戒名

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森鷗外(もりおうがい)

明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医、官僚。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士。本名は森 林太郎。 石見国津和野出身。東京大学医学部卒業。 大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごした。代表作『舞姫』(1890年)『うたかたの記』(1890年)『ヰタ・セクスアリス』(1909年)『青年』(1910年)『雁』(1911年)『阿部一族』(1913年)『山椒大夫』(1915年)『高瀬舟』(1916年)『渋江抽斎』(1916年、史伝)生誕 文久2年1月19日〈1862年2月17日〉命日 1922年〈大正11年〉7月9日貞献院殿文穆思斎大...
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山県有朋(やまがたありとも)

日本の武士(長州藩士)、陸軍軍人、政治家。階級は元帥陸軍大将。常用字体は山県有朋。内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第3・9代)、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)などを歴任した。生誕 1838年6月14日(天保9年閏4月22日)命日 1922年(大正11年)2月1日報国院釈高照含雪大居士<< 戻る
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安田善次郎(やすだぜんじろう)

富山県富山市出身の実業家。茶人。幼名は岩次郎。号は松翁。安田財閥の祖。東京大学の安田講堂や、日比谷公会堂、千代田区立麹町中学校校地は安田善次郎の寄贈によるものであるが、「名声を得るために寄付をするのではなく、陰徳でなくてはならない」として匿名で寄付を行っていたため、生前はこれらの寄付が行われたことは世間に知られてはいなかった。東京大学の講堂は死後に安田善次郎を偲び、一般に安田講堂と呼ばれるようになる。富山藩下級武士(足軽)の安田善悦の子として生まれた。安田家は善悦の代に士分の株を買った半農半士であった。1858年(安政5年)、奉公人として江戸に出る。最初は玩具屋に、ついで鰹節屋兼両替商に勤めた...
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板垣退助(いたがきたいすけ)

武士、勤皇志士。軍人・政治家。自由民権運動の主導者。従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲。「憲政の父・国会を創った男」として知られる。明治15年(1882年)4月6日、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した(岐阜事件)。その際、板垣は襲われたあとに竹内綱に抱きかかえられつつ起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い、これがやがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになった。生誕 天保8年4月17日(1837年5月21日)命日 大正8年(1919年)7月16日<< 戻る
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前島密(まえじまひそか)

官僚、政治家。本姓は上野。通称は来輔。号は如々山翁鴻爪。日本の近代郵便制度の創設者の一人であり、その功績から「郵便制度の父」と呼ばれる。今日も使われる「郵便」「切手」「葉書」という名称を定めたほか、1円切手の肖像で知られる。生誕 天保6年1月7日(1835年2月4日)命日 大正8年(1919年)4月27日(墓所、浄楽寺)<< 戻る
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夏目漱石(なつめそうせき)

小説家、評論家、英文学者、俳人。本名は夏目金之助。俳号は愚陀仏。明治末期から大正初期にかけて活躍した近代日本文学の頂点に立つ作家の一人である。代表作は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』など。生誕 1867年2月9日〈慶応3年1月5日〉命日 1916年〈大正5年〉12月9日文献院古道漱石居士<< 戻る
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上田敏(うえだびん)

評論家、詩人、翻訳家。文学博士。京都帝国大学文科大学教授。族籍は静岡県士族。「柳村」と号したため、上田柳村名義でも執筆活動を行った。代表作『海潮音』(1905年)、『うづまき』(1910年)生誕 1874年(明治7年)10月30日命日 1916年(大正5年)7月9日含章院敏誉柳邨居士(森鷗外の撰)<< 戻る
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永倉新八(ながくらしんぱち)

幕末の武士(松前藩士、新選組隊士)。本姓は長倉、諱は載之(のりゆき)。幼名は栄吉、栄治。 松前藩を脱藩後、新選組に入隊し、二番隊組長及び撃剣師範を務めた。明治期に杉村義衛と改名し、樺戸集治監の撃剣師範を務めた。生誕 天保10年4月11日(1839年5月23日)命日 大正4年(1915年)1月5日釈義潤憲徳院義衛良行居士<< 戻る
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桂太郎(かつらたろう)

武士、陸軍軍人、政治家。日露戦争時の内閣総理大臣で、西園寺公望と交互に首相を務めた期間は「桂園時代」と呼ばれた。「ニコポン宰相」の異名を持ち、通算在職日数は2,886日。第3次内閣は第一次護憲運動を受けて退陣し、その翌年に病没した。生誕 1848年1月4日〈弘化4年11月28日〉命日 1913年〈大正2年〉10月10日<< 戻る
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岡倉天心(おかくらてんしん)

思想家、文人。本名は岡倉覚三。幼名は岡倉角蔵。横浜(神奈川県)生まれ。フェノロサと共に文化財保護の礎をつくり東京美術学校(現在の東京藝術大学)の創設に尽力。日本画の革新と美術学校の校長を務め、文化行政に携わり、思想家として著作を執筆し、ボストン美術館でキューレターとして活動した。それだけではなく、南画家に師事し、琴を学び、漢詩を残し、余暇には釣りを楽しみ、オペラの台本までも著していた。1862年横浜本町5丁目に生まれる。父岡倉覚右衛門。1873年東京日本橋に一家で移り、同年東京外国語学校に入学。1876年奥原晴湖に入門。1879年18歳でもとと結婚。1880年東京大学を卒業。同年、文部省に就職...
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石川啄木(いしかわたくぼく)

歌人、詩人。歌集「一握の砂」生誕 1886年(明治19年)2月20日命日 1912年(明治45年)4月13日啄木居士<< 戻る
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二葉亭四迷(ふたばていしめい)

小説家、翻訳家。本名、長谷川辰之助。筆名の由来は、処女作『浮雲』に対する卑下、特に坪内逍遥の名を借りて出版したことに対して、自身を「くたばって仕舞え」と罵ったことによる。文学に理解のなかった父に言われたというのは俗説である。長谷川二葉亭とも呼ばれる。別の号に冷々亭主人、杏雨。生誕 1864年4月4日(元治元年2月28日)命日 1909年(明治42年)5月10日二葉亭四迷<< 戻る
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国木田独歩(くにきだどっぽ)

小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者。千葉県銚子生まれ、広島県広島市、山口県育ち。 幼名を亀吉、後に哲夫と改名した。筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがある。 田山花袋、柳田國男らと知り合い「独歩吟」を発表。詩や小説を書き、次第に小説に専心した。生誕 1871年8月30日(明治4年7月15日)命日 1908年(明治41年)6月23日天真院独歩日哲居士<< 戻る
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小泉八雲(こいずみやくも)

ギリシャ生まれの新聞記者・紀行文作家・随筆家・ 小説家・日本研究家・日本民俗学者。出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーン 。ラフカディオが一般的にファーストネームとして知られているが、実際はミドルネームである。アイルランドの守護聖人・聖パトリックにちなんだファーストネームは、ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的であったため、この名をあえて使用しなかったと言われる。ファミリーネームは来日当初「ヘルン」とも呼ばれていたが、これは松江の島根県尋常中学校への赴任を命ずる辞令に、「Hearn」を「ヘルン」と表記したのが広まり、当人もそのように呼ばれることを非常に気に入っていたことから定着したもの。ただ、...
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尾崎紅葉(おざきこうよう)

小説家。本名、徳太郎。「縁山」「半可通人」「十千万堂」「花紅治史」などの号も持つ。江戸生まれ。1885年、山田美妙らと硯友社を設立し「我楽多文庫」を発刊。『二人比丘尼 色懺悔』で認められ、『伽羅枕』『多情多恨』などを書き、幸田露伴と並称され、明治期の文壇に重きをなした。生誕 1868年1月10日(慶応3年12月16日)命日 1903年(明治36年)10月30日彩文院紅葉日崇居士<< 戻る
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滝廉太郎(たきれんたろう)

音楽家、作曲家。明治の西洋音楽黎明期における代表的な音楽家の一人である。代表作である「荒城の月」は、「箱根八里」と並んで文部省編纂の「中学唱歌」に掲載された。また、「花」は1900年(明治33年)8月に作曲された、4曲からなる組曲『四季』の第1曲である。「お正月」、「鳩ぽっぽ」、「雪やこんこん」などは、日本生まれの最も古い童謡作品として知られる。生誕 1879年(明治12年)8月24日命日 1903年(明治36年)6月29日直心正廉居士<< 戻る
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正岡子規(まさおかしき)

俳人、歌人、国語学研究家。名は常規。幼名は処之助で、のちに升と改めた。 俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面に渡り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治を代表する文学者の一人であった。死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。生誕 1867年10月14日〈慶応3年9月17日〉命日 1902年〈明治35年〉9月19日子規居士<< 戻る
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福澤諭吉(ふくざわゆきち)

、、 - )は、日本の武士(中津藩士のち旗本)、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者。諱は範(はん)。字は子囲(しい)。新字体で福沢諭吉。主な作品『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論之概略』『帝室論』『福翁自伝』『瘠我慢の説』生誕 天保5年12月12日(1835年1月10日)命日 明治34年(1901年)2月3日大観院独立自尊居士<< 戻る
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黒田清隆(くろだきよたか)

武士、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍中将。栄典は従一位大勲位伯爵。通称は仲太郎、了介。 薩摩藩士として、幕末に薩長同盟のため奔走し、明治元年から明治2年の戊辰戦争に際しては北越から庄内までの北陸戦線と、箱館戦争で新政府軍の参謀として指揮を執った。生誕 1840年11月9日〈天保11年10月16日〉命日 1900年〈明治33年〉8月23日<< 戻る
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勝海舟(かつかいしゅう)

江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の武士(幕臣)、政治家。位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵。初代海軍卿。長崎海軍伝習所に学ぶ。蘭学、西洋兵学を修得し、万延元年(1860)咸臨丸艦長として渡米。文久2年(1862)軍艦奉行並となる。元治元年(1864)軍艦奉行に就任、神戸に海軍操練所を開き、幕臣のほか坂本竜馬ら諸藩の学生、志士を育てる。生誕 1823年3月12日(文政6年1月30日)命日 1899年(明治32年)1月19日大観院殿海舟日安大居士<< 戻る
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樋口一葉(ひぐちいちよう)

小説家。東京生まれ。戸籍名は「奈津」だが本人は「夏子」と名乗ることが多かった。 中島歌子に歌、古典を学び、半井桃水に小説を学ぶ。生活に苦しみながら、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」といった秀作を発表、文壇から絶賛される。わずか1年半でこれらの作品を送ったが、24歳6ヶ月で肺結核により死去。生誕 1872年5月2日(明治5年3月25日)命日 1896年(明治29年)11月23日智相院釋妙葉信女<< 戻る
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高橋由一(たかはしゆいち)

江戸生まれの洋画家。幼名は猪之助、のち佁之介。名は浩、字は剛。明治維新後に由一を名乗る。号は藍川、華陰逸人。居庵号は、石蒼波舎、伝神楼。 近世にも洋画や洋風画を試みた日本人画家は数多くいたが、由一は本格的な油絵技法を習得し江戸後末期から明治中頃まで活躍した、日本で最初の「洋画家」と言われる。代表作『花魁』『鮭』生誕 文政11年2月5日(1828年3月20日)命日 明治27年(1894年)7月6日実際院真翁由一居士<< 戻る
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清水次郎長(しみずのじろちょう)

幕末・明治の侠客、博徒。本名、山本 長五郎。米問屋山本次郎八の養子。養家没落に伴い、博徒となり,やくざ仲間で名をあげて清水に縄張りをもち、次郎長伯山と異名をとった三代目神田伯山の講談から広まり、広沢虎造の浪曲、その映画化で「海道一の親分」として取り上げられ人気を博する。 生誕 文政3年1月1日(1820年2月14日)命日 明治26年(1893年)6月12日碩量軒雄山義海居士<< 戻る
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松平春嶽(まつだいらしゅんがく)- 慶永(よしなが)

幕末から明治初期にかけての大名、政治家。越前国福井藩16代藩主。春嶽は号で、諱は慶永である。他に礫川、鴎渚などの号を用いたが、生涯通して春嶽の号を最も愛用した。田安徳川家3代当主・徳川斉匡の八男。松平斉善の養子。将軍・徳川家慶の従弟。英邁な藩主で、幕末四賢侯の一人と謳われていた。生誕 文政11年9月2日(1828年10月10日)命日 明治23年(1890年)6月2日諦観院廓誉超勝常然大居士<< 戻る
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松浦武四郎(まつうらたけしろう)

江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家・浮世絵師・著述家・好古家。名前の表記は竹四郎とも。諱は弘。「北海道」の名前は松浦武四郎の発案とされている。生誕 文化15年2月6日(1818年3月12日)命日 明治21年(1888年)2月10日教光院釈遍照北海居士<< 戻る
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村田新八(むらたしんぱち)

武士(薩摩藩士)・政治家。明治10年以降、賊軍の将として遇されたが、大正5年(1916年)4月11日に正五位を追贈されて名誉回復した。生誕 天保7年11月3日(1836年12月10日)命日 明治10年(1877年)9月24日<< 戻る
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安藤信正(あんどうのぶまさ)

江戸時代後期の大名。陸奥国磐城平藩5代藩主。官位は従四位下・侍従、長門守、対馬守。対馬守系安藤家10代。幕末に若年寄、次いで老中を務めた。生誕 文政2年11月25日(1820年1月10日)命日 明治4年10月8日(1871年11月20日)謙徳院殿秀譽松巌鶴翁大居士<< 戻る
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伊東玄朴(いとうげんぼく)

江戸時代末期(幕末)から明治にかけての蘭方医。江戸幕府奥医師。名は淵。近代医学の祖で、漢方医が主流の中で、官医界における蘭方の地位を確立。伊東玄朴の墓は台東区谷中の天竜院にある。生誕 寛政12年12月28日(1801年2月11日)命日 明治4年1月2日(1871年2月20日)師天院素行然僕居士<< 戻る
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土方歳三(ひじかたとしぞう)

幕末期の幕臣、新選組副長。蝦夷島政府 陸軍奉行並。 諱は義豊、雅号は豊玉、家紋は左三つ巴。 新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として組織を支え、戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、またいわゆる「蝦夷島政府」では、軍事治安部門の責任者に任ぜられて指揮を執った。生誕 天保6年(1835年)命日 明治2年5月11日(1869年6月20日)歳進院殿誠山義豊大居士<< 戻る
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沖田総司(おきたそうじ)

幕末の武士、新選組一番隊組長及び撃剣師範。本姓は藤原を称した。諱は春政、後に房良(かねよし)。幼名は宗次郎。生誕 天保13年(1842年)命日 慶応4年5月30日(1868年7月19日)賢光院仁誉明道居士<< 戻る
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近藤勇(こんどういさみ)

江戸時代末期の武士。新選組局長。後に幕臣に取り立てられ、甲陽鎮撫隊隊長。勇は通称で、諱は昌宜という。慶応4年からは大久保剛を名乗り、後にさらに大久保大和と改めた。家紋は丸の内に三つ引。天然理心流四代目宗家。生誕 天保5年10月9日(1834年11月9日)命日 慶応4年4月25日(1868年5月17日)貫天院殿純忠誠義大居士<< 戻る
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小栗忠順(おぐりただまさ)

江戸時代末期の幕臣、勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行。 通称は又一。「又一」は、代々小栗家当主が名乗る名前。安政6年、従五位下豊後守に叙任。文久3年、上野介と改名した。三河小栗氏第12代当主で、父方の祖父は同じく勘定奉行を務めた中川忠英。安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国した。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。生誕 文政10年6月23日(1827年7月16日)命日 慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)陽寿院殿法岳浄性大居士<< 戻る