法話(mp3)便り

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朝のあいさつから一日が始まります

人を思いやり温かい言葉をかけることを「愛語」と言います。悲しんでいる人に声をかけてはげますとその人は元気になります。すると不思議にも自分自身も嬉しく幸せになります。でも、言葉をかけなくても他人に幸せを与えることが出来ます。(リンク先より)・朝のあいさつから一日が始まります
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第5話 生のみが我らにあらず 藤原正寿(石川県 浄秀寺)

確かに現代の私たちの社会は、本当は、いろいろなことを知るための大切な縁となるべき事実や苦悩と正面から向き合うことをできるだけ避け、生活の中から見えなくし、排除していく社会だと感じます。(リンク先より)・第5話 生のみが我らにあらず 藤原正寿(石川県 浄秀寺)
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身を正しくして、ただ、ひたすら坐る

12月は、お釈迦様が長い修行の末、菩提樹の下に座り、七日間座り続けてお悟りを開かれたことから、曹洞宗の多くのお寺で、一日中、坐禅をする、摂心(せっしん)という坐禅会が行われています。(リンク先より)・身を正しくして、ただ、ひたすら坐る
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第4話 本当の豊かさとは 藤原正寿(石川県 浄秀寺)

私たちが生きている現代という時代は、ある意味で非常に豊かな時代です。しかし、その豊かさという言葉の意味は、ほとんど経済的に満足するという豊かさということに置き換えても、あながち間違っているとはいえないように感じます。(リンク先より)・第4話 本当の豊かさとは 藤原正寿(石川県 浄秀寺)
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必ず目に見えた幸せをいただくのである

私達は、いつも幸せでありたいと願い、幸せを求めて生きています。 また、自分は幸福ではないと思い、幸福をどこまでも追い求め、他の人と比べていまだに不幸だと思って生きているのも私達の姿であると思います。(リンク先より)・必ず目に見えた幸せをいただくのである
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第3話 真宗と生活 藤原正寿(石川県 浄秀寺)

明治から昭和を生きられ、真宗の教えを聞く道場を開かれ多くの生きた教学者、念仏者を生み出された安田理深という先生が、師として尊敬されてお られた、同じく近現代において真宗の教学の中心を担ってこられ、大谷大学の学長もされた曽我量深という先生の生活態度、生きざまについて、「赤表紙と、新 聞の間に生きられた人である」と評されたことがありました。(リンク先より)・第3話 真宗と生活 藤原正寿(石川県 浄秀寺)
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生命は死んでもなお、輝いているものですね

ある時、父親が病に臥せていることを風の便りに聞くのですが、自分は父の死を聞かされても、きっと絵筆は離さないだろうと予想しておりました。それ程、母と自分を捨てて、自分勝手に生きてきた父親には強い憎しみを抱いていたといいます。(リンク先より)・生命は死んでもなお、輝いているものですね
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第2話 空しく過ぎることのない人生 藤原正寿(石川県 浄秀寺)

親鸞聖人は、このような私たちの生き方、人生を「空過」つまり、空しく過ぎる人生であると、頷かれました。親鸞聖人が、75〜76歳頃にお作りになられた「高僧和讃」に、本願力にあいぬればむなしくすぐるひとぞなき功徳の宝海みちみちて煩悩の濁水へだてなし(リンク先より)・第2話 空しく過ぎることのない人生 藤原正寿(石川県 浄秀寺)
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一人一人が心にゆとりと真心を持つ

先日、お寺の法要でトイレに行きますと、スリッパが脱ぎ散らかされていました。 揃えておりますと、年配の方が急いで用を足したい様子でしたが、スリッパが散らかっているのを見て、「この急いでいる時に」とかなり怒り気味に(リンク先より)・一人一人が心にゆとりと真心を持つ
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第1話 御遠忌テーマから問われていること 藤原正寿(石川県 浄秀寺)

すこし前のことになりますが、1999年7月11日の朝日新聞日曜版「いわせてもらお」というコーナーに、次のような投稿が掲載されていました。静岡県沼津市のペンネーム「10年たったが2人は元気」という方の投稿です。(リンク先より)・第1話 御遠忌テーマから問われていること 藤原正寿(石川県 浄秀寺)
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あたり前のことが大切である

料理人は最高の条件で料理を味わってもらおうと、一所懸命に腕をふるって料理を作ります。それをタバコで舌や喉を変に刺激するとせっかくの料理が台無しになります。食事の時の喫煙は本来してはならないのです。(リンク先より)・あたり前のことが大切である
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第6話 無量寿を生きる 山口知丈(大阪府 昭徳寺 住職)

私たちが賜ったこの命を「無量寿」として頂き直して行こうとするとき、それには親鸞聖人が聞き取られたお念仏の教え、これを聞くこと、すなわち「聞法」、「教えに耳を傾けること」ですが、これが大切であることを第一番に感じます。(リンク先より)・第6話 無量寿を生きる 山口知丈(大阪府 昭徳寺 住職)
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めぐりあいの不思議さに重い責任を感じていただきたい

私は、婚礼の席で挨拶を頼まれますと、「めぐりあいの不思議さに重い責任を感じていただきたい」とお話します。生まれや育った環境や性格も体質も夫々(それぞれ)違う二人がめぐりあい、(リンク先より)・めぐりあいの不思議さに重い責任を感じていただきたい
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第5話 無量寿を生きる 山口知丈(大阪府 昭徳寺 住職)

私たちは自分の姿に徹底的に暗いこと、すなわち根本煩悩である「無明」ですが、これに染め抜かれた存在で、そのため、親子、兄弟、夫婦、友達というかけがえのない関係を時には邪魔なもの、人生の障害物とさえ思い込んで、自らを省みるご縁をいただかないならば、恨みのなかに、愚痴のなかに、大切な一生を終えていく存在であるようです。(リンク先より)・第5話 無量寿を生きる 山口知丈(大阪府 昭徳寺 住職)
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人生の根本を大切に致しましょう

枝が広がっているだけちゃんと根も土の中で広がっている。木は根が命だといういかにも年輪を重ねた職人さんに、根の本(もと)と書く根本の大切さを教えられました。(リンク先より)・人生の根本を大切に致しましょう
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第4話 無量寿を生きる 山口知丈(大阪府 昭徳寺 住職)

これは後に「須らく相対の理を観ずべし」と題された、清沢先生のたくさんのメモのひとつです。私たちが親子関係で躓くときの問題点を実によく教えてくださっています。清沢先生がおっしゃるように親というけれどもそれは子どもを賜って初めて親となるのです。(リンク先より)・第4話 無量寿を生きる 山口知丈(大阪府 昭徳寺 住職)
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感謝の気持ちを表す言葉が「ごちそうさま」

私達人間は人という文字の形が示しているように、多くの存在に支えられながら生きているのではないでしょうか。その一番身近なものが食事というものに表れていると思います。(リンク先より)・感謝の気持ちを表す言葉が「ごちそうさま」
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第3話 無量寿を生きる 山口知丈(大阪府 昭徳寺 住職)

「私たちがこの世を生きるということは、決してたった一人で独立して生きているのではなく、いつも必ず他の人と関係し合い、支えあって生きているものなのです」ということを述べておられるのです。(リンク先より)・第3話 無量寿を生きる 山口知丈(大阪府 昭徳寺 住職)
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人生は行動である

永平寺の道元禅師は、「心と身体の関係」を「心」と「身体」は、分けて考えることのできない一つのものと言われ、行動することが心を育むとお考えになりました。(リンク先より)・人生は行動である
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第2話 無量寿を生きる 山口知丈(大阪府 昭徳寺 住職)

帰命の義もまたかくのごとし。しらざるときのいのちも、阿弥陀の御いのちなりけれども、いとけなきときは知らず、すこしこざかしく自力になりて、「我がいのち」とおもいたらんおり、善知識「もとの阿弥陀のいのちへ帰せよ」とおしうるをききて、帰命無量寿覚しつれば、「我がいのちすなわち無量寿なり」と信ずるなり。(リンク先より)・第2話 無量寿を生きる 山口知丈(大阪府 昭徳寺 住職)
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生き方が真実そのままであれば、食もまた、真実そのままである

世界中には、未だに飢えと戦う人々が溢れています。WFP=国連世界食料計画によると、世界では飢餓やそれに関する病気のため、毎日二万五千人が命を落としています。(リンク先より)・生き方が真実そのままであれば、食もまた、真実そのままである
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第1話 無量寿を生きる 山口知丈(大阪府 昭徳寺 住職)

この「無量寿」という言葉は、私が属している真宗大谷派の門徒さんであるならば、「大無量寿経」あるいは「観無量寿経」によって、また真宗門徒が一番親しんでいる「正信偈」の冒頭の一句「帰命無量寿如来」によって、たいへん親しみのある言葉、教言です。(リンク先より)・第1話 無量寿を生きる 山口知丈(大阪府 昭徳寺 住職)
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天地自然、全てのものが語りかけてくれる

刑務所で俳句の指導をしている師匠が、「あいつはもう大丈夫だ」と興奮気味に帰ってきました。「方丈さんどうしました」と尋ねますと、「若い収容者が詠んだ句に、すばらしいものがあった」(リンク先より)・天地自然、全てのものが語りかけてくれる
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第6話 今、いのちがあなたを生きている ― 親鸞聖人のご生涯を通して―東舘紹見(仙台教区 善林寺)

親鸞聖人は、ご自身の一生を尽くして、あらゆる人々と共に歩むことが出来るとされる仏道が、自分自身において果たして実現するのかということを確かめ続けてゆかれました。(リンク先より)・第6話 今、いのちがあなたを生きている ― 親鸞聖人のご生涯を通して―東舘紹見(仙台教区 善林寺)
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挨拶はお互いのコミュニケーションへの潤滑油

さて、私たちの日常生活の中には沢山仏教から派生した言葉があります。 その一つが「あいさつ」です。あいさつは仏教語でも特に禅語と言われるものです。 (リンク先より)・挨拶はお互いのコミュニケーションへの潤滑油
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第5話 今、いのちがあなたを生きている ― 親鸞聖人のご生涯を通して―東舘紹見(仙台教区 善林寺)

親鸞聖人は、法然上人を通して阿弥陀如来のご本願に出遇って以来のご自身のお心を、「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よき人の仰せをこうむりて信ずるより他に別の仔細なきなり。」とおっしゃっておられます。(リンク先より)・第5話 今、いのちがあなたを生きている ― 親鸞聖人のご生涯を通して―東舘紹見(仙台教区 善林寺)
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人より5分早く起き、坐禅をくみなさい

お寺に部活動の子供達が坐禅を体験しに来ます。座り方の指導をし、坐禅をする。坐禅が終わり、私から「今、どの位坐ったか分かりますか?」と声を掛ける。(リンク先より)・人より5分早く起き、坐禅をくみなさい
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第4話 今、いのちがあなたを生きている ― 親鸞聖人のご生涯を通して―東舘紹見(仙台教区 善林寺)

29歳で、「一人の人間」として、人びと共に、生涯を尽くして悔いることのない生き方を、あらゆる存在と共に歩もうと決意された親鸞聖人は、そうした生き方を、阿弥陀如来、すなわちはかることのできないいのちの働きを、心から敬い信じる、という生き方として人びとと確かめておられた、吉水の法然上人のもとを訪ねられました。(リンク先より)・第4話 今、いのちがあなたを生きている ― 親鸞聖人のご生涯を通して―東舘紹見(仙台教区 善林寺)
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私の日常生活

本日は私の日常生活をお話させていただきます。 午前四時三十分起床、洗面等を済ませ、四時五十分お寺に到着。五時から六時迄朝の坐禅勤行(ざぜんごんぎょう)、終わって朝参(ちょうさん)と申します朝の会議が行われます。 (リンク先より)・私の日常生活
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第3話 今、いのちがあなたを生きている ― 親鸞聖人のご生涯を通して―東舘紹見(仙台教区 善林寺)

こうした感覚というものは、私たちが、特定の価値観や方向性を持つ集団の中だけに安住しようとする限り、出てこないものかもしれません。限られた場に身を置きながらも、その場を通じて、あくまでも、あらゆる人びとと共に歩もうという精神が、自分の上にどう実現するのか、と、確かめようとした時、親鸞聖人は、仏教界というグループに属する一員ではなく、一人の人間として、これまで歩んできた仏道という道を、このまま進むべきかどうか、という問いに、初めて向き合うことになったのです。(リンク先より)・第3話 今、いのちがあなたを生きている ― 親鸞聖人のご生涯を通して―東舘紹見(仙台教区 善林寺)
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平視して、顰蹙を遠離す

「常に笑みを含み、顔をのべ、平視して、顰蹙(ひんしゅく)を遠離す」これは、観音さまの表情を示した一文です。 「常に笑みを含み、顔をのべ」とは、いつも微笑みを忘れず、顔をしかめずということです。(リンク先より)・平視して、顰蹙を遠離す
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第2話 今、いのちがあなたを生きている ― 親鸞聖人のご生涯を通して―東舘紹見(仙台教区 善林寺)

逆に自分のことは自分でしなくてはならない、現在の言葉でいえば「自己責任」という言葉であらわされるような考えが一般化してゆきました。財産や権利を持った人は、それを、さらに大きな権力や武力を持った人に守ってもらおうとし、一層大きな権力が作られてゆきます。(リンク先より)・第2話 今、いのちがあなたを生きている ― 親鸞聖人のご生涯を通して―東舘紹見(仙台教区 善林寺)