高野山金剛峯寺-和歌山県伊都郡

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金剛峯寺及び関係各所拝観等再開について(高野山金剛峯寺)

かねてより新型コロナウイルス感染症の拡大防止の為、拝観等を停止していましたが、和歌山県内の緊急事態宣言が解除されたことを受け、参拝時の感染症の予防と拡散防止対策を行い5/16(土)より順次再開いたします。対象となる施設は以下の通りです。5月16日(土)より再開一、金剛峯寺一、大師教会(授戒及び写経を除く)一、霊宝館一、奥之院 納経所5月21日(木)より再開一、壇上伽藍(金堂・大塔)拝観停止継続一、徳川家霊台一、女人堂※授戒及び写経を含め、再開の日程は追ってご連絡いたします。なお、徳川家霊台及び女人堂の御朱印につきましては引き続き金剛峯寺で対応いたします。(リンク先より)・金剛峯寺及び関係各所拝...
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高野山金剛峯寺-和歌山県伊都郡

・高野山金剛峯寺 高野山真言宗 和歌山県伊都郡高野町大字高野山132総本山金剛峯寺という場合、金剛峯寺だけではなく高野山全体を指します。普通、お寺といえば一つの建造物を思い浮かべ、その敷地内を境内といいますが、高野山は「一山境内地」と称し、高野山の至る所がお寺の境内地であり、高野山全体がお寺なのです。 「では、本堂はどこ?」という疑問がわいてくるでしょう。高野山の本堂は、大伽藍にそびえる「金堂」が一山の総本堂になります。高野山の重要行事のほとんどは、この金堂にて執り行われます。山内に点在するお寺は、塔頭寺院(たっちゅうじいん)といいます。お大師さまの徳を慕い、高野山全体を大寺(だいじ 総本山金...
市区町村の宗派別寺院一覧

和歌山県伊都郡の真言宗寺院

寺院情報を宗派別に掲載。住所等を参考にしてご利用ください。👍2 慈尊院 高野山真言宗 和歌山県伊都郡九度山町慈尊院832👍2 総持院 高野山真言宗 和歌山県伊都郡高野町大字高野山143👍2 高野山金剛峯寺 高野山真言宗 和歌山県伊都郡高野町大字高野山132👍2 天徳院 高野山真言宗 和歌山県伊都郡高野町大字高野山370👍2 一乗院 高野山真言宗 和歌山県伊都郡高野町大字高野山606👍2 熊谷寺 高野山真言宗 和歌山県伊都郡高野町大字高野山501👍2 大円院 高野山真言宗 和歌山県伊都郡高野町大字高野山594👍2 童楽寺 真言宗 和歌山県伊都郡かつらぎ町新城533-1👍2 福智院 高野山真言宗 ...
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Raindrops 〜美しきこの世界

高野山での研修2日目。大阪人権協議会の副会長さんに誘って頂いて、朝5時15分に起床して奥之院の朝の勤行に参加しました。(リンク先より)・Raindrops 〜美しきこの世界
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高野山真言宗設立

昭和二十一年(1946年)、高野山真言宗設立し金剛峯寺を総本山とする。 << 戻る
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大塔落慶

昭和十二年(1937年)、根本大塔落慶。 << 戻る
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金堂落慶

昭和七年(1932年)、金堂落慶。 << 戻る
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ケーブルカーが開通

昭和五年(1930年)、ケーブルカーが開通。 << 戻る
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電車が極楽橋まで開通

昭和四年(1929年)、電車が極楽橋まで開通。 << 戻る
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金堂全焼する

昭和元年(1926年)、金堂全焼する。 << 戻る
仏教を本気で学ぶ

女人の入住が公式に認められる

明治三十八年(1905年)、女人の入住が公式に認められる。 << 戻る
仏教を本気で学ぶ

高野山大師教会発足

明治三十三年(1900年)、高野山大師教会発足。 << 戻る
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子院六百数十ヶ寺を統廃合

明治二十四年(1891年)、高野山内の子院六百数十ヶ寺を統廃合し、百三十ヶ寺に。 << 戻る
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高野山の女人禁制とかれる

明治五年(1872年)、高野山の女人禁制とかれる。 << 戻る
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高野山の寺領を国へ返す

明治四年(1871年)、高野山の寺領や寺有林も政府に返上し、経済的地盤も失いました。 << 戻る
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青厳寺・興山寺を合併し金剛峯寺と改める

明治二年(1869年)、青巌寺と興山寺が合併して真言宗の一寺院となり、高野山全体の寺号だった「金剛峯寺」を称します。<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

学侶、行人、聖の三派が廃止

明治元年(1868年)、学侶、行人、聖の三派が廃止される。<< 戻る
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御影堂が紀州徳川家を檀主として再建される

弘化四年(1847年)、現在の御影堂が紀州徳川家を檀主として再建される。<< 戻る
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伽藍全焼する

天保十四年(1843年)、落雷による大火で伽藍全焼する。<< 戻る
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現在の大門が出来る

宝永二年(1705年)、現在の大門が出来る。<< 戻る
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伽藍諸堂、焼失する

寛永七年(1630年)、伽藍諸堂、焼失する。<< 戻る
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青厳寺建立

天正二十年(1593年)、豊臣秀吉、剃髪寺(のちに青巌寺と改名)建立。 文禄4年(1595年)の秀次事件では、青巌寺で豊臣秀次の切腹が行われています。 << 戻る
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興山寺建立

天正十八年(1590年)、豊臣秀吉、興山寺建立。 << 戻る
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豊臣秀吉の高野山を焼き討ちは中止される

天正十三年(1585年)、織田信長の基盤を継いだ豊臣秀吉も高野山を焼き討ちしようとするが、高野山の客僧だった応其上人の働きで中止される。高野山の寺領が解放され、秀吉はその後、金堂や大塔を再建するなど、高野山の復興を援助することになる。 << 戻る
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織田信長、高野攻め

天正九年(1581年)、織田信長、高野攻め。高野山は比叡山と同じように、独自の武力を蓄えていた。寺領は17万石以上あり、3万6千の兵を養っていたと記されている。高野山が織田信長を裏切った荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せる。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。一方、『高野春秋』では前年8月に高野山宗徒と荒木村重の残党が組織する「高野大衆一揆」の関係の有無を問いかける書状を松井友閑を通じて送り付け、続いて9月21日に一揆に加わった高野聖らを捕縛し入牢あるいは殺害した。このため天正9年(1581年)1月、根来寺と協...
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伽藍諸堂、焼失する

大永元年(1521年)、伽藍諸堂、焼失する。<< 戻る
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竪精論議始まる(けんせいろんぎ)

応永十四年(1407年)5月3日、二者対立して論議の勝敗をあらそう竪精論議始まる。竪精(りっせい)とは、高野山の僧侶が履修する「学道」と呼ばれる真言教学について研鑽する一連の儀礼の一つで論議の方式を言います。僧侶の研究精神を高める、また天皇や先覚者への供養などのために、奈良興福寺で行われていた論議を導入し初めて行われました。以来、例年、旧暦の5月3日に行われています。この竪精の論議は、高野山に住む僧侶の序列、検校法印を最高位として昇進する課程における重要な関門、いわば試験とも言えます。論議では弟子役の竪義(りゅうぎ)と呼ばれる僧侶が師役の精義と呼ばれる僧侶に対し、難題を問うてその解答を求めます...
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町石が建てられる

文永二年~弘安八年(1265年~1285年)、高野山麓慈尊院から山上まで町石が建てられる。<< 戻る
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北条政子、金剛三昧院に多宝塔を寄進

貞応二年(1223年)、北条政子が源頼朝のために、金剛三昧院に多宝塔(現存・国宝)を寄進する。<< 戻る
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不動堂建立

建久九年(1198年)、行勝上人、一心谷に不動堂(現存)を建立。<< 戻る
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平家の落武者や、没落した貴族が高野山に

文治二年(1186年)、この頃から平家の落武者や、没落した貴族が高野山に逃れてくる。また、この頃から高野聖らの唱導によって高野山への納骨を勧め、伽藍再建のための寄進を求めました(勧進)。<< 戻る
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平清盛が大塔再建に尽力する

保元元年(1156年)、平清盛が大塔再建に尽力する。その際に、自らの血を絵の具に混ぜた「両界曼荼羅図(りょうかいまんだらず、別名・血曼荼羅)」を寄進したと伝えられます。<< 戻る