buddhism

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圓光寺-京都府京都市左京区

・圓光寺 臨済宗南禅寺派 京都府京都市左京区一乗寺小谷町13慶長6年(1601)徳川家康は国内教学の発展を図るため、下野足利学校第九代学頭・三要元佶(閑室)禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し学校とした。圓光寺学校が開かれると、僧俗を問わず入学を許した。また孔子家語・貞観政要など多くの書籍を刊行し、これらの書物は伏見版または圓光寺版と称された。当寺には、出版に使用された木活字が現存しており、我国出版文化史上特筆すべき寺院であるといえよう。(リンク先より) << 戻る
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安昌寺-滋賀県大津市

・安昌寺 曹洞宗 滋賀県大津市膳所1-9-15久林寺安昌寺といい、初め三河国(愛知県)伊奈にあり東漸寺といいましたが、慶長6年(1601年)、本多康俊が三河国西尾城主となった時に、この寺も移り久林寺安昌寺と改称されました。その後、本多侯の移封に伴って膳所、伊勢亀山と移り、慶安4年(1651年)本多侯が膳所再封により、現在地に定まりました。(リンク先より) << 戻る
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小西行長(こにしゆきなが)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。肥後宇土城主。アウグスティヌスの洗礼名を持つキリシタン大名でもある。 当初は宇喜多氏に仕え、後に豊臣秀吉の家臣となる。文禄・慶長の役では女婿・宗義智らと共に主要な働きをし、序盤の漢城府占領の際には加藤清正と先陣の功を争った。関ヶ原の戦いでは西軍の将として奮戦したが、敗北して捕縛された。自殺を禁じられたキリシタンであったので、切腹を拒否して斬首された。生誕 永禄元年(1558年)命日 慶長5年10月1日(1600年11月6日)<< 戻る
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石田三成(いしだみつなり)

安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。 豊臣政権の奉行として活動し、五奉行の内の一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名と共に西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。生誕 永禄3年(1560年)命日 慶長5年10月1日(1600年11月6日)江東院正軸因公大禅定門<< 戻る
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秀林寺-宮城県仙台市青葉区

・秀林寺 曹洞宗 宮城県仙台市青葉区北山1-3-1慶長5年(1600)、藩祖政宗により仙台城の築城が開始され、その没する寛永13年(1636)まで、36年間に亘り城下町の整備が同時に行われ、多くの寺が各地より集められた。北山五山と言われる寺々、輪王寺、秀林寺も例外ではない。(リンク先より) << 戻る
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神崎寺-千葉県香取郡

・大日山神崎寺 真言宗醍醐派 千葉県香取郡神崎町本宿231慶長5年、1600年関ケ原合戦の世、一人の行者が利根川を望む山に霊気を覚え、錫をとどめる。名を普賢を名乗った行者により山は開かれ、寺の歴史を刻むこととなった。江戸時代の書物の記録によると当山”大日山”は神崎三山に数えられておりました。鎮守神の山”神崎の杜”、愛宕権現の山”愛宕山”そして大日如来の山”大日山”が神崎三山とされ、神崎は古来より神仏を大切にしてきた土地であったことがうかがいしれます。(リンク先より) << 戻る
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南通寺-大阪府堺市堺区

・南通寺 真宗大谷派 大阪府堺市堺区御陵通3-12南通寺法名記と堺市史によると南通寺は慶長五年(西暦1600年)、釋良清によって開かれた真宗大谷派寺院である。(リンク先より) << 戻る
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到岸寺-福島県福島市

・到岸寺 浄土宗 福島県福島市大町2-30創建は慶長五年(1600年)、関ヶ原合戦の年。開山は楢葉郡折木(現在の双葉郡広野町)・古本山盛徳寺・第十四世一可良憲上人です。(リンク先より) << 戻る
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宝珠寺-和歌山県新宮市

・宝珠寺 曹洞宗 和歌山県新宮市木ノ川360和歌山県新宮市にある 「宝珠寺」(ほうしゅじ) は本来、 現在の新宮市の蜂伏地区の入口あったと言われている金錫山に天台宗の寺院として存在しておりました。しかし、幾多の 火災に遭い「湧水の池」があった木ノ川の現在の地に移転したと言い伝えられております。1600年頃、伊豆国の最勝院 16 世 説翁禅宗禅師によって、再建された曹洞宗の寺院です。(リンク先より) << 戻る
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禅源寺-茨城県北茨城市

・禅源寺 臨済宗妙心寺派 茨城県北茨城市関本町富士ケ丘1463禅源寺の由緒として正式な文書は失われてしまいましたが、1600年代の創建より400余年の年月を経た臨済宗妙心寺派の寺院です。(リンク先より) << 戻る
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海龍寺-静岡県浜松市南区

・海龍寺 臨済宗妙心寺派 静岡県浜松市南区中田島町272静岡県浜松市の中田島砂丘近くにある海龍寺は禅宗、臨済宗妙心寺派のお寺です。開創は関ヶ原の戦いの一六〇〇年頃と伝わっており(リンク先より) << 戻る
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大蓮寺-京都府京都市左京区

・大蓮寺 浄土宗 京都府京都市左京区西寺町二条下る正往寺町457名称 引接山 極楽院 大蓮寺(いんじょうざん ごくらくいん だいれんじ) 開基 慶長5年(1600) 関ヶ原の合戦の年です 専蓮社深誉和尚により開山(リンク先より) << 戻る
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西福寺-富山県高岡市

・西福寺 浄土真宗本願寺派 富山県高岡市福岡町福岡1865当寺は昔火事に遭った事から由来に関する書物はありませんが伝承によると1600年頃には西福寺は在った様です。(リンク先より) << 戻る
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青松寺-東京都港区

・萬年山 青松寺 曹洞宗 東京都港区愛宕2-4-7開山当初は麹町貝塚(今の国立劇場・最高裁判所の辺り)にあり、「江戸貝塚青松寺」と称されました。その後、慶長五年(1600年)、徳川家康公が江戸城の外堀をつくる際に、愛宕山南に続く丘陵「含海山」と呼ばれる現在の地へと移りました。(リンク先より) << 戻る
年表

関ヶ原の戦い

1600年、関ヶ原の戦い。豊臣秀吉が死ぬと、徳川家康の勢いが強まった。家康は石田三成らの豊臣方の軍を関ヶ原(岐阜県)にやぶって、全国の大名を従えた。天下分け目の戦い 関ヶ原の戦いには、全国のほとんどの大名が徳川方(東軍)と豊臣方(西軍)に分かれて戦った。<< 戻る
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長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)

戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名。長宗我部氏第21代当主。位階は従五位下で死後に正五位、昭和3年には正三位が贈られた。 長宗我部国親の長男で、母は美濃斎藤氏の娘。正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹。土佐国の守護職を兼ねる細川京兆家当主で管領の細川晴元より、京兆家の通字である「元」の一字を受けたため、かつて同じく細川氏より「元」の字を受けた15代当主・長宗我部元親と同名を名乗ることとなった。土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国に勢力を広げる。しかし、その後に織田信長の手が差し迫り、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知...
人物

前田利家(まえだとしいえ)

前田利家は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。俗に加賀百万石の祖とも称されるが、前田家が百万石を超えるのは利長・利常ら利家の息子たちの世代からである。生誕 天文7年12月25日(1539年1月15日)命日 慶長4年閏3月3日(1599年4月27日)高徳院殿桃雲浄見大居士<< 戻る
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豊臣秀吉(とよとみひでよし)

豊臣秀吉、または、羽柴秀吉は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏で、後に羽柴氏に改める。皇胤説があり、諸系図に源氏や平氏を称したように書かれているが、近衛家の猶子となって藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓されて本姓とした。尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされている。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、従来にはない斬新な奇策や政策で次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、清洲会議で信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争...
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泊舟院-佐賀県佐賀市

・泊舟院 曹洞宗 佐賀県佐賀市西与賀町大字高太郎87【開山】慶長3年戊戊(1598年)8月示寂 龍泰寺3世 建立開山傳叟俊的大和尚【本尊】聖観世音菩薩(リンク先より) << 戻る
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廣誓寺-石川県金沢市

・廣誓寺 曹洞宗 石川県金沢市昌永町13-251598(慶長2)年 金沢市の砂丘地帯・五郎島地区に、不破家が真言宗安養山廣誓寺を建立。不破家の菩提寺となる。1650(慶安3)年 廣誓寺が現在地に移転。境内2000余坪(現在は1000坪)に、七堂伽藍を完備した寺院を建立。曹洞宗本源山廣誓寺とした。(リンク先より) << 戻る
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智積院-京都府京都市東山区

・智積院 真言宗智山派 京都府京都市東山区東大路通り七条下ル東瓦町964鎌倉時代の中頃に、頼瑜(らいゆ)僧正が出て、大伝法院を高野山から根来山へ移しました。これにより、根来山は、学問の面でもおおいに栄え、最盛時には、2900もの坊舎と、約6000人の学僧を擁するようになります。智積院は、その数多く建てられた塔頭(たっちゅう)寺院のなかの学頭寺院でした。 しかし、巨大な勢力をもつに至ったため、豊臣秀吉と対立することとなり、天正13年(1585)、秀吉の軍勢により、根来山内の堂塔のほとんどが灰燼に帰してしまいました。その時、智積院の住職であった玄宥(げんゆう)僧正は、難を高野山に逃れ、苦心のすえ、...
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圓成寺-大阪府池田市

・圓成寺 真宗大谷派 大阪府池田市東山町313-1慶長3年(1598年)西念法師により開基されました。開基 西念法師 慶長12年往生(リンク先より) << 戻る
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龍廣寺-群馬県高崎市

・龍廣寺 曹洞宗 群馬県高崎市若松町49徳川四天王の一人とよばれた井伊直政(1561-1602)が開基の寺院。直政は箕輪(現在の箕郷)より髙﨑に城を移す時に、信任の厚かった龍門寺住職白庵秀関和尚と共にこの地に来ました。そして、慶長三年(1598)白庵和尚を初代住職として龍廣寺を建立した。(リンク先より) << 戻る
年表

豊臣秀吉が死去

1598年、豊臣秀吉が死去。<< 戻る
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足利義昭(あしかがよしあき)

室町幕府第15代(最後の)将軍(在職:1568年〈永禄11年〉- 1588年〈天正16年〉)。 父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。足利氏22代当主。 足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って覚慶と名乗り一乗院門跡となった。生誕 1537年12月15日〈天文6年11月13日〉命日 1597年10月9日〈慶長2年8月28日〉霊陽院昌山道休<< 戻る
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小早川隆景(こばやかわたかかげ)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。竹原小早川家第14代当主。後に沼田小早川家も継ぐ。 毛利元就の三男で、兄弟に同母兄の毛利隆元・吉川元春などがいる。竹原小早川家を継承し、後に沼田小早川家も継承して両家を統合。吉川元春と共に毛利両川として戦国大名毛利氏の発展に尽くした。毛利水軍の指揮官としても活躍している。豊臣政権下では豊臣秀吉の信任を受け、文禄4年(1595年)に発令された「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条において秀吉に五大老の一人に任じられた。実子はなく、木下家定の五男で豊臣秀吉の養子となっていた羽柴秀俊(小早川秀秋)を養子として迎え、家督を譲っている。特に豊臣秀吉の信頼は厚く、...
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徳成寺-熊本県玉名郡

・徳成寺 浄土真宗本願寺派 熊本県玉名郡玉東町大字木葉1056-1浄土真宗本願寺派 徳成寺熊本教区 玉関組に属しています創立 : 慶長2年3月28日(1597.3.28)第一代住職 : 慶順 師(リンク先より) << 戻る
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養泉寺-和歌山県和歌山市

・養泉寺 真宗大谷派 和歌山県和歌山市和歌浦中2-7-16天正7年(1579)織田信長が再度石山本願寺攻めを行いました。本願寺派の軍勢は、武運拙く木下藤吉郎の前に敗戦し、顕如上人の長男、教如上人は信長との和議を拒み堺・岸和田・和歌山へと落ちのび、雑賀崎鷹の巣洞窟に身を隠したと伝えられています。それを知った井本源兵衛は食事を運び教如を援助しました。その恩返しに、本願寺秘伝の製薬法を源兵衛に伝授したとされています。これが今日も重宝されております「和歌保命丸・わかのうら薬」です。その後、源兵衛は真宗に帰依し、慶長2年(1597)養泉寺を創建されました。そして、寛永2年(1625)寺号を許され、徳川頼...
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乗光寺-石川県珠洲市

・乗光寺 真宗大谷派 石川県珠洲市飯田町12-24寺に現存する最古の資料は 1597 年のものです。乗光寺に「顕如上人 (けんにょしょうにん)」 の御影があります。 顕如上人はあの一向一揆の統率者であり、大阪 城の前身の「石山本願寺」で織田信長と戦った ことで有名です。その御影の裏には、顕如上人 の長男で、のちに東本願寺の初代となる、教如上人 (きょうにょしょうにん) からの「東本願寺」の末寺になるよう要請する檄が残されています。(リンク先より) << 戻る
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浄光寺-島根県江津市

・浄光寺 浄土真宗本願寺派 島根県江津市千田町451開基住職釈慶念は、慶長2年(1597)に豊臣秀吉の命を受け、従軍医僧として朝鮮出兵に従う。戦争の悲惨を目撃した慶念は、無常転変の儚さを悟り、帰国後、いのちがけの開教に従事。石西一円に教線を張り、現在の石見地方のご法義繁昌の基礎を創りあげる。様々な苦難をのりこえて、慶長年間当地に浄土真宗の教堂を開く。(リンク先より) << 戻る
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興全寺-神奈川県高座郡

・龍寶山 興全寺 曹洞宗 神奈川県高座郡寒川町宮山1785龍寶山興全寺は戦国時代末期に英顔麟哲(えいがんりんてつ)大和尚によって創建された禅宗(曹洞宗)寺院です。 開山は慶長2年(1597)、大本山は福井県の永平寺、神奈川県の総持寺です。寒川神社の東側に位置し、寒川大明神を守護神とする神仏混淆の寺院で、寒川神社歴代神官の菩提寺でもあり、毎年春秋の彼岸には墓前において、神仏合同の慰霊祭が執り行われます。(リンク先より) << 戻る
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西福寺-神奈川県横浜市港南区

・二楽山西福寺 曹洞宗 神奈川県横浜市港南区上大岡東1-38-19創建は慶長二年で、もとは真鶴にあったお寺で、小田原市早川の「海蔵寺」の末寺、山号を「東向山」と称していました。ご開山は「了峰印達大和尚」と「西岸清光庵主」の二説がありますが、今は「真鶴西福寺開山 了峰印達大和尚」「真鶴西福寺開基 西岸清光庵主」としてお奉りをしています。(リンク先より)※慶長二年 1597年 << 戻る