浄土真宗の出来事

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親鸞聖人、京都に帰る

嘉禎元(1235)年、63歳のころ、妻子を伴って京都に帰り、主に五条西洞院に住みました。京都では晩年まで『教行信証』を添削すると共に、「和讃」など数多くの書物を著し、関東から訪ねてくる門弟たちに本願の心を伝えたり、書簡で他力念仏の質問に答えました。<< 戻る
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聞光寺-新潟県柏崎市

・聞光寺 真宗大谷派 新潟県柏崎市西本町1-10-411232 貞永1 12月7日開基 宗観 磯辺村に一宇を結ぶ12月7日開基 宗観没(リンク先より) << 戻る
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光円寺-神奈川県小田原市

・光円寺 浄土真宗本願寺派 神奈川県小田原市城山4-23-32光円寺の原名を実相寺という。頼賢という僧侶が相模小田原に実相院を開いて第一祖となった。実相院の建立年は不明であるが、寛喜3年(1231)に寺院設立の証を与えられているのはわかっているから、その時から頼賢の入寂の文永10年(1273)12月までであると思える。今から約750年前であるしかし、その後約300年続いた実相院も1500年代には廃寺となった。(リンク先より) << 戻る
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専長寺-富山県滑川市

・専長寺 浄土真宗本願寺派 富山県滑川市寺家町257当山の資料によると、寛喜元年(1229年)(承元3年1209年説あり)承久の乱により流罪に処された後鳥羽上皇の皇子・圓信が、越中国砺波郡山田荘梅原里(南砺市梅原)に真言宗寺院・大法(宝)寺を開基したことに始まる。(リンク先より)<< 戻る
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如来寺-山梨県富士吉田市

・如来寺 浄土真宗本願寺派 山梨県富士吉田市新倉613安貞二年(西暦一二二八年)当時の住職、浄圓は、聖徳太子の御跡をたどって旧鎌倉街道を甲州路に入られ、勝沼萬福寺の聖徳太子旧跡を巡拝中の親鸞聖人に開法帰依し釈浄心と法名をいだき、浄土真宗となりました。(リンク先より) << 戻る
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中原寺-千葉県市川市

・瑞雲山中原寺 浄土真宗本願寺派 千葉県市川市国府台5-26-39古くは天台宗で開基学禅坊が、甲斐国山梨郡牛奥村に一寺を建立したことに始まります。中興と言われた永信は安貞二年に、親鸞聖人が聖徳太子の霊場を慕い等々力村の万福寺に入御の折に、聖人の御教化を受けて直ちに弟子となり浄土真宗に深く帰依しました。(リンク先より)※安貞二年 1228年 << 戻る
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乗誓寺-神奈川県横須賀市

・東教山 乗誓寺 浄土真宗本願寺派 神奈川県横須賀市東浦賀1-20-10乗誓寺の開基である了源(平塚入道了源)は、藤原鎌足を祖として十八代を数える末裔であり、伊豆の曽我十郎祐成を父に、大磯の虎御前を母にもち、出家前の名を河津三郎信之と称したと伝えられる。曽我十郎、虎御前とも、江戸期より今日まで、歌舞伎や謡曲、浄瑠璃、浮世絵などでは『曽我物語』として広く民衆に親しまれ、仇討物語の代表的な演目として有名である。河津三郎信之(出家前の了源)は、父と同じく武士として源実朝に仕え、多くの武功を残した。その恩賞として平塚の地を賜るが、同族の宿縁と積年の仇敵に感じるところがあり、求道の日々を過ごすこととなる...
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光栄寺-岡山県井原市

・光栄寺 浄土真宗本願寺派 岡山県井原市芳井町吉井651当寺は、開基である法名浄源が明光上人(光照寺)に供し備後に下り、1227(安貞元)年に備中豊谷山に庵を結び、豊谷山光栄寺となる。その後、「澤岡山(さおかざん)光栄寺」と改称する。本堂での御法座や書道・華道教室、日曜学校などで門徒や地域の人が集うお寺であった。(リンク先より) << 戻る
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光行寺-広島県福山市

・光行寺 浄土真宗本願寺派 広島県福山市神辺町川北764当山開基勝尊上人は親鸞聖人の直弟子、明光上人の従者(三大老)の一人として安貞元年(1227年)沼隈山南に一寺を建立し東光坊と称す。その後山南に在りし寺を中条(西中条深水)に移し、更に神辺古城に移す。 元和年中、水野勝成福山に城を築くに当たり四方の道俗居を福山に移す。その時寺を城東に移し(現在東町光善寺)、神辺の旧地に一寺を建立して覚圓寺光行寺と号す。ここに第十世祐教の弟、祐尊をして継がしむ(1624年)。その後神辺大火にあい古城に在りし寺を川北領家(現在地)に移し今日に及ぶ。(リンク先より)<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

『教行信証』(きょうぎょうしんしょう)

『教行信証』とは、元仁元(1224)年頃に書かれた親鸞聖人の著作です。正式名称は『顕浄土真実教行証文類』(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)です。全6巻からなる浄土真宗の根本聖典です。法然上人が著した『選択本願念仏集』の解説書とその正しさを証明した文書とされています。・・・・・・・・・・・・・・・・・・▶ 総序▶ 教巻▶ 行巻▶ 信巻▶ 証巻▶ 真仏土巻▶ 化身土巻・・・・・・・・・・・・・・・・・・顕浄土真実教行証文類序 竊かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。 然れば則ち、浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて...
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乗光寺-島根県出雲市

・乗光寺 浄土真宗本願寺派 島根県出雲市大社町杵築東598第四十九世出雲国造孝房卿の子、北島経孝卿が、大社明神の夢告によって明光上人に帰依し、出家して建立されたのに始まります。後鳥羽上皇の建保4年(1216)のことであります。(リンク先より) << 戻る
年表

親鸞聖人関東に赴く

親鸞聖人は三善為教(みよしためのり)の娘・恵信尼と結婚、男女6人の子女をもうけ、在俗のままで念仏の生活を営みました。建保2(1214)年、42歳の時、妻子と共に越後から関東に赴き、常陸の小島や稲田の草庵を中心として、多くの念仏者を育てました。<< 戻る
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佛光寺-京都府京都市下京区

・本山佛光寺 真宗仏光寺派 京都府京都市下京区高倉通仏光寺下る新開町397越後流罪に遭われた親鸞聖人は、ご赦免の翌年建暦二年(1212)に京都に帰られ、山科の地に草庵を結ばれました。この草庵が佛光寺草創と伝えられています。当初、真宗開闢の根本道場を意味して、「興隆正法寺」と号しました。(リンク先より) << 戻る
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興正寺-京都府京都市下京区

・興正寺 真宗興正派 京都府京都市下京区堀川通七条上ル興正寺(こうしょうじ)は、親鸞聖人(1173~1262)を開祖とする真宗興正派の本山です。 興正寺の創建は鎌倉時代にさかのぼります。承元の法難(建永の法難)により越後国(新潟県)へと配流された親鸞聖人が、建暦元年(1211)に勅免をうけた後、翌建暦2年(1212)に京都へと一時帰洛して、山科の地に一宇を草創したことに始まります。興正寺という寺号は、順徳天皇(1197~1242)によって名づけられたと伝えられ、日本に仏教をひろめた聖徳太子の事績にちなみ「正しき法を興し、さかえさす」(正法を興隆する)との願いが込められています。(リンク先より)...
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法圓寺-新潟県西蒲原郡

・法圓寺 真宗仏光寺派 新潟県西蒲原郡弥彦村大字矢作1960越後流罪に遭われた親鸞聖人は、ご免罪の翌年、建暦二年(1212)に京都に帰られ、京都・山科の地に草庵を結ばれました。この草庵を建てられたことが佛光寺の草創であると伝えられています。つまり、佛光寺は親鸞聖人が、ご在世の時に自らが建てられたお寺であるということが出来ます。(リンク先より) << 戻る
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称名寺-長野県長野市

・称名寺 真宗大谷派 長野県長野市若穂綿内8532粟津の戦(この時17歳、義仲31歳)に敗れ、後 各地を流浪。承元四年(1210年) 越後にいた親鸞聖人の弟子となる。 後、稲田へ同行、その後信濃へ帰り、金山の麓 波羅蜜寺に入り、寺号を義仲院水口山称名寺と変え、そこに住す。(リンク先より) << 戻る
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了明寺-新潟県長岡市

・了明寺 浄土真宗本願寺派 新潟県長岡市滝谷町1219了明寺の起源は真言宗であり、長承年間(1132~1140)、沼垂郡沼垂村に威徳院として建設されました。承元4年(1210)、親鸞聖人38歳の時、富山へお立ち寄りになった際、住職権大僧都直法院(俗名岩崎七郎左ヱ門)は、他力易行(お念仏の教え)の法を聞き弟子となり、法名を了明房釋真観と授けられ、紺紙金泥六字名号(南無阿弥陀仏)を書き与えられました。(リンク先より) << 戻る
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西光寺-香川県綾歌郡

・西光寺 真宗大谷派 香川県綾歌郡綾川町陶5702-1讃岐の地に居られた間いつもお供していた弟子然慶の生地、讃岐国鵜足郡鍋谷の里に暫し憩われて、ここに草庵を建立し、 阿弥陀如来尊像を安置せられました。上人此の草庵を諦観山西光寺と号すべし、と仰せられ帰洛のおり尊像と共にこの 草庵を然慶に賜うたのです。これが西光寺の創りで、時は承元二年(一二〇八)年も迫る師走でありました。(リンク先より) << 戻る
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誠照寺-福井県鯖江市

・誠照寺 真宗誠照寺派 福井県鯖江市本町3-2-38上野山誠照寺(うわのさん じょうしょうじ)の起源は、承元元年(1207年)宗祖親鸞聖人越後へ配流のとき、越前上野ヶ原(うわのがはら)の豪族波多野景之の別荘にご滞在になり、弥陀本願の要法を説かれた、いわゆる、初転法輪の聖地に始まるとされています。 景之はその一族と共に聞法して、溢れる法悦に随喜し、念仏の行者となり、空然(くうねん)と称したと伝わります。この地を「車の道場」(略称 車屋)と称しています。(リンク先より)<< 戻る
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福井別院本瑞寺-福井県福井市

・福井別院本瑞寺 真宗大谷派 福井県福井市花月1-2-36越前における親鸞聖人の教えの普及は承元元年(1207)の越後御流罪、北陸路を通過される頃から始まったと考えられ、念仏の道場はそのころより創設されたと推測されています。 蓮如上人(本願寺八代)が吉崎に向かわれた際(1471)の布教を契機に、多くの寺院が蓮如の本願寺に改宗・転派あるいは創建し、末寺となりました。この北ノ庄(現在の福井市)にも教化を受けた人々によって総坊(総道場)が建てられました。それは浜町(現在の中央三丁目。足羽川沿いのうち九十九橋から桜橋)近くで、近隣の九ヶ寺で管理するようになりました。(リンク先より)<< 戻る
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本伝寺-富山県黒部市

・本伝寺 真宗大谷派 富山県黒部市沓掛113建永2年(1207)、親鸞(1173~1262)越後流罪時に荻生村金津にあった(渕上家)祖先の家に立ち寄られて、その教えを受けた祖先は、親鸞から渕上一乗坊という称号を賜って坊舎を建てたことが始まりと伝えられています。(リンク先より) << 戻る
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浄興寺-新潟県上越市

・浄興寺 真宗浄興寺派 新潟県上越市寺町2-6-45浄興寺は浄土真宗の宗祖親鸞聖人によって創設された寺院です。聖人は承元元年(1207年)念仏禁止令により越後の国、国府(上越市)に流罪となられましたが、越後滞在七年の後、妻子と共に常陸国(茨城県)へ移られ、笠間郡稲田郷(笠間市稲田町)に稲田禅坊を開かれました。(リンク先より) << 戻る
仏教を本気で学ぶ

専修念仏の停止

法然聖人の主著である『選択集』と真影(しんねい)を写すことを許され、吉水で入門後に綽空(しゃっくう)と名のられていたのを善信(ぜんしん)と改めました。そのころ法然聖人の開かれた浄土教に対して、既存仏教教団から激しい非難が出され、ついに承元元年(1207年)後鳥羽上皇によって専修念仏が停止(ちょうじ)され、法然聖人の門弟4人の死罪、法然聖人と中心的な門弟7人が流罪に処され、親鸞聖人は越後に流罪となりました。これを機に愚禿親鸞(ぐとくしんらん)と名のられ非僧非俗の立場に立ちました。<< 戻る
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法然聖人と親鸞聖人が出会い弟子入り

親鸞29歳、比叡山では悟りに至る道を見出すことができずに山を下り、京都の六角堂に100日間の参籠(さんろう)をしました。尊敬する聖徳太子に今後の歩むべき道を仰ぐためです。95日目の暁、聖徳太子の本地である救世観音から夢告を得て、東山の吉水で本願念仏の教えを説かれていた法然聖人の草庵を訪ねました。100日間、聖人のもとへ通い続け、建仁元(1201)年3月、ついに「法然聖人にだまされて地獄に堕ちても後悔しない」とまで思い、本願を信じ念仏する身となりした。<< 戻る
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親鸞聖人の得度

養和元(1181)年、9歳の春、伯父の日野範綱(ひののりつな)にともなわれて、京都青蓮院において、後の天台座主・慈円和尚(じえんかしょう)のもとで出家・得度し、範宴(はんねん)と名のりました。慈円和尚は歴史書『愚管抄』を記したことで知られ、また、後に専修念仏の法然聖人の教義を批判する一方で、その弾圧にも否定的で法然聖人や親鸞聖人を庇護しています。出家後、比叡山にのぼってからの20年間、主に横川の首楞厳院で不断念仏を修する堂僧として、ひたすら学問と修行に励みました。<< 戻る
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親鸞聖人誕生

親鸞聖人は、承安3(1173)年4月1日、京都の日野、現在の法界寺・日野誕生院付近(京都市伏見区日野)で誕生しました。父は藤原氏の流れをくむ日野有範(ひのありのり)、母は清和源氏の流れをくむ吉光女(きっこうにょ)と伝えられています。<< 戻る
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錦織寺-滋賀県野洲市

錦織寺の創建は858年(天安2年)、天台宗の慈覚大師円仁により、最澄が比叡山を開く際に霊木で作成した鞍馬寺の毘沙門天像と同木同作の像を、天安堂(毘沙門堂)を建立して祀ったことによる。嘉禎元年(1235年)、浄土真宗の開祖である親鸞が関東からの帰洛の途中、美濃国の正蓮寺で毘沙門天の霊告を受けて当寺に立ち寄り、常陸国滞在中に霞ヶ浦にて感得した一尺八寸の阿弥陀如来座像をこの地に安置したとされる。そして、著述中であった『教行信証』全六巻の内、最後の二巻となる「真仏土巻」と「化身土巻」を作成し、教行信証を完成させ、その記念として真正面向きの肖像画である「満足の御影」を描いたとされる。そして親鸞に帰依した...
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蓮徳寺-愛知県名古屋市中川区

・蓮徳寺 真宗大谷派 愛知県名古屋市中川区荒子町字大門東91天平元年に秦澄和尚によって華厳宗の寺として創建されました。その後、天台宗になり荒子観音の一坊に園頓院(えんどんいん)となりました。寺伝によりますと、戦国時代に奥村伊予守正親が入寺し、浄土真宗になったと言われており、現代に至っています。(リンク先より) << 戻る