1862年

人物

長野主膳(ながのしゅぜん)

江戸時代末期の国学者で、大老・井伊直弼の家臣。通称は初め主馬、のち主膳。諱は義言。桃之舎と号した。伊勢国飯高郡滝村(たきのむら)の住人である長野次郎祐の弟で、先祖は上州長野氏とされる。しかし、これは戸籍だけのことで出自、経歴とも25歳になるまでの一切はわかっていない。歴史に登場するのは天保10年(1839年)、滝野村の滝野次郎左衛門宅に寓居したときからである。天保12年(1841年)、次郎左衛門の妹で6歳年上の瀧女(たきめ、多紀とも)と結婚し、夫婦は京都、伊勢、美濃、尾張、三河を遊歴した。同年12月に近江国坂田郡の市場村にしばらくいたが、翌年には伊吹山麓にある志賀谷村の阿原忠之進宅に寓居する。...
人物

有馬新七(ありましんしち)

幕末の薩摩藩士、学者。諱は正義。位階勲等は贈従四位。真影流(直心影流)と崎門学派を学び文武両道の俊傑とうたわれた。憂国の詩文は孝明天皇の乙夜の覧に供されたとされる。生誕 文政8年11月4日(1825年12月13日)命日 文久2年4月23日(1862年5月21日)<< 戻る
人物

吉田東洋(よしだとうよう)

江戸時代後期の土佐藩士・参政。諱は正秋。東洋は号。後藤象二郎は義理の甥にあたる。文久2年4月8日(1862年5月6日)、帰邸途次の帯屋町にて武市半平太の指令を受けた土佐勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助によって暗殺された。享年47歳。生誕 文化13年(1816年)命日 文久2年4月8日(1862年5月6日)<< 戻る
年表

公武合体運動

1862年、孝明天皇の妹・和宮が将軍家持と結婚し、公武合体運動がすすめられる。公武合体の動きに対して、薩摩藩と長州藩では尊王攘夷論がますます強まった。<< 戻る
年表

生麦事件

1862年、横浜近くの生麦村で、薩摩藩士がイギリス人を殺傷。<< 戻る