1594年

人物

石川五右衛門(いしかわごえもん)

安土桃山時代の盗賊の首長。文禄3年に捕えられ、京都三条河原で煎り殺された。見せしめとして、彼の親族も大人から生後間もない幼児に至るまで全員が極刑に処されている。釜風呂で有名な五右衛門風呂もこれに由来する。従来その実在が疑問視されてきたが、イエズス会の宣教師の日記の中に、その人物の実在を思わせる記述が見つかっている。都市部を中心に荒らしまわり、時の為政者である豊臣秀吉の手勢に捕えられ、京都三条河原で一子と共に処刑された。墓は京都の大雲院にある。これは五右衛門が処刑の前に市中を引き回され、大雲院(当時は寺町通四条下ルにあった)の前に至った際、そこで住職に引導を渡された縁による。江戸時代に創作材料と...
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乗蓮寺-千葉県袖ヶ浦市

・乗蓮寺 浄土宗 千葉県袖ヶ浦市代宿1089文禄3年(1594)8月、時の城主・笠原伊予守氏光が亡父追善の為に開基し、本蓮社存譽源流上人を開山として創建され、浄土宗の寺院として約600年、法灯を継承しています。(リンク先より) << 戻る
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西蓮寺-千葉県松戸市

・光明山 西蓮寺 真宗大谷派 千葉県松戸市松戸1900-1当寺は、文禄三年(一五九四)三月、将軍家関東御入国の際、下総矢喰村(現在の矢切)の杉浦・近藤家等が釋順誓師を三河国刈谷郡(現在の愛知県刈谷市)より招聘して、下総矢喰村に一宇を建立し、光明山西蓮寺と号したと記録されております。(リンク先より) << 戻る
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覚證寺-東京都調布市

・覚證寺 浄土真宗本願寺派 東京都調布市富士見町1-35-5永禄4年(1561)に信濃国に生まれた細川辨之輔光惠が、仏教に帰依して得度、釋宗龍の法名をいただき京都加茂川のほとりに草庵を結び、帰国して一寺を建立。その後、文禄3年(1594)の春に江戸に移転した。この時をもって創建の年と伝えられる。(リンク先より)水木しげる墓所。 << 戻る
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西向寺-大阪府羽曳野市

・西照山 西向寺 浄土真宗本願寺派 大阪府羽曳野市東阪田245お寺の開基は文禄3年(1594年)と伝えられ、寛文7年(1668年)に西本願寺の直末となり浄土真宗本願寺派の寺院として現在に至り、非常に長い歴史を持つお寺でございます。(リンク先より) << 戻る
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長光寺-東京都新宿区

・玉寶山 長光寺 曹洞宗 東京都新宿区百人町1-5-2当山は文禄3年(1594年)建立の新宿の禅寺です。曹洞宗認可参禅道場として毎月坐禅会を行っております。 喧騒の海のなかにあっても、静かな時間が流れるお寺でありたいと願っております。(リンク先より) << 戻る
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西教寺-大阪府和泉市

・阿耨山 西教寺 浄土真宗本願寺派 大阪府和泉市幸2丁目8-221594(文禄三年) 太閤検地帳に賦課免除記載 京都・三哲・福専寺門徒惣道場1665(寛文五年) 本願寺木佛許可1670(寛文十年) 本願寺木佛拝受 西教寺と公称1673(延宝元年) 本堂建立(リンク先より) << 戻る
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瑞應寺-静岡県浜松市浜北区

・瑞應寺 臨済宗方広寺派 静岡県浜松市浜北区新原2339-1今から四百十年前、元繩三年十二月末、三方原合戦の際、武田方の武将、新原弥左右衛門尉村一は、当地に以前よりあった岩水寺系の澗泉寺を本陣として、此の地に止まり浜松城へ対陣したが、戦い不利と悟り、徳川家康と和睦し、家康公より此の地を賜わり、自らの姓をとって新原村とした。 村作りの終った文禄二年(一五九四)、麁玉郡奉行新原弥左右衛門尉村一は、甲州より開山巌岫長老を招じて、澗泉寺北西(現地)に十一面観世音菩薩を本尊として寺を建立す。澗泉寺を廃して、臨済宗無文派に改宗し、澗泉山瑞応寺と云う。(リンク先より)<< 戻る
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養泉寺-新潟県長岡市

・養泉寺 真宗大谷派 新潟県長岡市寺泊荒町3883養泉寺は文禄3(1594)年、信濃国(長野県)水内郡長沼村の歓喜踊躍山浄興寺の僧浄明が開いたお寺です。宗派は真宗大谷派。山号は光澤山。「つやさん」と読みます。(リンク先より) << 戻る
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光琳寺-富山県小矢部市

・光琳寺 真宗大谷派 富山県小矢部市下中368越後西蒲原郡味方村吉江(現 新潟県新潟市南区吉江)に生まれた百姓 庄左衛門は、長尾家7代目当主 長尾為景に仕え、吉江小左衛門の名をいただき、永正の乱(1521)にて、越中に赴いた。(隣家 津川佐次衛門も共に来る)その後、この地(現 小矢部市下中)に半農半僧として留まり、この村の開墾に 百姓として力を尽くし、時には 浄土真宗の僧侶(法名 善教)として法務に励んでいった。それから約70年後、文禄3年(1594) 3代目 善慶の時、「光琳寺」の寺号を名乗る。(リンク先より) << 戻る
年表

太閤検地

1594年、秀吉が全国に渡り検地を行う(太閤検地)。村ごとに田畑のよしあしや面積・収穫高、耕作をして年貢を納める農民を調べ、それを検地帳に記入。検地と刀狩りによって、農村に住む農民と城下町に住む武士の身分の区別がはっきりした。<< 戻る