仏教を本気で学ぶ 雑色宝華厳身仏(ざっしきほうけごんしんぶつ) 雑色宝華厳身仏とは、身体が宝の花で飾られた者という意味の上方の現在仏です。梵語では ratnakusumasampuspitagatra(ラトナ・クスマ・サンプシピタ・ガートラ)といいます。また、雑色宝華厳身如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る 2020.09.10 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 須弥相仏(しゅみそうぶつ) 須弥相仏とは、須弥山の幢幡<はたぼこ>を持つ者という意味の東方の現在仏です。梵語ではメール・ドバージャといいます。また、須弥相如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る 2020.09.10 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 無量天鼓震大妙音仏(むりょうてんくしんだいみょうおんぶつ) 無量天鼓震大妙音仏とは、その音声が太鼓の響きの如き者という意味の北方の現在仏です。梵語では dundubhisvaranirghosa(ドゥンドゥビ・スヴァラ・ニルゴーシャ)といいます。また、無量天鼓震大妙音如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る 2020.09.10 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 娑羅樹王仏(さらじゅおうぶつ) 娑羅樹王仏とは、樹王サーラの王という意味の上方の現在仏です。梵語では salendraraja(サーレーンドララージャ)といいます。また、娑羅樹王如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る 2020.09.10 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 大須弥仏(だいしゅみぶつ) 大須弥仏とは、大いなる須弥山という意味の東方の現在仏です。梵語ではマハー・メールといいます。また、大須弥如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る 2020.09.10 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 難沮仏(なんそぶつ) 難沮仏とは、襲い難き者という意味の北方の現在仏です。梵語では duspradharsa(ドゥシプラダルシャ)といいます。また、難沮如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る 2020.09.10 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 宝華徳仏(さらじゅおうぶつ) 宝華徳仏とは、宝の蓮花の様に美麗なという意味の上方の現在仏です。梵語では ratnotpalasri(ラトノートパラシュリー)といいます。また、宝華徳如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る 2020.09.10 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 須弥光仏(しゅみこうぶつ) 須弥光仏とは、須弥山の輝きある者という意味の東方の現在仏です。梵語ではメール・プラバーサといいます。また、須弥光如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る 2020.09.10 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 日生仏(にっしょうぶつ) 日生仏とは、太陽から生まれた者という意味の北方の現在仏です。梵語では Adityasambhava(アーディティア・サンバヴァ)といいます。また、日生如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る 2020.09.10 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 見一切義仏(けんいっさいぎぶつ) 見一切義仏とは、一切の意義を見る者という意味の上方の現在仏です。梵語では sarvarthadarsa(サルヴァールタ・ダルシャ)といいます。また、見一切義如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る 2020.09.10 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 妙音仏(みょうおんぶつ) 妙音仏とは、妙なる幢幡<はたぼこ>を持つ者という意味の東方の現在仏です。梵語では Manjudhvaja(マンジュ・ドバジャ)といいます。また、妙音如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る 2020.09.10 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 網明仏(もうみょうぶつ) 網明仏とは、網の様に広く覆う光明ある者という意味の北方の現在仏です。梵語では jaliniprabha(ジャーリニー・プラバ)といいます。また、網明如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る 2020.09.10 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 如須弥山仏(にょしゅみせんぶつ) 如須弥山仏とは、須弥山の如き者という意味の上方の現在仏です。梵語では sumerukalpa(スメール・カルパ)といいます。また、如須弥山如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る 2020.09.10 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 師子仏(ししぶつ) 師子仏とは、獅子という意味の下方の現在仏です。梵語では simha(シンハ)といいます。また、師子如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る 2020.09.10 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 日月灯仏(にちがつとうぶつ) 日月灯仏とは、月と太陽のごとき燈明ある者という意味の南方の現在仏です。梵語では candrasUryapradIpa(チャンドラ・スーリヤ・プラディーパ)といいます。また、日月燈如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る 2020.09.10 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 名聞仏(みょうもんぶつ) 名聞仏とは、名声という意味の下方の現在仏です。梵語では yasas(ヤシャス)といいます。また、名聞如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る 2020.09.10 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 分かり合えない どうして分かり合えないのかって思ったら自分に合った人ばかりじゃ身動きできないからそう考えたら少し楽になる共有した想い語って離れた時間埋めて今を生きていくんだ受け取るかどうかはその人次第ただ気分次第準備はできたかい心はいつも開かれている<< 戻る 2020.09.10 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 私も私 それぞれが自分の中に自分を持つように心の中に母もいれば父もいる心の中のお母さんはどんな人ですか心の中のお父さんはどんな時に現れますか好きな人嫌いな人意識した人は心の中の住人になるそれは現実のその人とはちょっと違うかもしれないけれど重ねて見ているそうやって住人を認識しているそうやって私も誰かの心の中に知らず知らず住んでいる誰かの心が生んだ私も私<< 戻る 2020.09.10 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 五蓋(ごがい) 五蓋とは、貪欲、いかり、心のしずむこと、心のそわそわすること、疑い、この5つの煩悩の総称をいう。蓋は巴語で nīvaraṇa /ニーヴァラナといい、認識を覆う障害のこと。瞑想(禅定)を邪魔する5つの障害を意味する。これらは心の明らかな働きを覆いかくして蓋(かさ)のようになり、善を生ぜしめない五つの覆いとなっています。①貪欲、むさぼり、情欲②いかり、瞋恚③心のしずむこと、心くらく身も重く、眠り込んだようなものうい状態④心のそわそわすること、心がざわざわして高ぶる働き、心を悩ませる後悔⑤疑いためらうこと・「五つの蓋いを捨て、悩みなく、疑惑を越え、苦悩の矢を抜き去られた修行者は、この世とかの世とをと... 2020.09.08 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 想念(そうねん) 想念とは、思慮し思考すること。次の例では、心の静まった修行者には、思慮分別はいらないことを示している。「想念を焼き尽くして余すことなく、心の内がよく整えられた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。」(スッタニパータ 7偈) 2020.09.08 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ お守り お寺や神社で手に入るお守り仏様や神様の前で約束したことをお守りしますその証がお守り宇宙兄弟の南波六太が月に向かうとき日々人のことを思い出す二人で宇宙飛行士になる目標を先生や友だちに現実的でないと思われて諦めかけ心の中の夢として隠していたことがあった心は移り変わる目標に向かい動き続ければ心はいつもそこにあるお守りの形は様々気持ちを形にして生きていこう<< 戻る 2020.09.08 仏教を本気で学ぶ
人物 ヴァッサカーラ・バラモン ヴァッサカーラ・バラモンは『ブッダ最後の旅【第1章】1、鷲の峰にて、および、2、修行僧たちに教える、4、パータリ村にて』内に登場します。マガダの大臣で、マガダ国王アジャータシャトル(阿闍世)の命令によりお釈迦様の所へ行きます。<< 戻る 2020.09.08 人物仏教を本気で学ぶ
人物 年老いて出家したスバッダ スバッダは、『ブッダ最後の旅【 第6章 】25、遺体の火葬』に登場するお釈迦様の弟子です。ブッダ最後の弟子のスバッダとは別人だと考えられます。<< 戻る 2020.09.08 人物仏教を本気で学ぶ
人物 富商パーヴァーリカ 富商パーヴァーリカは『ブッダ最後の旅【第1章】3、旅に出る』内に登場するナーランダ村のマンゴー林の持ち主で、お釈迦様は旅の途中でそこに滞在しました。<< 戻る 2020.09.08 人物仏教を本気で学ぶ
人物 ドーナ・バラモン ドーナ・バラモンは、コーリヤ族出身で『ブッダ最後の旅【 第6章 】26、遺骨の分配と崇拝』に登場します。お釈迦様の遺骨をどうするかを仲裁したバラモンとして知られています。お釈迦様が荼毘に付された後、その遺骨を分けて欲しいと7種族が申し出ました。しかし、クシナガラに住むマッラ族は「我々の住む土地でブッダはお亡くなりになられたのだから、一部分をも分け与えない」と言いました。それに対して、ドーナ・バラモンが次のようなことを言いました。「我らのブッダは耐え忍ぶことを説くかたでありました。最上の人の遺骨を分配する為に争うのはよくありません。我らはともに喜び合って遺骨を八つの部分に分けましょう。多くの人々... 2020.09.08 人物仏教を本気で学ぶ
人物 スニーダ・バラモン スニーダ・バラモンは『ブッダ最後の旅【第1章】4、パータリ村にて』内に登場します。マガダ国の大臣で、お釈迦様を食事に招待します。<< 戻る 2020.09.08 人物仏教を本気で学ぶ
人物 アンバパーリー アンバパーリーは『ブッダ最後の旅【 第2章 】8、遊女アンバパーリー』内に登場し、ヴァイシャリに住むお釈迦様の女性の弟子(比丘尼)です。漢訳仏典には、菴摩羅、菴没羅などの音訳があり、㮈女、柰女、非浄護などの意訳も見られます。マンゴー林に捨てられた子であり、その番人に育てられたことから、「アンバパーリー」すなわち「マンゴー林の番人の子」と言われるようになりました。アンバパーリーは、遠くの町にまで名声が伝わるような遊女で、美貌と容姿、魅力に恵まれ、他にも踊りや歌、音楽も巧み、当然言い寄る客が引けを取らずとなって舞台等で莫大な稼ぎを得ていたそうです。お釈迦様に帰依し、みずからも出家し比丘尼となり、阿... 2020.09.08 人物仏教を本気で学ぶ
人物 アーラーラ・カーラーマ(阿羅邏迦蘭) アーラーラ・カーラーマは、古代インドの思想家で、お釈迦様が出家直後、悟りを得る前に師事した人物の1人です。アーラーラ・カーラーマのもとを訪れ「無所有処(ākiñcaññāyatanaṃ)」(空無辺処)の教えを聞くと、間もなくその境地を証得したので、アーラーラ・カーラーマはお釈迦様が自分と同じ境地を得たことを知ると、自分の弟子300人を共に率いていくことを要請しました。しかしお釈迦様はその境地は真の悟りを得る道ではないと覚り、アーラーラ・カーラーマのもとを去り、次にウッダカ・ラーマプッタのもとへ行きました。『ブッダ最後の旅【 第4章 】17、臨終の地を目指して - プックサとの邂逅』にはアーラー... 2020.09.08 人物仏教を本気で学ぶ
人物 ウッダカ・ラーマプッタ(優頭藍子) ウッダカ・ラーマプッタは、古代インドの思想家で、お釈迦様が出家直後、悟りを得る前に師事した人物の1人です。出家直後はじめに師事したアーラーラ・カーラーマのもとを去り、次にウッダカ・ラーマプッタのもとを訪れ「非想非非想処(Naivasaṃjñānasaṃjnayatana)」の教えを聞くと、間もなくその境地を証得したので、ウッダカ・ラーマプッタはお釈迦様が自分と同じ境地を得たことを知ると、自分の弟子を共に率いていくことを要請しました。しかしお釈迦様はその境地は真の悟りを得る道ではないと覚り、ウッダカ・ラーマプッタのもとを去り、ウルヴェーラの苦行林(前正覚山)へ行き6年間の修行が始まります。<< ... 2020.09.08 人物仏教を本気で学ぶ
人物 プックサ(福貴) プックサは、マッラ族の人で『ブッダ最後の旅【 第4章 】17、臨終の地を目指して - プックサとの邂逅』に登場するお釈迦様の最後から2番目の在家信者です。プックサはお釈迦様が出家直後に師事したアーラーラ・カーラーマの弟子でした。<< 戻る 2020.09.08 人物仏教を本気で学ぶ
人物 スバッダ(須跋陀) スバッダは、『ブッダ最後の旅【 第5章 】22、スバッダの帰依』に登場するお釈迦様の最後の弟子です。スバッダは、クシナガラのバラモンであり、遍歴行者で、四ヴェーダに通じ、聡明多智で五神通を得て、非想非非想定を得ていましたが、それでも疑問に思っていることをお釈迦様に聞くことが出来、弟子になりました。<< 戻る 2020.09.08 人物仏教を本気で学ぶ