き継ぎつつも、宋元画や雪舟を深く学び、線の肥痩や墨の濃淡を適切に使い分け、画面地の余白を生かした淡麗瀟洒な画風を切り開き、江戸時代の絵画の基調を作った。代表作は、二条城障壁画、名古屋城障壁画など多数。生誕 慶長7年1月14日(1602年3月7日)命日 延宝2年10月7日(1674年11月4日)玄徳院殿前法眼守信日道<< 戻る
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前田利次(まえだとしつぐ)

越中富山藩の初代藩主。 生涯. 元和3年(1617年)4月29日、加賀藩主・前田利常の次男として金沢で生まれる。寛永8年(1631年)に元服し、従四位下、侍従に叙任された。生誕 元和3年4月29日(1617年6月2日)命日 延宝2年7月7日(1674年8月8日)竜光院殿瑞巌良祥大居士<< 戻る
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保科正之(ほしなまさゆき)

江戸時代前期の大名。会津松平家初代。信濃国高遠藩主、出羽国山形藩主を経て、陸奥国会津藩初代藩主。江戸幕府初代将軍徳川家康の孫にあたる。3代将軍・徳川家光の異母弟で、家光と4代将軍・家綱を輔佐し、幕閣に重きをなした。日本史上、屈指の名君との呼び声も高い。将軍の「ご落胤」でもある。生誕 慶長16年5月7日(1611年6月17日)命日 寛文12年12月18日(1673年2月4日)<< 戻る
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石川丈山(いしかわじょうざん)

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、文人。もとは武士で大坂の陣後、牢人。一時、浅野家に仕官するが致仕して京都郊外に隠棲して丈山と号した。江戸初期における漢詩の代表的人物で、儒学・書道・茶道・庭園設計にも精通していた。幕末の『煎茶綺言』には、「煎茶家系譜」の初代に丈山の名が記載されており、煎茶の祖ともいわれる。名は初め重之、後に凹、通称は初め三彌、後に嘉右衛門、字は丈山、号は六六山人、四明山人、凹凸窠、詩仙堂、大拙、烏麟、山木、山村、藪里、東渓、三足など。生誕 天正11年(1583年)命日 寛文12年5月23日(1672年6月18日)至楽院殿白雪窻大居士<< 戻る
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即非如一(そくひ にょいつ)

江戸時代前期中国の明から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧。福建省福州府福清県の出身。俗姓は林氏。字は即非。師の隠元に続いて来日し、長崎崇福寺・宇治黄檗山に住した。小倉の福聚寺の開山。黄檗三筆の一人。生誕 万暦44年5月14日(1616年6月27日)命日 寛文11年5月20日(1671年6月26日)<< 戻る
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前田利常(まえだとしつね)

安土桃山時代末期から江戸時代初期の武将・大名。加賀藩の第2代藩主。加賀前田家3代。父・前田利家の特長を受け継いだ立派な体格の持ち主であり、その点が数多くいる利家の子供たちから利長の後継に選ばれる決め手となったという。家康の遺言などから家康は利常にかつてのライバルだった利家を見出して警戒していたとされ、幕府からは「底の知れぬ人」と警戒されていたとされる。金工師の後藤顕乗(下後藤)や後藤覚乗(上後藤)、蒔絵師の五十嵐道甫や清水九兵衛など、京都や江戸から優れた一流の名工たちを高禄で召し抱え、藩内の美術工芸の振興に努めた。生誕 文禄2年11月25日(1594年1月16日)命日 万治元年10月12日(1...
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林羅山(はやしらざん)

江戸時代初期の朱子学派儒学者。林家の祖。羅山は号で、諱は信勝(のぶかつ)。字は子信。通称は又三郎。出家した後の号、道春(どうしゅん)の名でも知られる。羅山とは儒学者としての号で、中国広東省の羅浮山で宋代の学者が『春秋』を研学したとの故事に基づき、師の藤原惺窩が命名したもの。13歳で建仁寺に入り、古澗慈稽・英甫永雄ら禅僧について学んだが、僧にはならず、十五歳で寺を出て帰宅した。学問を実際の政治と結びつけることを目指し、慶長十年に二条城で家康に謁し、学識を認められる。同十二年に江戸で将軍徳川秀忠に謁し、駿府で家康に仕えて、その命により僧形となり、道春と称した。家康に随行して上洛した際に、京都の数村...
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鈴木正三(すずきしょうさん)

江戸時代初期の曹洞宗の僧侶・仮名草子作家で、元は徳川家に仕えた旗本である。本姓穂積氏で、三河鈴木氏の一族。著作『盲安杖』(1651年)『驢鞍橋』(1660年)『破切支丹』(1662年)『萬民徳用』(1661年)『因果物語』(1661年)『二人比丘尼』(1632年)『反故集』(1634年)『念佛草紙』生誕 天正7年1月10日(1579年2月5日)命日 明暦元年6月25日(1655年7月28日)<< 戻る
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隠元隆琦禅師(いんげんりゅうきぜんじ)

中国僧・隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師は、明代末期の臨済宗を代表する費隠通容(ひいんつうよう)禅師の法を受け継ぎ、臨済正伝32世となり、中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺(古黄檗)の住職でした。日本からの度重なる招請に応じて、1654年(承応3年)、63歳の時に弟子20人他を伴って来日しました。のちに禅師の弟子となる妙心寺の龍渓禅師や後水尾法皇そして徳川幕府の崇敬を得て、約9万坪の寺地を賜り、1661年(寛文元年)に禅寺を創建しました。古黄檗(中国福清県)を模し、黄檗山萬福寺と名付けることになりました。隠元禅師は『弘戒法儀』を著し、『黄檗清規』を刊行したほか、日本に持ちこんだ文物は、美術、...
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由井正雪(ゆい しょうせつ/まさゆき)

江戸時代前期の日本の軍学者。慶安の変の首謀者である。名字は油井、遊井、湯井、由比、油比と表記される場合もある。慶安4年(1651年)、江戸幕府第3代将軍徳川家光の死の直後に、幕府政策への批判と浪人の救済を掲げ、宝蔵院流の槍術家丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義など各地で浪人を集めて挙兵し、幕府転覆を計画した。決起の寸前になり計画の存在を密告され、正雪は駿府の宿において町奉行の捕り方に囲まれ自刃した。首塚は静岡市葵区沓谷の菩提樹院に存在する。大名取り潰しによる浪人の増加が社会不安に結びついていることが事件の背景にあるとして、4代将軍徳川家綱以降の政治が武断政策から文治政策へ転換するきっかけの一つとな...
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左甚五郎(ひだりじんごろう/ひだのじんごろう)

左甚五郎は江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人。講談や浪曲、落語、松竹新喜劇で有名であり、左甚五郎作と伝えられる作品も各地にある。講談では地元の大工に腕の良さを妬まれて右腕を切り落とされたため、また、左利きであったために左という姓を名乗ったという説もある。生誕 文禄3年(1594年)命日 慶安4年4月28日(1651年6月16日)※諸説あり。法橋宗恵匠誉信士<< 戻る
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徳川家光(とくがわいえみつ)

江戸幕府の3代将軍。2代将軍秀忠の次男である。母は浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる江。乳母は春日局、乳兄弟に稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利がいる。 15人の徳川将軍のうち、正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は家光のみである。生誕 慶長9年7月17日(1604年8月12日)命日 慶安4年4月20日(1651年6月8日)大猷院殿贈正一位大相国公<< 戻る
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柳生十兵衛 (やぎゅうじゅうべえ/三厳/みつよし)

江戸時代前期の武士、剣豪、旗本。初名は七郎、諱は三厳、通称は十兵衛。 大和国柳生藩初代藩主にして将軍家兵法指南を務めた剣豪・柳生宗矩の子。始め徳川家光に小姓として仕えたが、主君の勘気に触れて出仕停止となり、後に許されて書院番を務める。生誕 慶長12年(1607年)命日 慶安3年3月21日(1650年4月21日)長岩院殿金甫宗剛大居士<< 戻る
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沢庵宗彭(たくあんそうほう)

沢庵宗彭とは、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧侶です。大徳寺住持。諡の普光国師は、300年忌にあたる昭和19年(1944年)に宣下されました。号に東海・暮翁などがあります。但馬国出石(現兵庫県豊岡市)の生まれで、紫衣事件で出羽国に流罪となり、その後赦されて江戸に萬松山東海寺を開いた。書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残している。ダイコンの漬物である沢庵漬けの考案者と言われています。紫衣事件江戸幕府が成立すると、寺院法度などにより寺社への締め付けが厳しくなります。特に、大徳寺のような有力な寺院については、禁中並公家諸法度によって朝廷との関係を弱めるための...
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細川忠興(ほそかわただおき)

戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。丹後国宮津城主を経て、豊前国小倉藩初代藩主。肥後細川家初代。 足利氏の支流・細川氏の出身である。正室は明智光秀の娘・玉子。室町幕府15代将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、その後は羽柴氏も称したが、大坂の陣後に細川氏へ復した。足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父・幽斎と同じく、教養人・茶人の細川 三斎(ほそかわ さんさい)としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖である。生誕 永禄6年11月13日(1563年11月28日)命日 正保2年12月2日(1646...
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柳生宗矩(やぎゅうむねのり)

江戸時代初期の武将、大名、剣術家。徳川将軍家の兵法指南役。大和柳生藩初代藩主。剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した。生誕 元亀2年(1571年)命日 正保3年3月26日(1646年5月11日)西江院殿前但州太守大通宗活大居士<< 戻る
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宮本武蔵(みやもとむさし)

江戸時代初期の剣術家、兵法家、芸術家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。 京都の兵法家・吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が有名で、後世、演劇、小説、様々な映像作品の題材になっている。特に吉川英治の小説が有名であるが史実と異なった創作が多いことに注意する必要がある。外国語にも翻訳され出版されている自著『五輪書』には十三歳から二九歳までの六十余度の勝負に無敗と記載がある。国の重要文化財に指定された『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』をはじめ『正面達磨図』『盧葉達磨図』『盧雁図屏風』『野馬図』など水墨画・鞍・木刀などの工芸品が各地の美術館に収蔵されている。生誕 天正12年(1584年)命...
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土井利勝(どいとしかつ)

安土桃山時代から江戸時代初期の武将、譜代大名。江戸幕府の老中・大老。下総国小見川藩主、同佐倉藩主、同古河藩初代藩主。土井家宗家初代。徳川秀忠政権における老中として、絶大な権勢を誇った。生誕 元亀4年3月18日(1573年4月19日)命日 寛永21年7月10日(1644年8月12日)宝池院殿前拾遺穏誉泰翁覚玄大居士<< 戻る
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天海(てんかい)

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧侶、大僧正。尊号は南光坊、院号は智楽院、諡号は慈眼大師。徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与しました。『東叡山開山慈眼大師縁起』に「陸奥国会津郡高田の郷にて給ひ。蘆名修理太夫平盛高の一族」と記されていることから、三浦氏の一族である蘆名氏の出で、陸奥国に生まれたとされますが、定説と呼ばれるものはありません。しかも、同縁起には「俗氏の事人のとひしかど、氏姓も行年わすれていさし知ず」とあり、天海は自らの出自を弟子たちに語らなかったようです。また、「将軍義澄の末の御子といへる人も侍り」と足利将軍落胤説も同時に載せられています。...
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春日局(かすがのつぼね)- 斎藤福(さいとう ふく)

安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号である。 父は美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣であった斎藤利三、母は稲葉良通(一鉄)の娘である安、又は稲葉一鉄の姉の娘於阿牟(おあむ)、養父は稲葉重通。家光死後の貞享3年(1686年)に成立した『春日局略譜』によれば、徳川秀忠・江夫妻が竹千代の実弟・国松(徳川忠長)を溺愛している様子を憂慮し、自害しようとした家光を諌め、元和元年(1615年)、駿府にいた大御所・家康に竹千代の世継を確定させるように直訴したとされる。生誕 天正7年(1579年)命日 寛永20年9月14日(...
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島津忠恒(しまづ ただつね/家久/いえひさ)

安土桃山時代から江戸時代前期の武将、外様大名。薩摩藩初代藩主。通称は又八郎。『絵本太閤記』には島津亦七郎忠常とある。 戦国大名として島津氏を成長させた島津貴久の孫にあたり、島津義弘の子。最初の妻・亀寿は島津義久の娘で、初め忠恒の兄である久保と結婚したが、久保の死後に忠恒と結婚した。後に家久(いえひさ)と改名するが、同名の叔父が存在する区別のために初名の忠恒で呼ばれることが多い。生誕 天正4年11月7日(1576年11月27日)命日 寛永15年2月23日(1638年4月7日)慈眼院殿花心琴月大居士<< 戻る
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本多正純(ほんだまさずみ)

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。江戸幕府の老中。下野国小山藩主、同宇都宮藩主(第28代宇都宮城主)。本多正信の長男で、正信系本多家宗家2代。 徳川家康の側近であったが、徳川秀忠の代に失脚した。生誕 永禄8年(1565年)命日 寛永14年3月10日(1637年4月5日)慧光院殿鐵顔宗智大居士<< 戻る
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本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)

江戸時代初期の書家、陶芸家、蒔絵師、芸術家、茶人。通称は次郎三郎。書は寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる。生誕 永禄元年(1558年)命日 寛永14年2月3日(1637年2月27日)<< 戻る
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伊達政宗(だてまさむね)- 独眼竜政宗

出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主である。 幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。生誕 永禄10年8月3日(1567年9月5日)(グレゴリオ暦1567年9月15日)命日 寛永13年5月24日(1636年6月27日)瑞巌寺殿貞山禅利大居士<< 戻る
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酒井忠世(さかいただよ)

江戸時代初期の大名。江戸幕府の老中、大老。上野那波藩主、伊勢崎藩主を経て厩橋藩の第2代藩主。雅楽頭系酒井家7代。 後世に成立した新井白石『藩翰譜』や『武野燭談』などの史料から、土井利勝や青山忠俊と共に家光が師事したとされる「三臣師傅説」に数えられている。生誕 元亀3年6月5日(1572年7月14日)命日 寛永13年3月19日(1636年4月24日)隆興院発向源真居士<< 戻る
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佐竹義宣(さたけよしのぶ)

戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。出羽国久保田藩(秋田藩)初代藩主。佐竹義重の長男。母は伊達晴宗の娘。伊達政宗は母方の従兄にあたる。官位は従四位上・左近衛中将、右京大夫。佐竹氏19代当主。生誕 元亀元年7月16日(1570年8月17日)命日 寛永10年1月25日(1633年3月5日)浄光院殿傑堂天英大居士<< 戻る
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徳川秀忠(とくがわひでただ)

安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍(在職:1605年 - 1623年)。徳川家康の三男として遠江国浜松に誕生する。母は側室の西郷局。母の実家・三河西郷氏は土岐氏一族で、室町初期には三河守護代を務めたこともある名家であり、当時も三河国の有力な国人であった。乳母・大姥局によって養育される。同母弟に関ヶ原の戦いで活躍した松平忠吉がいる。秀忠が誕生してから5か月後に長兄・信康が切腹している。次兄である秀康は豊臣秀吉に養子として出され、のちに結城氏を継いだため、母親が三河国の名家出身である秀忠が実質的な世子として処遇されることになった。生誕 天正7年4月7日(1579年5...
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織田信雄(おだのぶかつ)

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。大和宇陀松山藩の初代藩主。初め伊勢北畠家の第10代当主として具豊(ともとよ)、信意(のぶおき)を名乗り、国司を継いだため御本所と敬称された。生誕 永禄元年(1558年)命日 寛永7年4月30日(1630年6月10日)徳源院殿実巌常真大居士<< 戻る
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今井宗薫(いまいそうくん)

安土桃山時代・江戸時代の人物。茶人今井宗久の子。本名は兼久。官名を帯刀左衛門、号は別に単丁斎とした。父・宗久に茶湯を学び豊臣秀吉の茶頭・お伽衆となる。のちに徳川家康・秀忠・家光と三代の将軍に仕え、茶頭をつとめた。生誕 天文21年(1552年)命日 寛永4年4月11日(1627年5月25日)<< 戻る
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義演(ぎえん)

戦国時代から江戸時代にかけての真言宗の僧。 父は二条晴良、母は伏見宮貞敦親王王女の位子。 室町幕府15代将軍・足利義昭の猶子となり、「義」の一字を与えられている。生誕 永禄元年8月20日(1558年10月1日)命日 寛永3年閏4月21日(1626年6月15日)<< 戻る