安土桃山時代

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覚法寺-熊本県熊本市中央区

・覚法寺 浄土真宗本願寺派 熊本県熊本市中央区水前寺公園1-25覚法寺の山号は、早川山(そうせんざん)と号します。なぜ早川山と申すかといいますと、早川(そうがわ)と言われる地から、このお寺がスタートしたからです。文禄元年(1592年)、覚法寺初代・釈了意によって、早川(そうがわ)の地に坊舎を建立し、覚法寺が開基されます。現在の熊本県甲佐町早川(そうがわ)の場所になります。(リンク先より) << 戻る
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瑞泉寺-愛知県常滑市

・瑞泉寺 曹洞宗 愛知県常滑市桧原字西前田81-1草創は照庵恵最首座の寂年をもって起源とされていますが、それより先の文禄年間(1592~1597)、常滑市内阿野町にあった天武天皇の勅願所として大伽藍を誇った高讃寺が兵火にかかり焼失しました。その際に恵最首座が観音像と薬師如来をもらい受けて本尊としたのが始まりといわれます。(リンク先より) << 戻る
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興岳寺-東京都八王子市

・萬松山 興岳寺 曹洞宗 東京都八王子市千人町1-2-8萬松山興岳寺は文禄元年(1592年)に石坂勘兵衛が菩提寺として建立した寺院です。甲斐(今の山梨県)の大名だった武田信玄が病死したあと、その子勝頼も豊臣氏のために亡ぼされたので、彼らの遺臣は徳川家康の指揮下に入りました。その中で石坂勘兵衛が旗本となってここに所領をいただき、組屋敷の東部に建てたものが興岳寺の基であります。(リンク先より) << 戻る
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正源寺-茨城県牛久市

・正源寺 曹洞宗 茨城県牛久市牛久町114瑞雲山正源寺の縁起は、戦国の世も終わり近づく文禄元年(一五九二年)、当時の牛久城主の由良国繁公により戦で命を散らした人々の菩提を弔う為に七観音八薬師の一つとして創建され、歴史を刻んできた曹洞宗のお寺です。(リンク先より) << 戻る
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徳源寺-愛知県名古屋市東区

・蓬莱山 徳源寺 臨済宗妙心寺派 愛知県名古屋市東区新出来1-1-19(1592)織田信長の次男信雄が、熱田に忠嶽(ちゅうがく)和尚を請じて、 徳源寺の前身である「清涼山宝泉寺」を開創したのが始まりである。寛文2年(1662)に昭和区石仏へ移り、「蓬莱山徳源寺」と改称した。(リンク先より) << 戻る
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西念寺-鳥取県米子市

・西念寺 真宗大谷派 鳥取県米子市法勝寺町87本願寺第12世教如上人(1558~1614)が文禄元年(1592)、九州名護屋滞陣中の豊臣秀吉への陣中見舞いからの帰路、石見国大森銀山(現島根県大田市大森町)に立ち寄られた。 そのおり当山開基教専(敬専)が上人の弟子となり、邇摩郡佐摩村銀山田中の某寺にあった伝聖徳太子作の阿弥陀如来(銀山田中にあったので「田中の本尊」と言う)を奉じ、文禄2年(1593)2月、伯耆大山の麓・伯耆国会見郡中間荘尾高村(現米子市尾高)に一宇を建立、西念寺と号した。(リンク先より)<< 戻る
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福證寺の草創

文禄元(1592)年、釈玄海が禅宗から浄土真宗に改め、福證寺として草創。<< 戻る
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文禄の役

1592年、豊臣秀吉が朝鮮出兵を命ずる(文禄の役)。<< 戻る
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朱印船貿易

1592年、貿易船に朱印状を渡し、貿易をすすめる(朱印船)。<< 戻る
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本願寺、京都(堀川六条)に移る

1591(天正一九)年8月、豊臣秀吉の京都市街経営計画にもとづいて本願寺は再び京都に帰ることとなり、顕如上人は堀川の現在地を選び、ここに寺基を移すことに決められた。阿弥陀堂・御影堂の両堂は翌年完成した。<< 戻る
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三光寺-山口県宇部市

・三光寺 浄土真宗本願寺派 山口県宇部市大字東岐波456-1町・戦国時代に西国随一の大名として全盛を迎えた大内氏の菩提寺であり、宗派は天台宗、寺号は「菩提寺」でした。『日野山南麓に、旧寺敷、古墳、鎮守あり』との伝承があることから、寺地は、現在の「門前」と言われる地区にあったと伝わっています。「門前」は、寺の門前にあった故の呼称でしょう。大内氏滅亡の後、当世の住職であった道圓の代に至って一時廃寺となりましたが、その後天正17(1589)年、諸国を遊歴していた道圓は、当時の第11世本願寺門主、顕如上人の弟子となり、法名も了西と改め帰国、天正19(1591)年3月12日、現在の岐波の地に寺地を移して...
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正泉寺-神奈川県相模原市緑区

・龍減山「正泉寺」 曹洞宗 神奈川県相模原市相原6-6-2寺伝によると、1591(天正19)年、この地を治めていた吉川下総守が、先祖の供養のため屋敷内にお堂を建立し、「虚空蔵菩薩」を本尊として安置したのが始まりといわれ、当時は「澗淋山昌泉寺」と称していました。これより前については記録がないため、この年を建立年としています。ご本尊さまが「虚空蔵菩薩」であることから、曹洞宗の前は天台宗であったと推測されています。(リンク先より) << 戻る
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金剛院-埼玉県さいたま市北区

金剛院は天正十九年(1591年)徳川家康公より河越内に寺領四石を賜り、慶安二年(1649年)八月ニ十四日には、徳川家光公より下加村内に十石四斗の朱印地を拝領し、下加村(日進一丁目)西谷村(日進三丁目)の菩提寺となりました。今でも金剛院には十通の御朱印状が残されています。(リンク先より)・金剛院<< 戻る
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薬研堀不動院-東京都中央区

・薬研堀不動院 真言宗智山派 東京都中央区東日本橋2-6-8天正13年(1585)、豊臣秀吉勢の兵火に遭った際、根来寺の大印僧都(だいいんそうず)はそのご尊像を守護して葛篭(つづら)に納め、それを背負ってはるばる東国に下りました。そして、隅田川のほとりに有縁の霊地をさだめ、天正19年(1591)、そこに堂宇を建立しました。これが現在の薬研堀不動院のはじまりです。(リンク先より) << 戻る
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法界寺-京都府京都市中京区

・法界寺 浄土宗西山深草派 京都府京都市中京区裏寺町通蛸薬師上る裏寺町589当寺の創立年度は不詳となっておりますが、開基の道阿和尚が天正19年(1591)寂と記録にあります ので、おおよそ安土桃山時代中頃と推測されます。(リンク先より) << 戻る
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勝徳寺-新潟県妙高市

・勝徳寺 浄土真宗本願寺派 新潟県妙高市大字吉木901遠州浜松 井上越後守義勝の一族 伊砂民部大輔 源勝行は、源実朝が鎌倉鶴岡八幡にて殺害された時、下総国香取郡霞ヶ浦に逃れ、承久元年(1219)雨月上院の五日、常州(常陸の国)稲田の郷にて善信御坊(親鸞聖人)の弟子となり、行応と名を改める。 その後、6世善念が応仁元年(1467)信州荒瀬原に居住し、伊砂の姓を捨て、土地の名称が平出の郷であることから姓を平出と改める。延徳3年(1491)本願寺8世蓮如上人より「本鳥山」の山号と「勝徳寺」の寺号、並びに直筆の六字名号本尊を賜り、一寺を建立する。(リンク先より)<< 戻る
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誓願寺-広島県広島市西区

・誓願寺 浄土宗西山深草派 広島県広島市西区三滝本町1-17-1誓願寺は紫雲山、光照院と号し、天正18年(1590)10月15日に策伝上人の意向を受けた毛利輝元公が材木町・現在の平和公園の地に開基した。開山の恵空上人は京都本山誓願寺より天智天皇御宸筆を賜り寺号を誓願寺とし、毛利家の菩提寺と成った。 (リンク先より) << 戻る
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東泉寺-神奈川県横浜市泉区

・東泉寺 曹洞宗 神奈川県横浜市泉区下飯田町743開基は、天正18年(1590)の秀吉による小田原攻めの結果、東国を領した徳川家康の旗本、筧為春(かけひためはる)です。山号は巨木山(こぼくさん)、山門前の対の雌雄大銀杏があるためにそう呼ばれるようになったかは不明です。(リンク先より) << 戻る
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善寿寺-兵庫県姫路市

・善寿寺 曹洞宗 兵庫県姫路市豊富町御蔭326善寿寺の歴史は法悦信道大和尚が1590年頃書写山・円教寺で15年間修業をされ、自ら刻んだ「慈母観世音菩薩」を本尊として小さな庵を開かれたことが始まりです。(リンク先より) << 戻る
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重願寺-東京都江東区

・重願寺 浄土宗 東京都江東区猿江1-11-15當山は所伝によると天正18年(1590)千葉邦胤の女(娘)、不虚大禅尼によって日本橋郡代屋敷に草創され、ついで寛永6年(1629)普光観智国師(増上寺第十二世)の高弟、本蓮社願譽是哲上人によって開山され、不虚山 當知院 重願寺と称しました。この寺号は『往生礼讃』という書物に唐代の善導大師みづからの信仰体験を記し、「深く阿弥陀佛を信じて称名念佛するものは必ず浄土に救いとろうと誓われたご本願は決して虚りではない」(當知本誓重願不虚、衆生称念必得往生)と言われた言葉に基づくものです。(リンク先より) << 戻る
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豊臣秀吉が全国統一

1590年、豊臣秀吉が全国統一。小田原の北条氏をやぶる。<< 戻る
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興山寺建立

天正十八年(1590年)、豊臣秀吉、興山寺建立。 << 戻る
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蓮華寺が焼き払われる

天正17(1589)年、伊達政宗公が会津侵攻の時に蓮華寺を焼き払う。<< 戻る
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浄福寺-岡山県高梁市

・浄福寺 浄土真宗本願寺派 岡山県高梁市成羽町布奇594浄福寺は1588(永禄元)年、山下加賀守(法名、浄元)が、浄土真宗本願寺派の寺院として開山。近くには、かつて吹屋銅山があり、成羽川周辺を中心に多くの人たちが集まっていました。(リンク先より) << 戻る
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常泉寺-神奈川県大和市

・花のお寺 常泉寺 曹洞宗 神奈川県大和市福田2176當寺の宗旨は、禅宗の中の曹洞宗であり、本山は、福井県の永平寺、神奈川県の総持寺です。創建は、1588年頃(天正十六年〉と言われています。開山は「朝厳存夙大和尚」(ちょうがんそんしゅくだいおしょう)で、藤沢市遠藤にある宝泉寺六世と言われています。開基の関水和泉は、福田開拓九人衆の一人、広田刑部助の後継者と言われ、天正十六年に没し、法名を「清流常泉禅定門」と称したことから寺号になったと伝えられています。(リンク先より) << 戻る
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広厳寺-新潟県胎内市

・広厳寺 曹洞宗 新潟県胎内市西栄町2-8広厳寺は天正16年(1588年)曹洞宗の開創であるが、起原を尋ぬれば天正16年以前、200年前の元中6年(1389年)頃、胎蔵界大日如来を本尊とする真言宗のお寺が建立されていたと伝えられている。現在のご本尊は京都の大仏師定朝法印の作でその当時のものと思われる。尚、このご本尊は宝暦11年辛巳2月大仏師定朝法印第30世源康伝によって修復されている。曹洞宗開創当時(天正16年)は戦国時代であり、戦乱の世の中でお寺も非常に荒廃し、住職もいなかったと思われる。(リンク先より) << 戻る
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刀狩り

1588年、豊臣秀吉が刀狩りを行う。農民から刀・やり・鉄砲などの武器を取り上げ、農民が武器を持つことを禁止する。<< 戻る
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宝泉寺-新潟県十日町市

・宝泉寺 曹洞宗 新潟県十日町市小泉1051宝泉寺水澤山と号す、天正14年8月(1587)、上杉喜平治景勝の目代、山谷の舘主、藤木長左衛門勝久の開基にして、 上州白鄕井村雙林寺、13世大道関鉄大和尚の開山なり、本尊釈迦牟尼佛に、文珠、普賢の二菩薩とす、 境内1千5百坪、寺産豊かなり、上杉家除地寄付の起請文に依り、徳川幕府の当時、当寺境内山林田畑屋敷は、 検地毎に其式通り下賜せり、中世名家酒井氏の檀越となりて以来、同家旧君家の位牌を安置す(リンク先より) << 戻る
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勝念寺-京都府京都市伏見区

・勝念寺 浄土宗 京都府京都市伏見区石屋町521織田信長公が深く帰依した聖誉貞安上人によって天正15年(1587)に開創されました。天正10年織田信長は本能寺で、嫡男信忠は御池御所(烏丸二条)で自刃しました。正親町天皇の勅命により、信長・信忠父子の菩提を弔うため、貞安上人に信忠刃の地である御池御所を賜り、信忠の法名に因んで大雲院という寺院を開創しました。同時に、時の天下人である豊臣秀吉の城下町である此処伏見丹波橋に、布教の拠点とするべく一寺を開創して勝念寺と号しました。(リンク先より) << 戻る
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常圓寺-福島県福島市

・常圓寺 曹洞宗 福島県福島市山口字寺屋敷4天正15年(1587年)、安土桃山時代に常円寺は開山されました。開基大波氏は、和歌山県栗原より出て栗原氏となり、のち安積氏、信夫氏を名乗って信夫文知摺城に居し、大波城に移って大波氏となり、さらに山口城を築いて、宮城県登米郡・養雲寺2世鶴庵全賀を開山禅師に迎え、菩提寺常円寺を建立しました。(リンク先より) << 戻る
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豊臣秀吉が京都に聚楽第をつくり、北野で大茶会を催す

1587年、豊臣秀吉が京都に聚楽第をつくり、北野で大茶会を催す。<< 戻る
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キリスト教を禁止

1587年、豊臣秀吉がキリスト教を禁止する。 << 戻る