人物 北条氏直(ほうじょううじなお) 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。相模国の戦国大名で小田原城主。後北条氏の第5代当主である。父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院。父と共に後北条氏の最大版図を築き上げたが、外交の失敗で豊臣秀吉による小田原征伐を招き、後北条氏の関東支配は終焉を迎えた。生誕 永禄5年(1562年)命日 天正19年11月4日(1591年12月19日)松巌院太円宗徹<< 戻る 1591.11.04 人物
年表 本願寺、京都(堀川六条)に移る 1591(天正一九)年8月、豊臣秀吉の京都市街経営計画にもとづいて本願寺は再び京都に帰ることとなり、顕如上人は堀川の現在地を選び、ここに寺基を移すことに決められた。阿弥陀堂・御影堂の両堂は翌年完成した。<< 戻る 1591.08.01 年表
人物 津田宗及(つだそうぎゅう) 安土桃山時代の堺の商人、茶人。天王寺屋宗及とも。名は助五郎、号は天信、幽更斎。千利休・今井宗久と共に茶湯の天下三宗匠と称せられた。生誕 命日 天正19年4月20日(1591年6月11日)<< 戻る 1591.04.20 人物
便り 三光寺-山口県宇部市 ・三光寺 浄土真宗本願寺派 山口県宇部市大字東岐波456-1町・戦国時代に西国随一の大名として全盛を迎えた大内氏の菩提寺であり、宗派は天台宗、寺号は「菩提寺」でした。『日野山南麓に、旧寺敷、古墳、鎮守あり』との伝承があることから、寺地は、現在の「門前」と言われる地区にあったと伝わっています。「門前」は、寺の門前にあった故の呼称でしょう。大内氏滅亡の後、当世の住職であった道圓の代に至って一時廃寺となりましたが、その後天正17(1589)年、諸国を遊歴していた道圓は、当時の第11世本願寺門主、顕如上人の弟子となり、法名も了西と改め帰国、天正19(1591)年3月12日、現在の岐波の地に寺地を移して... 1591.03.12 便り年表
人物 千利休(せんのりきゅう) 千利休は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。わび茶の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久、津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えた。また、末吉孫左衛門の親族である平野勘平衛利方と親しく交流があった。子孫は茶道の三千家として続いている。生誕 大永2年(1522年)命日 天正19年2月28日(1591年4月21日)利休宗易居士<< 戻る 1591.02.28 人物
便り 正泉寺-神奈川県相模原市緑区 ・龍減山「正泉寺」 曹洞宗 神奈川県相模原市相原6-6-2寺伝によると、1591(天正19)年、この地を治めていた吉川下総守が、先祖の供養のため屋敷内にお堂を建立し、「虚空蔵菩薩」を本尊として安置したのが始まりといわれ、当時は「澗淋山昌泉寺」と称していました。これより前については記録がないため、この年を建立年としています。ご本尊さまが「虚空蔵菩薩」であることから、曹洞宗の前は天台宗であったと推測されています。(リンク先より) << 戻る 1591.01.01 便り年表
便り 金剛院-埼玉県さいたま市北区 金剛院は天正十九年(1591年)徳川家康公より河越内に寺領四石を賜り、慶安二年(1649年)八月ニ十四日には、徳川家光公より下加村内に十石四斗の朱印地を拝領し、下加村(日進一丁目)西谷村(日進三丁目)の菩提寺となりました。今でも金剛院には十通の御朱印状が残されています。(リンク先より)・金剛院<< 戻る 1591.01.01 便り年表
便り 薬研堀不動院-東京都中央区 ・薬研堀不動院 真言宗智山派 東京都中央区東日本橋2-6-8天正13年(1585)、豊臣秀吉勢の兵火に遭った際、根来寺の大印僧都(だいいんそうず)はそのご尊像を守護して葛篭(つづら)に納め、それを背負ってはるばる東国に下りました。そして、隅田川のほとりに有縁の霊地をさだめ、天正19年(1591)、そこに堂宇を建立しました。これが現在の薬研堀不動院のはじまりです。(リンク先より) << 戻る 1591.01.01 便り年表
便り 宗岳寺-熊本県熊本市中央区 ・宗岳寺 曹洞宗 熊本県熊本市中央区上林町3-45創建由緒は未詳の部分が多いが、はじめは天台宗の寺で「妙心寺」と号したと いわれている。天正19(1591)年、肥前長崎より玄雪栄頓大和尚を請して中興開山とした。 その際に最も功績のあったのが加藤清正公の一族、田寺久太夫であり、「開基」 とされている。久太夫の法号「泰雲宗岳大禅定門」から「泰雲山宗岳寺」と称する ようになった。清正公の築城以来、当寺が城の北東の方角、表鬼門に当たること から、城の鎮護寺とされてきた。(リンク先より) << 戻る 1591.01.01 便り年表
便り 法界寺-京都府京都市中京区 ・法界寺 浄土宗西山深草派 京都府京都市中京区裏寺町通蛸薬師上る裏寺町589当寺の創立年度は不詳となっておりますが、開基の道阿和尚が天正19年(1591)寂と記録にあります ので、おおよそ安土桃山時代中頃と推測されます。(リンク先より) << 戻る 1591.01.01 便り年表
便り 勝徳寺-新潟県妙高市 ・勝徳寺 浄土真宗本願寺派 新潟県妙高市大字吉木901遠州浜松 井上越後守義勝の一族 伊砂民部大輔 源勝行は、源実朝が鎌倉鶴岡八幡にて殺害された時、下総国香取郡霞ヶ浦に逃れ、承久元年(1219)雨月上院の五日、常州(常陸の国)稲田の郷にて善信御坊(親鸞聖人)の弟子となり、行応と名を改める。 その後、6世善念が応仁元年(1467)信州荒瀬原に居住し、伊砂の姓を捨て、土地の名称が平出の郷であることから姓を平出と改める。延徳3年(1491)本願寺8世蓮如上人より「本鳥山」の山号と「勝徳寺」の寺号、並びに直筆の六字名号本尊を賜り、一寺を建立する。(リンク先より)<< 戻る 1591.01.01 便り年表