どんな自分でいたいのか、どんな自分になりたいのか、自分のことは自分が一番よく知っているつもりでも、実際の姿をよく知っているのは周りの人たちかもしれない。
本当はどんな性格なのか、どうなればやる気を出せるのか、自分のことは自分が一番よく分かっているつもりでも、時が経てば環境も変わる。振り返れば別人格になっているかもしれない。
子どもの頃に言われた「おとなしい子だね」「真面目だね」。そうなりたくてそうしていた訳ではないですが、今から考えるとこれもレッテルだと思います。次に向かう先は、そのまま進むか、意識してしまい逆の道に向かうか。誉め言葉なのだとは思いますが、言葉を受け取るということはそういうことなんです。言葉には人の心を縛る力があることに注意しなければいけません。
例え、嫌だなと思うようなレッテルであっても繰り返し言われたり、自分で思ったりしていると、本当にそうなることがあります。レッテルを付ける人も、付けられる人も、そのレッテルはずっとずっと変わらないような気がするのはどうしてでしょうか。
心に刺さる言葉は数あれど、気にしていることをズバッと言われたら、それはショックです。繰り返し思ったり、気にしたりすることは自分の中で積もっていきます。意識してしまうという言い方がありますが、繰り返し意識したことは、無意識の領域でも重要なこととして扱われてしまうのです。
こうなりたい、この人と関わっていたい、そのような希望があるのなら、そこには思い通りに行かない道がある。長く続けていく中で、人の気持ちも環境も変わるから。
こうなりたい、この人と関わっていたい、そのような希望があるのなら、そこに自分勝手なレッテルを貼らないこと。目の前の相手を見ずに、良い関係を築くことは難しい。
もし、煩わしいことを取り除くことができたら、なりたい自分になれるかもしれない。
煩わしいことを取り除くには、その状況に合わせた壁を乗り越える工夫が必要になる。
思うようにいかない時、思いもよらないことが口から出るものです。私もあなたも。
それはきっと、こんな自分でいたいと思うこととは違う。
思い通りになっている時でさえ、分からないことの方が多いのですから。
何が正しくて、何が間違いで、常識はこうで、非常識はこうで、と言うけれど、誰も確かめようもしない。正しさは誰かが決めた正しさでいいのでしょうか?
間違っても、恥ずかしい思いをしても、自分で経験して出した答えなら堂々と話すこと。
そこには、どんな切っ掛けでそうなったのか、自分の経験なら納得できるはずです。
誰かの受け売りで「正しいです」「常識です」と言っても説得力はないのですから。