buddhism

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萬福寺-東京都大田区

・萬福寺の公式サイト 曹洞宗 東京都大田区南馬込1-49-1現在、曹洞宗寺院である萬福寺は慈眼山無量院と号します。建久年間(1190~99)大井村丸山の地に密教寺院として創建されました。開基は梶原平三景時公であったと伝えられています。元応2年(1320)火災にあい、第六代の梶原掃部助景嗣が居城と共に馬込へ移転したと伝えられます。天文3年(1534)鎌倉の禅僧明堂文竜が曹洞宗に改め中興し、現在の萬福寺へと続いています。本尊は阿弥陀三尊を祀っております。(リンク先より) << 戻る
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興禅寺-兵庫県尼崎市

・興禅寺 臨済宗妙心寺派 兵庫県尼崎市浜田町1-7興禅寺は建久元年(1190年)に臨済宗の開祖・栄西千光国師が宋から帰国後、西国各地を伝道した折に開山され、令和元年で創建829年に至る禅宗の古刹です。兵庫県尼崎市唯一の禅・臨済宗妙心寺派寺院です。安置されてる本尊・釈迦牟尼佛は、室町時代初期の作であり、戦国時代の再三の兵火から護られてきました。(リンク先より) << 戻る
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法然上人と九条兼実

文治5(1189)年8月、九条兼実と法文語および往生業を語る。<< 戻る
人物

武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)

武蔵坊弁慶は、平安時代末期の僧衆。源義経の郎党。 『義経記』では熊野別当の子で、紀伊国出身だと言われるが詳細は不明。元は比叡山の僧で武術を好み、五条の大橋で義経と出会って以来、郎党として彼に最後まで仕えたとされる。弁慶の立往生義経が衣川の館を攻められた際、弁慶は並み居る敵兵を次々倒すが、ついには無数の矢を受けて薙刀を杖にして仁王立ちのまま息絶えたと伝えられている。ここから命を投げ出して主君を護っていた忠義の臣を表す。弁慶の泣き所弁慶ほどの豪傑でもここを打てば涙を流すほど痛いとされる急所のこと。最もよく知られているのが脛(膝頭の下から足首の上まで)で、皮膚のすぐ下、骨(脛骨)のすぐ上を神経が通っ...
人物

源義経(みなもとのよしつね)

源義経は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝は異母兄。仮名は九郎。河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸と呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った...
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宗恵寺-宮城県登米市

・宗恵寺 曹洞宗 宮城県登米市南方町尼池80文治五年(1189年)源頼朝は源義経をかくまったとして藤原泰衡を攻め(奥州合戦)、平泉・藤原氏を滅ぼしました。当地南方町も戦火に見舞われ、住民が尼池118番地に小さな僧房を建てて、戦で死んだ者の供養をしたと伝えられています。(リンク先より) << 戻る
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遍照寺-山形県長井市

・遍照寺 真言宗豊山派 山形県長井市横町14-8金剛山遍照寺は、8世紀中頃に行基菩薩が開いたと伝えられています。文治の乱(1189年)の時、中尊寺の祥乗が戦乱をさけて遍照寺に入ったといい、「奥の高野」とも呼ばれた古刹です。(リンク先より) << 戻る
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源頼朝が奥州で義経を討つ

1189年、源頼朝が奥州で義経を討つ。<< 戻る
年表

栄西禅師再び南宋に留学

文治3(1187)年、再び南宋に入り、更にインドへの巡蹟を目指すも許可されず、天台山万年寺の虚庵懐敞(きあんえじょう)のもとで臨済宗黄龍派の禅を修行し、その法の印可を受け継いで建久2(1191)年に帰国しました。<< 戻る
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龍寶寺-宮城県仙台市青葉区

・龍寶寺 真言宗御室派 宮城県仙台市青葉区八幡4-8-32文治年間(1186年)伊達家の初代朝宗公(ともむねこう)が、伊達家の祈願寺(きがんじ)として開かれたお寺です。龍寶寺は、常陸の国より 福島県 梁川、山形県 米沢、宮城県 岩出山と、伊達家と共に移動し、慶長3年(1598年)頃、初代仙台藩主伊達政宗公(まさむねこう)の仙台築城に伴って現在の地に移されました。 藩政時代は城下最大の門前町を与えられ、龍寶寺に属していた寺院は約70ヶ寺という大寺院でありました。(リンク先より) << 戻る
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平家の落武者や、没落した貴族が高野山に

文治二年(1186年)、この頃から平家の落武者や、没落した貴族が高野山に逃れてくる。また、この頃から高野聖らの唱導によって高野山への納骨を勧め、伽藍再建のための寄進を求めました(勧進)。<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

大原談義

文治2(1186)年の秋、洛北大原の魚山大原寺勝林院で天台座主の職にあった顕真法印の発起により、南都、北嶺の名僧学匠三百余人を相手として、法然上人は念仏の教えについて論議された大原談義(大原問答)が行われました。論議は一昼夜に及び、念仏が他の行よりすぐれていることを法然上人が述べられたところ、顕真や論議参加した者は法然上人の教えを信じ、阿弥陀仏の周りを三日三夜念仏行道したと伝えられています。<< 戻る
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龍華寺-神奈川県横浜市金沢区

・知足山 龍華寺 真言宗御室派 神奈川県横浜市金沢区洲崎町9-31鎌倉の外港として栄えた武州金沢に整然とたたずむ古刹「龍華寺(りゅうげじ)」。寺のおこりは、文治年中(1185~1190)に源頼朝が六浦山中に創建した浄願寺で、明応8年(1499)に融弁上人によって現在の地にあった光徳寺と併合され、移築されました。(リンク先より) << 戻る
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一心寺-大阪府大阪市天王寺区

・一心寺 トップページ 浄土宗 大阪府大阪市天王寺区逢坂2-8-69山号:坂松山  院号:高岳院開基:文治元年(1185年)法然上人(リンク先より) << 戻る
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海泉寺-大阪府大阪市浪速区

・海泉寺 浄土宗 大阪府大阪市浪速区恵美須西1-6-15昔この当地がまだ海岸であった頃、作太夫(のちの海泉房)が1184年に海から引き上げた洒落木が観音像であったことがきっかけで剃髪した。1185年に法然上人が四天王寺を参詣された時、新別所と名付けられた今の一心寺のあたりにて念仏を唱えられた。その時に海泉房がお袈裟と阿弥陀三尊来迎図を法然上人より授かり念仏修行をしていた草庵が海泉寺の始まり、といわれています。(リンク先より) << 戻る
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源頼朝が全国に守護・地頭をおく

1185年、源頼朝が全国に守護・地頭をおく。<< 戻る
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平氏が北九州にのがれ、壇ノ浦で滅びる

1185年、平氏が北九州にのがれ、壇ノ浦で滅びる。源範頼、義経らに攻められる。<< 戻る
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法然上人、平重衡に説戒

寿永3(1184)年2月7日、法然上人は平重衡に説戒する。<< 戻る
人物

源義仲(みなもとのよしなか)

平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍と呼ばれている。 以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。生誕 久寿元年(1154年)命日 寿永3年1月20日(1184年3月4日)徳音院義山宣公<< 戻る
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放光寺-山梨県甲州市

・放光寺 真言宗智山派 山梨県甲州市塩山藤木2438元暦元年(1184)源平合戦で功績をたてた安田義定が一ノ谷の戦いの戦勝を記念して創立しています。義定は平家追討の功によって遠江国守に任命されて、のちに遠江国守護、禁裏守護など勤め鎌倉幕府創業に貢献しておりますが建久5年(1194)8月19日梶原氏らの謀反の嫌疑を受け当山において自刃したと伝えています。(リンク先より) << 戻る
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蓮通寺-滋賀県長浜市

・蓮通寺 単立(浄土真宗東本願寺派) 滋賀県長浜市西浅井町岩熊542源平争乱の寿永三年(1184年)、征夷大将軍源義仲は粟津ヶ原で敗死し、その室山吹御前は子息義隆・義順を伴い、北近江浅井郡の山中で世の浮沈を窺って暮らしていたが、義仲を破った頼朝・義経の兄弟も世を去り、琵琶湖にすぐ近い海津の荘に住まいを移したところ、本願寺御開山親鸞聖人、越後に流罪となり琵琶湖を舟で渡ってこられ海津にお着きになり、義隆・義順兄弟と師弟の約諾を交わしてくださり、兄の義隆は海津荘岩谷の地で願慶寺開基となり、弟の義順は浅井郡塩津荘岩熊に赴き蓮通寺の開基となった。(リンク先より) << 戻る
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法然上人、ただ一日のみ聖教を見ず

寿永2(1183)年7月28日、木曽義仲の軍勢洛中に乱入の日、ただ一日のみ聖教を見なかった。<< 戻る
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木曽の源義仲が京都に入る

1183年、木曽の源義仲が平氏を攻めて京都に入る。<< 戻る
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「保元物語」「平治物語」ができる

1183年、このころ「保元物語」「平治物語」ができる。<< 戻る
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福厳寺-栃木県足利市

・福厳寺 臨済宗建長寺派 栃木県足利市緑町1-3270今から約830年前の寿永元年(1182年)に、藤姓足利又太郎忠綱が父俊綱と母の菩提(死後の冥福)を供養する為に理真上人を勧請開山として開創されたと寺伝に記録されております。(リンク先より) << 戻る
人物

平清盛(たいらのきよもり)

平安時代末期の日本の武将で公卿。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士として初の太政大臣。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。生誕 永久6年1月18日(ユリウス暦1118年2月10日、グレゴリオ暦11...
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皆福寺-愛知県豊田市

・皆福寺 真宗大谷派 愛知県豊田市幸海町神田9皆福寺は、松平地区最古の寺院であり、創建については、諸説あるが、1181年(養和元年)又は1247年(宝治元年)と伝承されている。当時は、酒呑村梅上(現在地から北へ500m程の地区)を所在地とし、天台宗のお寺であったが、正和年間(1312~1316)の頃に、第4代住職光玄が本願寺第3代覚如上人(1270~1351)の直弟子となり、真宗に改宗した。(リンク先より) << 戻る
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親鸞聖人の得度

養和元(1181)年、9歳の春、伯父の日野範綱(ひののりつな)にともなわれて、京都青蓮院において、後の天台座主・慈円和尚(じえんかしょう)のもとで出家・得度し、範宴(はんねん)と名のりました。慈円和尚は歴史書『愚管抄』を記したことで知られ、また、後に専修念仏の法然聖人の教義を批判する一方で、その弾圧にも否定的で法然聖人や親鸞聖人を庇護しています。出家後、比叡山にのぼってからの20年間、主に横川の首楞厳院で不断念仏を修する堂僧として、ひたすら学問と修行に励みました。<< 戻る
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法然上人、東大寺大勧進職を辞退する

養和元(1181)年、東大寺大勧進職を辞退し、重源を推挙する。<< 戻る
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法台寺-埼玉県新座市

・大平山法台寺ホームページ 単立 埼玉県新座市道場1-10-13源頼朝存命の治承4(1180)年、勅許に依り「館」が建てられた。その館を「清浄殿」と名づけた。それが当寺の原型となった「廣澤の清浄殿」である。執権職北條時宗の時、すなわち文永3(1266)年仲秋、宗尊親王の命に依り、源実朝の御台所久米御前(*5)(法名「廣澤院従二位承山寶臺禅定尼」)の菩提を弔うためにこの、清浄殿を「廣澤院寶臺寺」とした。寺院として建立したのである。(リンク先より) << 戻る
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福原に遷都

1180年、福原に遷都。 << 戻る
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源頼朝が関東で兵をあげる

1180年、源頼朝が平氏を討つため、伊豆の豪族北条時政の力を借りて関東で兵をあげる。<< 戻る