仏教を本気で学ぶ

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日生仏(にっしょうぶつ)

日生仏とは、太陽から生まれた者という意味の北方の現在仏です。梵語では Adityasambhava(アーディティア・サンバヴァ)といいます。また、日生如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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見一切義仏(けんいっさいぎぶつ)

見一切義仏とは、一切の意義を見る者という意味の上方の現在仏です。梵語では sarvarthadarsa(サルヴァールタ・ダルシャ)といいます。また、見一切義如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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妙音仏(みょうおんぶつ)

妙音仏とは、妙なる幢幡<はたぼこ>を持つ者という意味の東方の現在仏です。梵語では Manjudhvaja(マンジュ・ドバジャ)といいます。また、妙音如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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網明仏(もうみょうぶつ)

網明仏とは、網の様に広く覆う光明ある者という意味の北方の現在仏です。梵語では jaliniprabha(ジャーリニー・プラバ)といいます。また、網明如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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如須弥山仏(にょしゅみせんぶつ)

如須弥山仏とは、須弥山の如き者という意味の上方の現在仏です。梵語では sumerukalpa(スメール・カルパ)といいます。また、如須弥山如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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師子仏(ししぶつ)

師子仏とは、獅子という意味の下方の現在仏です。梵語では simha(シンハ)といいます。また、師子如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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日月灯仏(にちがつとうぶつ)

日月灯仏とは、月と太陽のごとき燈明ある者という意味の南方の現在仏です。梵語では candrasUryapradIpa(チャンドラ・スーリヤ・プラディーパ)といいます。また、日月燈如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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名聞仏(みょうもんぶつ)

名聞仏とは、名声という意味の下方の現在仏です。梵語では yasas(ヤシャス)といいます。また、名聞如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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名聞光仏(みょうもんこうぶつ)

名聞光仏とは、ほまれの光ある者という意味の南方の現在仏です。梵語では yasahprabha (ヤショー・プラバ)といいます。また、名聞光如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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名光仏(みょうこうぶつ)

名光仏とは、名声という光輝ある者という意味の下方の現在仏です。梵語では yasahprabhasa(ヤシャハ・プラバーサ)といいます。また、名光如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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大焔肩仏(だいえんけんぶつ)

大焔肩仏とは、大いなる炎のかたまりを持つ者という意味の南方、北方、上方の現在仏です。梵語では maharciskandha (マハー・ルチ・スカンダ)といいます。また、大焔肩如来、焔肩仏と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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達摩仏(だつまぶつ)

達摩仏とは、法という意味の下方の現在仏です。梵語では dharma(ダルマ)といいます。また、達摩如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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須弥灯仏(しゅみとうぶつ)

須弥灯仏とは、須弥山の如きの灯明ある者という意味の南方の現在仏です。梵語では merupradipa(メール・プラディーパ)といいます。また、須弥灯如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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法幢仏(ほうどうぶつ)

法幢仏とは、法の幢幡<はたぼこ>を持つ者という意味の下方の現在仏です。梵語では dharmadhvaja(ダルマ・ドバージャ)といいます。また、法幢如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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無量精進仏(しゅみとうぶつ)

無量精進仏とは、限りなき精進を為す者という意味の南方の現在仏です。梵語では anantavirya(アナンタ・ヴィーリヤ)といいます。また、無量精進如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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持法仏(じほうぶつ)

持法仏とは、法を持つ者という意味の下方の現在仏です。梵語では dharmadhara(ダルマ・ダラ)といいます。また、持法如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
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阿弥陀仏(あみだぶつ)

西方極楽浄土(さいほうごくらくじょうど)の中心にいる仏です。もともとの梵名は「アミターバ」あるいは「アミターユス」 といい、それを音写して「阿弥陀」、漢訳して無量光、無量寿とも呼ばれます。阿弥陀如来と呼ぶ場合もあり、如来とは悟りを開いた仏の姿です。また、略して、弥陀仏とも呼ばれることもあります。無量光仏、無量寿仏。浄土教の本尊で、現在も説法し、衆生(人間をふくむ全ての生き物)を救う活動を続けています。日本では、浄土信仰の勢いが盛んになるにともない、彫刻・図像の制作が行われ、平安時代中期以後、浄土美術の中心となりました。(→ 阿弥陀如来像)10円玉のデザインに採用されている平等院鳳凰堂(びょうど...
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分かり合えない

どうして分かり合えないのかって思ったら自分に合った人ばかりじゃ身動きできないからそう考えたら少し楽になる共有した想い語って離れた時間埋めて今を生きていくんだ受け取るかどうかはその人次第ただ気分次第準備はできたかい心はいつも開かれている<< 戻る
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私も私

それぞれが自分の中に自分を持つように心の中に母もいれば父もいる心の中のお母さんはどんな人ですか心の中のお父さんはどんな時に現れますか好きな人嫌いな人意識した人は心の中の住人になるそれは現実のその人とはちょっと違うかもしれないけれど重ねて見ているそうやって住人を認識しているそうやって私も誰かの心の中に知らず知らず住んでいる誰かの心が生んだ私も私<< 戻る
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五蓋(ごがい)

五蓋とは、貪欲、いかり、心のしずむこと、心のそわそわすること、疑い、この5つの煩悩の総称をいう。蓋は巴語で nīvaraṇa /ニーヴァラナといい、認識を覆う障害のこと。瞑想(禅定)を邪魔する5つの障害を意味する。これらは心の明らかな働きを覆いかくして蓋(かさ)のようになり、善を生ぜしめない五つの覆いとなっています。①貪欲、むさぼり、情欲②いかり、瞋恚③心のしずむこと、心くらく身も重く、眠り込んだようなものうい状態④心のそわそわすること、心がざわざわして高ぶる働き、心を悩ませる後悔⑤疑いためらうこと・「五つの蓋いを捨て、悩みなく、疑惑を越え、苦悩の矢を抜き去られた修行者は、この世とかの世とをと...
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想念(そうねん)

想念とは、思慮し思考すること。次の例では、心の静まった修行者には、思慮分別はいらないことを示している。「想念を焼き尽くして余すことなく、心の内がよく整えられた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。」(スッタニパータ 7偈)
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お守り

お寺や神社で手に入るお守り仏様や神様の前で約束したことをお守りしますその証がお守り宇宙兄弟の南波六太が月に向かうとき日々人のことを思い出す二人で宇宙飛行士になる目標を先生や友だちに現実的でないと思われて諦めかけ心の中の夢として隠していたことがあった心は移り変わる目標に向かい動き続ければ心はいつもそこにあるお守りの形は様々気持ちを形にして生きていこう<< 戻る
人物

アンバパーリー

アンバパーリーは『ブッダ最後の旅【 第2章 】8、遊女アンバパーリー』内に登場し、ヴァイシャリに住むお釈迦様の女性の弟子(比丘尼)です。漢訳仏典には、菴摩羅、菴没羅などの音訳があり、㮈女、柰女、非浄護などの意訳も見られます。マンゴー林に捨てられた子であり、その番人に育てられたことから、「アンバパーリー」すなわち「マンゴー林の番人の子」と言われるようになりました。アンバパーリーは、遠くの町にまで名声が伝わるような遊女で、美貌と容姿、魅力に恵まれ、他にも踊りや歌、音楽も巧み、当然言い寄る客が引けを取らずとなって舞台等で莫大な稼ぎを得ていたそうです。お釈迦様に帰依し、みずからも出家し比丘尼となり、阿...
人物

アーラーラ・カーラーマ(阿羅邏迦蘭)

アーラーラ・カーラーマは、古代インドの思想家で、お釈迦様が出家直後、悟りを得る前に師事した人物の1人です。アーラーラ・カーラーマのもとを訪れ「無所有処(ākiñcaññāyatanaṃ)」(空無辺処)の教えを聞くと、間もなくその境地を証得したので、アーラーラ・カーラーマはお釈迦様が自分と同じ境地を得たことを知ると、自分の弟子300人を共に率いていくことを要請しました。しかしお釈迦様はその境地は真の悟りを得る道ではないと覚り、アーラーラ・カーラーマのもとを去り、次にウッダカ・ラーマプッタのもとへ行きました。『ブッダ最後の旅【 第4章 】17、臨終の地を目指して - プックサとの邂逅』にはアーラー...
人物

ウッダカ・ラーマプッタ(優頭藍子)

ウッダカ・ラーマプッタは、古代インドの思想家で、お釈迦様が出家直後、悟りを得る前に師事した人物の1人です。出家直後はじめに師事したアーラーラ・カーラーマのもとを去り、次にウッダカ・ラーマプッタのもとを訪れ「非想非非想処(Naivasaṃjñānasaṃjnayatana)」の教えを聞くと、間もなくその境地を証得したので、ウッダカ・ラーマプッタはお釈迦様が自分と同じ境地を得たことを知ると、自分の弟子を共に率いていくことを要請しました。しかしお釈迦様はその境地は真の悟りを得る道ではないと覚り、ウッダカ・ラーマプッタのもとを去り、ウルヴェーラの苦行林(前正覚山)へ行き6年間の修行が始まります。<< ...
人物

プックサ(福貴)

プックサは、マッラ族の人で『ブッダ最後の旅【 第4章 】17、臨終の地を目指して - プックサとの邂逅』に登場するお釈迦様の最後から2番目の在家信者です。プックサはお釈迦様が出家直後に師事したアーラーラ・カーラーマの弟子でした。<< 戻る
人物

ウパヴァーナ(優波摩那)

ウパヴァーナは、『ブッダ最後の旅【 第5章 】18、病い重し』に登場するお釈迦様の侍者です。<< 戻る
人物

スバッダ(須跋陀)

スバッダは、『ブッダ最後の旅【 第5章 】22、スバッダの帰依』に登場するお釈迦様の最後の弟子です。スバッダは、クシナガラのバラモンであり、遍歴行者で、四ヴェーダに通じ、聡明多智で五神通を得て、非想非非想定を得ていましたが、それでも疑問に思っていることをお釈迦様に聞くことが出来、弟子になりました。<< 戻る
人物

チャンナ

チャンナは、『ブッダ最後の旅【 第6章 】23、臨終のことば』に登場するお釈迦様の弟子です。チャンナは、気難しく、かたくなで、仏教教団の内部にあっても他人と協力せず、摩擦や抗争を起こしたことから、清浄な罰ブラフマ・ダンダを受け、その後は人格も円熟したと言われています。<< 戻る
人物

ヴァッサカーラ・バラモン

ヴァッサカーラ・バラモンは『ブッダ最後の旅【第1章】1、鷲の峰にて、および、2、修行僧たちに教える、4、パータリ村にて』内に登場します。マガダの大臣で、マガダ国王アジャータシャトル(阿闍世)の命令によりお釈迦様の所へ行きます。<< 戻る
人物

年老いて出家したスバッダ

スバッダは、『ブッダ最後の旅【 第6章 】25、遺体の火葬』に登場するお釈迦様の弟子です。ブッダ最後の弟子のスバッダとは別人だと考えられます。<< 戻る
人物

富商パーヴァーリカ

富商パーヴァーリカは『ブッダ最後の旅【第1章】3、旅に出る』内に登場するナーランダ村のマンゴー林の持ち主で、お釈迦様は旅の途中でそこに滞在しました。<< 戻る