平安時代

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正尊寺-岐阜県本巣市

・正尊寺 浄土真宗本願寺派 岐阜県本巣市曽井中島1592天台宗横蔵寺(801年伝教大師最澄創設)の末寺として創建された。しかし、室町時代に入り横蔵寺の衰退と共に正尊寺も無住の廃寺同然になっていたと伝えられている。 その当時は現在の中島の地から北西に1㎞くらい離れた向野の南に建っていた。そこへ、文明5年(1473)福井県吉崎御坊の蓮如上人から遣わされた了光坊が、浄土真宗に改宗し本巣町・大野町・谷汲村・糸貫町・網代西郷の門徒と共に荒れ寺を浄土真宗の道場として正尊寺を再建した。(リンク先より)<< 戻る
人物

和気清麻呂(わけ の きよまろ)

奈良時代末期から平安時代初期にかけての貴族。磐梨別乎麻呂(または平麻呂)の子。769年(神護景雲3年)、和気清麻呂の姉である尼僧・和気広虫(わけ の ひろむし)は、称徳天皇から宇佐八幡宮の神託(神のお告げ)をいただいてくるよう命じられましたが、九州までの長旅は虚弱な身体では耐えられないだろうという理由で、弟である和気清麻呂が代わりに向かうことになりました。その神託の内容は、称徳天皇が寵愛していた「僧・道鏡を皇位につける」という内容でした。神託に従えば、神武天皇から続いてきた皇族による皇位継承が途絶えることにもなります。そもそも、称徳天皇は生涯独身で子どもがなく、孝謙上皇時代(第46代孝謙天皇と...
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長福寿寺-千葉県長生郡

・長福寿寺 天台宗 千葉県長生郡長南町長南969延暦17年(798)に桓武天皇の勅願により、伝教大師最澄〔天台宗の宗祖〕によって創建された由緒ある大古刹です。中世においては日本三大学問所(談義所=僧侶の大学)として寺院子弟の教育にあたり、西に比叡山、東に長福寿寺(当時は東叡山と称した(※))ありと称せられ、実に関東天台の要をなしていました。(リンク先より) << 戻る
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華厳寺-岐阜県揖斐郡

・華厳寺 天台宗 岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積23・第三十二番 ⇒ 西国三十三所 第三十三番 谷汲山 華厳寺 ​⇒ 第一番「谷汲さん」の愛称で親しまれる当山は、山号が「谷汲山(たにぐみさん)」、寺号が「華厳寺(けごんじ)」といいます。寺の草創は桓武天皇(737-806)の延暦十七年(798)で開祖は豊然上人、本願は大口大領です。(リンク先より) << 戻る
人物

善珠(ぜんしゅ/ぜんじゅ)

奈良時代から平安時代前期にかけての僧。俗姓は阿刀氏で、玄昉の子とする史書もあるが、善珠の生まれた723年当時玄昉は遣唐使として唐に滞在している最中である。大和国の出身。秋篠寺の開基とされている。法相六祖の1人。玄昉に師事して法相・因明に通じた。生誕 養老7年(723年)命日 延暦16年4月21日(797年5月25日)<< 戻る
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坂上田村麻呂が征夷大将軍に

797年、坂上田村麻呂が征夷大将軍になる。→蝦夷の平定。<< 戻る
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円満寺-神奈川県横浜市西区

・円満寺ホームページ 天台宗 神奈川県横浜市西区久保町50-1当山は天台宗本山別格阿富貴山安禅院円満寺と号し、天台宗山門派延暦寺末、本山別格の寺院である。安禅院は元は比叡山延暦寺の一坊で、東塔北谷に位置していた。寺院明細帳によると、延暦十三年九月の創建で大教院と号し、延喜元年、宇多法皇が比叡山に行幸の際には御座所にあてられたことがある。(リンク先より)※延暦十三年 794年 << 戻る
年表

平安京に遷都

794年、平安京に都を遷す。律令制の乱れ。桓武天皇が和気清麻呂らの考えを用い、遷都。<< 戻る
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最澄上人、一乗止観院を建立

延暦7年(788)年、最澄上人は薬師如来を安置する一乗止観院を建立します。現在の総本堂・根本中堂にあたります。<< 戻る
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最澄上人、具足戒を受ける

最澄上人は奈良の都に行き、さらに勉学を積みました。そして延暦4(785)年、東大寺で具足戒を受けました。受戒後、比叡山に籠り一人修行を続けます。<< 戻る
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最澄上人の得度

宝亀9(778)年、12歳のとき、近江の国分寺(現在の大津市石山)に入り行表の弟子となりました。宝亀11(780)年11月12日、14歳で国分寺僧補欠として得度し、「最澄」という名前をいただきました。<< 戻る
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最澄上人の誕生

伝教大師 最澄上人は、神護景雲元(767)年8月18日、現在の滋賀県大津市坂本の一帯を統治していた三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として誕生しました。俗名は広野(ひろの)です。<< 戻る