1206年

仏教を本気で学ぶ

建永の法難

建永元(1206)年12月、門下の住蓮と安楽房遵西が、六時礼讃の哀調に感銘した院の女房と密通したという(捏造)事件により、法然上人はその責任を免れることが出来ませんでした。兼実は免罪運動を行いましたが、功を奏せず、後に住蓮・安楽処刑。<< 戻る
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法然上人、九条兼実の別邸小松殿に移る

建永元(1206)年7月 九条兼実の別邸小松殿に移って庇護される。<< 戻る
人物

重源(ちょうげん)

平安時代末期から鎌倉時代の日本の僧。房号は俊乗房(しゅんじょうぼう、俊乗坊とも記す)。 東大寺大勧進職として、源平の争乱で焼失した東大寺の復興を果たした。長承2年(1133年)、真言宗の醍醐寺に入り、出家する。のち、浄土宗の開祖・法然に浄土教を学ぶ。大峯、熊野、御嶽、葛城など各地で険しい山谷を歩き修行をする。重源は自ら「入唐三度聖人」と称したように中国(南宋)を3度訪れた入宋僧だった。重源の入宋は日宋貿易と共に日本僧の渡海が活発になった時期に当たり、仁安3年(1168年)に栄西と共に帰国した記録がある。宋での重源の目的地は華北の五台山だったが、当地は金の支配下にあったため断念し、宋人の勧進の誘...
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法本房行空と安楽房遵西を召しだす御教書

建永元(1206)年2月14日、法本房行空と安楽房遵西を召しだす御教書が発せられ、法然上人は行空だけを破門されました。ついで衆徒たちは五師三綱を代表にたて、宣旨の内容が寛大なることをするどくつくと共に、念仏禁断の宣旨をくだすべきことを院宣奉行の責任者三条長兼や摂政である九条良経を相手に交渉しました。<< 戻る
便り

高山寺-京都府京都市右京区

・高山寺 単立 京都府京都市右京区梅ヶ畑栂尾町8高山寺は京都市右京区栂尾(とがのお)にある古刹である。創建は奈良時代に遡るともいわれ、その後、神護寺の別院であったのが、建永元年(1206)明恵上人が後鳥羽上皇よりその寺域を賜り、名を高山寺として再興した。(リンク先より) << 戻る
年表

栄西禅師、東大寺勧進職に

建永元(1206)年には、重源の後を受けて栄西禅師が東大寺勧進職に就任。<< 戻る