鎌倉時代

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善永寺-東京都大田区

・善永寺 浄土真宗本願寺派 東京都大田区萩中1-11-24創 建 建長年間(1249-1256年)武蔵の国 品川 高輪台に創建された当初は浄土宗鎮西派だった。開 基 慈信房善鸞(親鸞聖人の長男)(リンク先より) << 戻る
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道仙寺-岡山県美作市

・道仙寺 真言宗醍醐派 岡山県美作市後山59岡山県下一の高峰、奈良の大峯山と並ぶ修験道の行場として知られる霊山後山。7世紀頃、修験道の開祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ、役の小角)が後山に入り、修験道の道を開いたとする説が残されています。建長年間(1249~1255年)に僧徹雲法印が延命山道仙寺を建立すると、霊山後山の修験道は次第に発展していき、15世紀になると多くの山伏が修行に訪れるようになりました。(リンク先より) << 戻る
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西方寺-愛知県碧南市

・西方寺 真宗大谷派 愛知県碧南市浜寺町2-19棚尾村に、光照寺(光正寺との文書もある)と称する天台宗の寺があった。僧念雅(宝治2年・1248年没)の代に親鸞に帰依して、真宗に改宗したという。蓮如が三河地方をめぐり、真宗興隆の時代を迎えて、十五代念法は、明応5年(1496)に現在の大浜の地に寺を移し、名を西方寺と改めた。(リンク先より) << 戻る
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普願寺-長野県須坂市

・普願寺 浄土真宗本願寺派 長野県須坂市南原町353普願寺は、1247年(宝治元年)に初代賢阿房信性が秩父大岩の里に一宇を建立したのが始まりです。寺号は、1314年本願寺の覚如上人より奉受したものです。当初は、武州秩父の大岩の郷にあったことから、大岩山『普願寺』と称しております。1351年に須坂の日滝の地に移住し、更にその後1555年、現在の須坂市南原の地に移転して今日に至っております。(リンク先より) << 戻る
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道元禅師 鎌倉下向

宝治元(1247)年、執権北条時頼、波多野義重らの招請により、鎌倉に赴き、半年という短期間ではありましたが武士をはじめとする多くの人々を教化されました。<< 戻る
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家原寺-大阪府堺市西区

・家原寺 高野山真言宗 大阪府堺市西区家原寺町1-8-22「智恵の文殊さん」として知られ、別名「落書き寺」としても有名。行基菩薩が誕生した所で、行基37歳の時(慶雲元年)「もとの生家を掃き清めて仏閣となす」と「行基年譜」に記される。行基建立寺院の第一号であるが、いわゆる行基建立四十九院には含まれず、特別扱いされている。叡尊が寛元三年(1245)再興し、行覚が正和五年(1316)菅原寺(大和)の本記をもとに「行基菩薩行状絵伝」(絹本着色、三幅、重要文化財)を描かせて行基を顕彰し行基信仰を推進した。(リンク先より) << 戻る
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大興善寺-福岡県北九州市小倉南区

・大興善寺 曹洞宗 福岡県北九州市小倉南区蒲生2-8-6大興善寺は北九州市小倉南区蒲生のわしみね山の麓にあり、山号を鷲峰山と称します。「鷲峰山縁起」によると奈良西大寺の興正菩薩睿尊を請開山として寛元3年(1245)に建立された 律宗の寺院でしたが現在は現在は禅宗のひとつである曹洞宗の寺院です。(リンク先より) << 戻る
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日蓮聖人 比叡山~各地に遊学

寛元3(1245)年、比叡山・定光院にて俊範法印に就学しました。寛元4(1246)年、三井寺へ遊学。宝治2(1248)年、薬師寺、仁和寺、高野山・五坊寂静院へ遊学。建長2(1250)年、天王寺、東寺へ遊学し、ひたすら勉学に励まれました。諸経・諸宗の教学を学んでゆく中で、法華経こそが全ての人々を救うことのできる唯一の経典であることを確信し、清澄寺に戻ります。<< 戻る
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養寿院-埼玉県川越市

・青龍山養寿院 曹洞宗 埼玉県川越市元町2-11-2養寿院は、寛元二年(1244年)、河越太郎重頼の曾孫にあたる経重が開基となり、大阿闍梨圓慶法印が開いたお寺です。天文四年(1535年)時の住職隆専上人、曹洞宗太源派下扇叟守慶和尚の道風を慕い寺を付属。江戸時代に御朱印十石を賜るなど、歴代川越城主の信仰も篤く多いに栄え、近年まで曹洞宗専門僧堂(修行道場)として多くの人材を輩出してきた曹洞宗の古刹です。(リンク先より) << 戻る
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浄教寺-奈良県奈良市

・浄教寺 浄土真宗本願寺派 奈良県奈良市上三条町18浄教寺は寛元二年(1244)、行延法師によって開基され、今日に至っております。行延法師(1206‐1280)は、河内国八尾の庄司真野行延(まの ゆきのぶ)といい、智勇兼備の武士であったが、浄土真宗、開祖親鸞聖人の直弟子となり、寛元二年三月出家して、法名を行延(ぎょうえん)と賜う。と浄教寺由緒略記に記されている。(リンク先より) << 戻る
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永平寺-福井県吉田郡

・永平寺 曹洞宗 福井県吉田郡永平寺町志比5-15道元さまが四十三歳の頃、俗弟子であった波多野義重公の招きにより、越前の地に赴きます。翌年、道元さまは大仏寺を開き、二年後に「永平寺」と改称します。永平寺では、如浄禅師の教えに従い、たとえ一人でも、正しいみ仏の教えを伝え行ずる者を育てようと身心を尽くされました。(リンク先より)※創建は寛元2年(1244年)、山号を吉祥山と称し、開山は道元、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏。 << 戻る
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竜本山 松井田院 不動寺 開山

寛元元年(1243年) 慈猛上人によって開山。御本尊 千手観音。<< 戻る
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金光寺-三重県鈴鹿市

・金光寺 曹洞宗 三重県鈴鹿市東庄内町853宝暦二年(1752)に書かれた「勢州鈴鹿郡原之庄階下無量林金光寺興廃旧記」によれば、応治二年(1241)、天台僧円海による開基とされます。貞治元年(1362)には管領斯波氏頼が金光寺で僧侶となり大寺とされました。一四七〇年には、応仁の乱を避け後花園院の皇女も金光寺に入寺したと伝えられます。(リンク先より) << 戻る
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明圓寺-茨城県石岡市

・明圓寺 浄土真宗本願寺派 茨城県石岡市真家1055大澤山おおさわさん 常陽院じょうよういん 明圓寺みょうえんじ は、親鸞聖人しんらんしょうにんから明法みょうぼうという名を授かった弟子・弁円べんねんが、仁治元年(1240年)真家村(現在の茨城県石岡市真家)に隠居の為に建立した浄土真宗のお寺です。明法の「明」とかつての名、弁円の「圓」の字をとって明圓寺と号されました。(リンク先より) << 戻る
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一遍上人の出生と入門

一遍上人は延応元年(1239)、伊予(愛媛県松山市)の豪族である河野家の次男として誕生されました。幼名は松寿丸といい、父は河野七郎通広、祖父は河野四郎通信です。10歳の時、母を亡くし、父の命を受けて仏門に入られます。13歳になると善入という僧に連れられ、九州で聖達上人、華台上人(共に浄土宗西山派)のもとで修行されました。大宰府の聖達上人のもとで12年間浄土門を学んだ一遍上人でしたが、父の訃報を受けて一度故郷に帰られます。この時の生活は、半僧半俗、つまり僧侶として勤行などはするけれども、日常生活は家族と共に過ごすというような暮らしをされていたようです。<< 戻る
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阿弥陀寺-愛知県稲沢市

・阿弥陀寺 真宗大谷派 愛知県稲沢市下津町東下町66阿弥陀寺は1239(延応元)年に真言宗の寺院として創建され、戦国時代初期の文明年間(1469~87年)に蓮如上人が訪れたのを契機として浄土真宗に改宗しました。(リンク先より) << 戻る
人物

弁長(べんちょう)

平安時代後期から鎌倉時代にかけての浄土宗の僧。鎮西義の祖。父は古川則茂。字は弁阿。房号は聖光房。著書『浄土宗要集』『末代念仏授手印』『徹選択集』など。生誕 応保2年5月6日(1162年6月20日)命日 嘉禎4年2月29日(1238年3月16日)<< 戻る
年表

日蓮聖人 鎌倉遊学

暦仁元(1238)年、鎌倉遊学へ出発し、念仏及び禅を修学しました。仁治3(1242)年、鎌倉遊学より清澄山へ帰還し、『戒体即身成仏』を述作します。<< 戻る
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興聖寺-滋賀県高島市

・興聖寺 曹洞宗 滋賀県高島市朽木岩瀬374四条天皇の嘉禎3年(西暦1237年)近江源氏(宇多源氏)近江守護佐々木信綱が京都で宋から帰洛された曹洞宗開祖 道元禅師に謁し、承久の乱で戦死した一族の供養をお願いし、朽木の里に拝請、このとき禅師は付近の山野の風景が伏見深草の興聖寺に似て、絶景だと喜ばれ一寺の創建を奨められ、山号を高巌山興聖寺とするよう勧奨されました。それから三年仁治元年、七堂伽藍が完成し、遷仏式には永平二世孤雲懐奘禅師の拝請を賜り、盛大に挙行され、それ以来当山が曹洞宗第三の古道場といわれました。(リンク先より) << 戻る
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日蓮聖人の得度

嘉禎3(1237)年、日蓮聖人は道善房のもとで正式に出家得度し、是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)とあらためました。<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

『典座教訓』(てんぞきょうくん)

典座教訓とは、修行道場で食事を担当する役職である「典座」の心がまえを示した書です。1237年に道元禅師により、自身の中国での修行の経験を踏まえて著されました。それまで日本では注目されることなく軽視されていた典座の職を高く評価し、重要視するべきだと説いています。修行としての食事とはいかなるものであるかを示され、典座の大切さや意義を中国で出会われた老典座との逸話などをまじえ、喜びの心(喜心)・相手を思いやる心(老心)・動じない心(大心)の三心を、調理する者の心とし、素材そのものを生かす料理でなければならないと説かれています。典座教訓に著されている中国・宋での体験は、道元禅師の仏法・修行のあり方に影...
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東福寺-京都府京都市東山区

・東福寺 臨済宗東福寺派 京都府京都市東山区本町15-778摂政九條道家が,奈良における最大の寺院である東大寺に比べ,また奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの念願で,「東」と「福」の字を取り,京都最大の大伽藍を造営したのが慧日(えにち)山東福寺です。嘉禎2年 (1236年)より建長7年(1255年)まで実に19年を費やして完成しました。(リンク先より) << 戻る
仏教を本気で学ぶ

東福寺派(本山東福寺(京都))の開派

嘉禎2(1236)年、南宋に留学して帰国した円爾(弁円)禅師により始まる。臨済宗(楊岐派の禅)を日本にはじめて伝える。<< 戻る
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親鸞聖人、京都に帰る

嘉禎元(1235)年、63歳のころ、妻子を伴って京都に帰り、主に五条西洞院に住みました。京都では晩年まで『教行信証』を添削すると共に、「和讃」など数多くの書物を著し、関東から訪ねてくる門弟たちに本願の心を伝えたり、書簡で他力念仏の質問に答えました。<< 戻る
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「平家物語」「小倉百人一首」「源平盛衰記」などが著される

1235年、このころ「平家物語」「小倉百人一首」「源平盛衰記」などが著される。<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

『学道用心集』(がくどうようじんしゅう)

学道用心集は、道元禅師が興聖寺を開かれた翌年1234年に示されました。全10章の漢文による書物です。修行僧の心得を述べたもので、「菩提心を起こす可き事」にはじまり、「正法を見聞して必ず修習すべき事」「仏道は必ず行に依りて証入すべき事」「有所得心を用って仏法を修すべからざる事」「参禅学道は正師を求むべき事」「参禅に知るべき事」「仏法を修行して出離を欣求する人は須く参禅すべき事」「禅僧行履の事」「道に向かって修行すべき事」「直下承当の事」におわる。仏道修行に励む者の用心に不可欠な書です。<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

源智、知恩院の諸堂を興す

1234年(文暦1年)、法然上人の弟子源智が上人を開山として知恩院の諸堂を興す。<< 戻る
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泉福寺-福岡県宗像市

・泉福寺 西山浄土宗 福岡県宗像市鐘崎469泉福寺開山の歴史は古く、西山浄土宗総本山光明寺第三世幸阿上人が九州行脚中に上八村で錫杖を止め、天福元年(1233)四月念仏教化の庵を結びました。五年前の安貞二年(1228)二月突如叡山の暴徒から、浄土宗開祖法然上人の眠る墓堂の襲撃破壊を被ったので幸阿上人は遺骸を光明寺で荼毘に付し遺骨は庵室の塗り籠めにして鎮西に赴いたとと伝えられています。(リンク先より) << 戻る
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大覚寺-兵庫県姫路市

・大覚寺 浄土宗西山禅林寺派 兵庫県姫路市綱干区興浜151『鶴立山 大覚寺』は、天福元年(1233)定翁隆禅上人の開基である。隆禅上人はもと天台宗比叡山の僧であったが、念仏一筋に生きる決心をし山を下り諸国を歩くうち、現在の大覚寺より3キロほど北の砂山という地に「釈迦堂」があり、ここに入って残りの生涯を念仏に明け暮れたと伝えられています。この「釈迦堂」は、後に『鶴林山 光接院』と改称して真言宗に属していたのですが、これら開基以来の歴史を正しく伝える史料は残念ながら多くありません。(リンク先より) << 戻る
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護村寺-新潟県佐渡市

・護村寺 単立(真言宗) 新潟県佐渡市新穂北方597番地当山は北方地頭 本間六郎満繁一族の菩提寺であり、順徳上皇佐渡配流の際、池蔵人の発願に依り、比叡山坂本の山王権現を勧請され十二坊の一坊として天福年間に明王院として建立され、副別当職であった。昭和17年4月護村寺と改名しております。(リンク先より)※天福年間 1233年から1234年 << 戻る
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管明寺-新潟県佐渡市

・管明寺 真言宗智山派 新潟県佐渡市上新穂659佐渡に流された順徳上皇の御安泰祈願のため、池蔵人の発願に依り、比叡山坂本の山王権現を勧請され十二坊を建立されました。この十二坊とは乗光坊、弥勒坊、曼荼羅寺、宝蔵寺、儀乗坊、三諦坊、金剛院、宝性院、円通寺・明王院・善意寺・万福寺で、日吉神社別当の新延寺(別当というのは室町時代までの大社に多くみられ、お宮の会計経理を行うお寺)の下の衆徒寺のことです。管明寺は、十二坊の三坊として天福元年に建設され、その後明治15年弥勒坊と乗光坊が合併、さらに昭和11年成就山乗光坊と管明山三諦坊が合併し、成就山管明寺と公称し現在に至っています。(リンク先より)※天福元年...
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興聖寺-京都府宇治市

・仏徳山 興聖寺 曹洞宗 京都府宇治市宇治山田27-11229年(寛喜元年)頃、道元禅師(どうげんぜんじ)が宋から帰国後、深草の安養院に閑居。観音導利興聖宝林禅寺(『典座教訓』)。(藤原氏ゆかり極楽寺の跡地と考えられる) 1233年(天福元年)、道元禅師が深草に興聖寺を開創。観音導利院興聖宝林寺と号する。僧侶の教育・育生を目指す修行道場として全国最初に開かれる。このことから「曹洞宗初開道場」とは興聖寺のことを指す。1645年(正保2年)、淀城主の永井尚政(ながいなおまさ)公が、万安英種禅師(ばんなんえいじゅ)を中興開山に請じ、宇治に興聖寺を再興。山号:仏徳山(ぶっとくざん)開山:道元禅師中興開...