浄土真宗の出来事

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千正寺-北海道千歳市

・千正寺 浄土真宗本願寺派 北海道千歳市清水町1-14千正寺は富山県針原村(現富山市)妙教寺の三男として生まれた團正法師(当山開基住職)が25歳で開教のため渡道し明治33年に千歳のネシコシ地区に説教所を設立したのが始まりです。その2年後現在地近くの造り酒屋を改造して「千歳説教所」を開設。明治42年「千正寺」として寺号公称が認可される。(リンク先より)※明治33年 1900年 << 戻る
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廣徳寺-北海道虻田郡

・廣徳寺 真宗大谷派 北海道虻田郡京極町字京極615明治43年に「廣徳寺創立願」が北海道庁に提出され、この添付書類の由緒という一項に、「明治31年5月より布教に着手、同36年に説教所認可。」という内容の記述があり、第一世江隈圓導の署名のある「明細表」には「京極農場への移住者のために布教を始め、京極家の特志もあって明治45年に廣徳寺となった」という内容が記されている。(リンク先より)※明治31年 1898年 << 戻る
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本光寺-北海道室蘭市

・本光寺 浄土真宗本願寺派 北海道室蘭市本輪西町3-33-7寺号 蘭北山 本光寺開基 明治29年12月19日(リンク先より)※明治29年 1896年 << 戻る
仏教を本気で学ぶ

清沢満之ら「教界時言社」設立

1896(明治二九)年10月、清沢満之ら「教界時言社」設立し、本山改革をとなえる。『教界時言』発刊(明治31年3月終刊)。この改革は、事務所のあった地名にちなんで「白川党宗門改革運動」と言われた。<< 戻る
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徳念寺-福岡県北九州市門司区

・徳念寺 浄土真宗本願寺派 福岡県北九州市門司区風師4-3-25明治29年豊後真玉の地より龍眼師、門司に来る。龍眼師の住す所、豊後寺とも称される。念佛の声、高らかに有り。近隣諸辺の人々に徳望高く、敬慕、帰依する人々数多くして忽ちに一宇を建立するに至る。(リンク先より)※明治29年 1896年 << 戻る
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東本願寺両堂落慶

1895(明治二八)年4月、東本願寺両堂落慶。<< 戻る
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青蓮寺-広島県呉市

・青蓮寺 浄土真宗本願寺派 広島県呉市伏原1-13-16明治28年(1895)初代住職 釈 徹明が開基。布教道場「洗心堂」を据え、常説教、仏教婦人会、日曜学校の活動をする大正期頃(1915)成町(現・伏原)に本堂を建立する(リンク先より) << 戻る
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福住寺-北海道札幌市豊平区

・福住寺 浄土真宗本願寺派 北海道札幌市豊平区福住一条1-3-1福住寺の前身は明治26年3月25日、札幌郡豊平村字月寒に布教の拠点として明治26年設置された本願寺札幌別院の出張所です。僅か間口三間、奥行き五間の仮説教所がてられ、香川県福住寺の住職長尾諦順師は、57才の時、住職を長男に譲り、当時のフロンティアであった新天地北海道での布教に燃え、住民の心の支えになろうと、来道し福住寺の開基住職になられました。(リンク先より)※明治26年 1893年 << 戻る
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法城寺-北海道勇払郡

・法城寺 浄土真宗本願寺派 北海道勇払郡むかわ町大原2-24開教明治26年(1893年) 浄土真宗本願寺派 胆振組むかわ町(リンク先より) << 戻る
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憲徳寺-鹿児島県姶良郡

・憲徳寺 浄土真宗本願寺派 鹿児島県姶良郡姶良町東餅田40721893年(明治26年) 本願寺鹿児島別院松原説教所として設立。1952年(昭和27年) 寺号公称により浄土真宗本願寺派無極山憲徳寺となり、初代住職に藤谷幸生が就任。(リンク先より) << 戻る
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性原寺-鹿児島県姶良市

・性原寺 浄土真宗本願寺派 鹿児島県姶良市松原町1丁目30番地1明治9年(1876)の念仏解禁から17年後の明治26年に、松原地区500戸の人達によって鹿児島別院松原説教所が建立されました。ところが説教所の門徒の間に支持政党をめぐって不協和音が芽生え、大正6年(1917)約150戸の人達が説教所を離れて行きました。(リンク先より) << 戻る
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専修寺北海道別院-北海道札幌市清田区

・専修寺北海道別院 真宗高田派 北海道札幌市清田区平岡三条3丁目25-10専修寺北海道別院について 明治25年春、福井県鮎川願生寺住職、出見法泉が、縁故の信徒をたどって当区に立錫し、南二条東四丁目に山崎孝太郎より土地を賃借して説教場の創設を企て、開教の事情を本山に建議しました。翌26年本山は服部亮厳を札幌教務所主任として派遣し、ここに専修寺札幌別院の基礎が定まりました。(リンク先より)※明治25年 1892年 << 戻る
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覚王寺-北海道札幌市北区

・覚王寺 浄土真宗本願寺派 北海道札幌市北区麻生町5-2-121892(明治25)年、内平可敬が山命を受けて熊本から来道。屯田兵の入植に伴い、開拓時代の人々と苦労や喜びを分かち合いながら、阿弥陀さまの救いにであうご縁を紡いだのが「覚王寺」の始まりです。(リンク先より) << 戻る
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旭川別院-北海道旭川市

・旭川別院 真宗大谷派 北海道旭川市宮下通2-1463別院の創建は、1890(明治23)年に久教淵【ひさしきょうえん】師によって、寺子屋から始まり約120年の時を経て、現在に至っています。(リンク先より) << 戻る
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紋鼈寺-北海道伊達市

・紋鼈寺 浄土真宗本願寺派 北海道伊達市末永町71-1明治23年に本願寺から布教を差許され、北海道の地に浄土真宗本願寺派の布教所を開きました。これが紋鼈寺の発祥となります。以来、伊達の地でお念仏を受け伝え、平成15年より第四代目の住職・正教へと継職し、現在まで至ります。(リンク先より) << 戻る
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鈴木大拙が徳証寺に寄宿

明治22年(1889年)からおよそ2年間鈴木大拙(禅で知られる仏教学者)が徳証寺に寄宿した。<< 戻る
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富山別院-富山県富山市

・富山別院 真宗大谷派 富山県富山市総曲輪2-8-29明治維新という日本が大変革された時代に、廃仏毀釈の嵐が富山藩を吹き荒れました。明治3年、藩内の仏教諸宗に対して一宗に一カ寺しか存続を認めない「合寺令」が断行されたのです。権力による激烈な仏教弾圧によって、藩内の200以上の真宗寺院が取り壊されました。 念仏の灯火が消されそうになった地に、門徒たちは聞法の場を求めました。明治19年、富山城の外堀を埋め立てて説教所の敷地にしようと「砂持奉仕」が実施されました。延べ7000人以上の人々が神通川から土砂を運び、埋め立てて、現在の総曲輪に寺地を築きました。これが富山別院の始まりです。(リンク先より)※...
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善徳寺-広島県広島市南区

・善徳寺 浄土真宗本願寺派 広島県広島市南区宇品神田4-11-8明治19年に宇品築港でやって来た上蒲刈島大浦出身の浄土真宗門徒たちが、宇品海岸3丁目の旧運輸部跡に真宗宇品説教所を開設し、主管に東広島市河内町宇山教念寺副住職の友國順信師を迎えた。淳信師のご往生後に寺基は転々としたが、昭和12年に後継者の友國善量が寺を宇品神田5丁目に移して再建し、昭和22年4月に本願寺より「善徳寺」の寺号の公認をうけた。(リンク先より)※明治19年 1886年 << 戻る
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法城寺-鹿児島県薩摩郡

・法城寺 浄土真宗本願寺派 鹿児島県薩摩郡さつま町鶴田536明治18年頃、開基住職、副 慈雲によって鶴田真宗本願寺派説教所として設立された。同22年に大火にあい、建物一切を焼失した。その後、本堂を門徒が建立し、庫裏の一部は民家を持って来たと言われる。(リンク先より)※明治18年 1885年 << 戻る
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甘露寺-宮城御県栗原市

・甘露寺 浄土真宗本願寺派 宮城県栗原市若柳字川北塚原427-6明治十五年頃、旧 栗原郡北部の門信徒は、称念寺歴代の住職及び幾多の人々教化伝道によってご縁をむすばれ、旧 若柳町新町平塚清兵衛宅に「道場」が開設されていた。明治三十五年に本願寺布教使井上安祥師を中心に門信徒と共に同町元町九番地の土地を買い求めて本願寺説教所を設立し、柴田宣照、龍原孝順、楯玄一の各師により御法義相続が勤められた。柴田宣照師は当地に寺院建立を願い、北海道に開設した寺院を長子宣妙に譲り、来町して各方面に働きかけるも、宗教政策により許可されず苦慮していた。そこで弟の称念寺住職柴田宣海師と図り、同寺内「甘露寺」移転を画策した...
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正行寺-北海道厚岸郡

・正行寺 真宗大谷派 北海道厚岸郡厚岸町大字梅香町1厚岸は古くから栄えた要港であり、地元住民の心の拠り所として明治十二年説教場設立を開拓使厚岸分署に出願、同年許可を得た。正行寺の創立である。直ちに新潟県頚城郡斐太村(現新井市藤塚)出身で当時、札幌別院在勤中の朝日恵明を根室方面開教出張を命じた。恵明は明治十二年十二月二十日に着任し、湾月町に一民家を借り厚岸説教場を開設したのが正行寺の始まりである。(リンク先より)※明治十二年  << 戻る
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攝護寺-宮崎県都城市

・攝護寺 浄土真宗本願寺派 宮崎県都城市牟田町2-161876年(明治 9年)都城説教所の設立願書提出1878年(明治11年)都城説教所の建築届提出1882年(明治15年)小鷺巣に説教所が設立/寺号公称を出願1883年(明治16年)浄土真宗本願寺派・天竜山攝護寺の寺号公称認可/佐々木雲嶺(のち鴻基)の開基住職就任1884年(明治17年)現在地に移転完了(リンク先より) << 戻る
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真宗各派、大教院を離脱

1875(明治八)年2月、真宗各派、大教院を離脱。<< 戻る
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大教院開院

1873(明治六)年1月、大教院開院。明治維新当時、新政府は天皇を中心とした神道思想(大教(だいきょう))によって国をまとめあげようと考えました。これを人々に広めるために教導職(きょうどうしょく)が設けられ、全ての神官・僧侶等が兼任させられました。神仏合同による布教が求められ、以後、教導職でない人は、一切の宗教的布教活動は出来ないことになったのです。そして、教導職をまとめたり、大教を広めるための指導機関として、東京に設けられたのが「大教院(だいきょういん)」です。更に、その下部機関として各府県に設けられたのが「中教院(ちゅうきょういん)」や「小教院(しょうきょういん)」です。<< 戻る
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宗旨人別帳、寺請檀家制度廃止

1871(明治四)年4月、戸籍法改正され宗旨人別帳、寺請檀家制度廃止。<< 戻る
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神仏分離令、廃仏毀釈(しんぶつぶんりれい、はいぶつきしゃく)

1868(明治元)年3月、祭政一致の制を復活。政府は神仏分離令出す。廃仏毀釈によって、寺院仏像などの破却・焼打が各地で起こる。廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)はゆきすぎた仏教廃止運動でした。明治維新の復古思想から神道を国教とする考えがあり、神仏分離令がだされ、神社から仏教的なものがのぞかれました。神官を先頭とする群衆が寺をおそって仏像や仏具を焼いてしまいました。奈良の興福寺の五重塔は、わずか25円(一説には250円)で売りにだされたといいます。<< 戻る
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禁門の変(蛤御門の戦い)による戦火に巻き込まれる

1864(元治元)年7月、禁門の変(蛤御門の戦い)による戦火のため、東本願寺両堂以下諸堂焼失。<< 戻る
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西光寺、全国で唯一の殿号で呼ばれる寺院となる

万延元年(1860)、関白九條兼実から直筆の「石田殿」の額を下賜されてから、それまでは「石田山 西光寺」としていた名称を「石田殿 西光寺」としました。寺院としては全国で唯一の殿号で呼ばれる寺院となりました。<< 戻る
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京都大火により東本願寺両堂消失

1858(安政五)6月、京都大火により東本願寺両堂消失。<< 戻る
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函館別院-北海道函館市

・本願寺函館別院 浄土真宗本願寺派 北海道函館市東川町12-12広如上人は寺院建立の公許を得るために、たびたび交渉せしめ、遂に安政4年(1857)10月24日、公許を得る。この日を本願寺派の北海道開教の日とする。(リンク先より) << 戻る
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西方寺-奈良県大和郡山市

・西方寺 浄土真宗本願寺派 奈良県大和郡山市池之内町512記録によれば、安政元年六月十四日夜、西方寺の本堂は大地震によって倒壊いたしました。しかし、安政四年三月には見事に完成を見て、荘厳なる殿堂が再建されております。(リンク先より)※安政元年 1855年 << 戻る
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重恩寺-群馬県桐生市

・重恩寺 浄土真宗本願寺派 群馬県桐生市東2-8-41【本尊】 阿弥陀如来【開基】 多田立観 【開創】 嘉永元年(1848年)(リンク先より) << 戻る