
06月12日


6月12日ご逝去 中陰からの忌日表
初七日忌 6月18日二七日忌 6月25日三七日忌 7月2日四七日忌 7月9日五七日忌・35日法要 7月16日六七日忌 7月23日七七日忌・満中陰・四十九日法要 7月30日百箇日忌 9月19日初七日からの七日毎の法要日は「命日前日」の曜日、百箇日は「命日翌日」の曜日と同じ曜日になるので、上記の日にちの確認と共に間違いのないよう曜日も確認してください。実際に行う法要は都合の良い曜日に繰り上げる、時間帯を調整することが多いようです。>> 年回忌法要が何年かを確認する<< 戻る

アンネ・フランク
アンネ・フランクは、『アンネの日記』の著者として知られるユダヤ系ドイツ人の少女である。反ユダヤ主義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の政権掌握後、迫害から逃れるため、一家で故国ドイツを離れてオランダのアムステルダムへ亡命した。隠れ家には、アンネがオランダ語でつけていた日記が残されていた。隠れ家住人の生活を支援していたミープ・ヒースがこれを発見し、戦後まで保存した。8人の隠れ家住人の中でただ一人戦後まで生き延びたオットー・フランクはミープからこの日記を手渡された。オットーは娘・アンネの戦争と差別のない世界になってほしいという思いを全世界に伝えるため、日記の出版を決意した。生誕 1929...

清水次郎長(しみずのじろちょう)
幕末・明治の侠客、博徒。本名、山本 長五郎。米問屋山本次郎八の養子。養家没落に伴い、博徒となり,やくざ仲間で名をあげて清水に縄張りをもち、次郎長伯山と異名をとった三代目神田伯山の講談から広まり、広沢虎造の浪曲、その映画化で「海道一の親分」として取り上げられ人気を博する。 生誕 文政3年1月1日(1820年2月14日)命日 明治26年(1893年)6月12日碩量軒雄山義海居士<< 戻る

小早川隆景(こばやかわたかかげ)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。竹原小早川家第14代当主。後に沼田小早川家も継ぐ。 毛利元就の三男で、兄弟に同母兄の毛利隆元・吉川元春などがいる。竹原小早川家を継承し、後に沼田小早川家も継承して両家を統合。吉川元春と共に毛利両川として戦国大名毛利氏の発展に尽くした。毛利水軍の指揮官としても活躍している。豊臣政権下では豊臣秀吉の信任を受け、文禄4年(1595年)に発令された「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条において秀吉に五大老の一人に任じられた。実子はなく、木下家定の五男で豊臣秀吉の養子となっていた羽柴秀俊(小早川秀秋)を養子として迎え、家督を譲っている。特に豊臣秀吉の信頼は厚く、...

蘇我入鹿(そがのいるか)
飛鳥時代の豪族。蘇我蝦夷の子。大臣として大和朝廷の有力者であったが、乙巳の変において討たれ、その後蘇我氏が凋落するきっかけとなる。青少年期は僧・旻に学問堂で学び、「吾が堂に入る者に宗我大郎(蘇我入鹿のこと)に如くはなし」と言われる程の秀才だったと言われる。蘇我入鹿は大和朝廷の実質の最高権力者としての地位を固めたが、皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で従兄弟に当たる蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げていた際、肩を震わせていた事に不審がっていた所を古人大兄皇子の異母弟で、皇位継承のライバルだった中大兄皇子(後の天智天皇)と佐伯子麻呂に斬り付けら...