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一遍(いっぺん)

一遍とは、鎌倉時代中期の僧侶。時宗の開祖。「一遍」は房号であり、法諱は「智真」。一遍上人、遊行上人(ゆぎょうしょうにん)、捨聖(すてひじり)と尊称されます。著作に『一遍上人語録』があります。延応元年(1239年)伊予国(愛媛県)久米郡の豪族、河野通広(出家して如仏)の第2子として生まれます。幼名は松寿丸。10歳の時に母が死ぬと父の勧めで天台宗の継教寺で出家、法名は随縁といいました。建長3年(1251年)13歳になると大宰府に移り、法然の孫弟子に当たる聖達の下で10年以上に渡り浄土宗西山義を学びます。聖達は、随縁に浄土教の基礎的学問を学ばせるため、肥前国清水にいた華台のもとへ最初の1年間派遣し、...
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日蓮聖人(にちれんしょうにん)

鎌倉時代の仏教の僧侶。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗の宗祖。鎌倉での宗教活動を理由に、得宗北条時宗によって佐渡に流罪にされます。滅後に皇室から日蓮大菩薩と立正大師の諡号を追贈されました。日蓮は、1222年2月16日、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市、旧・千葉県安房郡天津小湊町)の小湊で誕生しました。幼名は善日麿であったと伝えられている。1233年、12歳のとき、父母の元を離れ、生家近くの天台宗清澄寺(現在は日蓮宗)にのぼり道善房に師事します。薬王丸(やくおうまる)と改名し、四年間仏修行に励みました。そして虚空蔵菩薩に「日本一の智者となしたまへ」と祈願されました。1237年、16歳のとき...
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孤雲懐奘(こうんえじょう)

鎌倉時代の禅宗僧侶。京都に生まれる。懐弉とも記述されます。道元禅師に就いて嗣法。弟子には徹通義介、寒巌義尹、寂円がいる。父は九条為通。幼少の頃より比叡山に上り、18歳で出家し天台宗の学僧になります。24歳で浄土宗西山派の証空について浄土教を学び、26歳で大和国多武峯にて日本達磨宗の覚晏に禅を学び印可を受けます。安貞2年(1228年)、興福寺衆徒の焼き討ちを受け避難する中、宋から帰国した道元禅師の評判を聞き、法戦を挑んだところ、その所見が優れていることを認め師事を願いでます。しかし、道元禅師はまだ独立した身でないことを理由に断られたものの、文暦元年(1234年)、建仁寺を出て山城国深草に草庵を結...
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親鸞聖人(しんらんしょうにん)

親鸞は、鎌倉時代前半から中期にかけて活躍した僧侶。浄土真宗の宗祖とされます。法然を師と仰ぎ「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めて行くことに力を注ぎました。自らが開宗する意志は無かったと考えられています。(以下、敬称を省略します。)親鸞は1173年に、現在の京都市伏見区日野、法界寺・日野誕生院付近で誕生しました。お父さんは藤原氏の流れをくむ日野有範(ひのありのり)、お母さんは清和源氏の流れをくむ吉光女(きっこうにょ)と伝えられています。9歳の春に、伯父の日野範綱(ひののりつな)に連れられ、京都青蓮院において、後の天台座主・慈円のもとで出家・得度しました。この...
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道元禅師(どうげんぜんじ)

道元とは、鎌倉時代初期の僧侶で、日本における曹洞宗の開祖です。晩年に希玄という異称も用いました。高祖と尊称されます。諡号は仏性伝燈国師、承陽大師。諱は希玄。一般には道元禅師と呼ばれます。天童如浄に就いて嗣法。弟子には孤雲懐奘がいる。徒(いたずら)に見性を追い求めず、坐禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りが明らかになるという修証一等、只管打坐の禅を伝えました。『正法眼蔵』は、和辻哲郎など西洋哲学の研究家からも注目を集めました。道元は、鎌倉時代の1200年1月26日に京都で生まれました。諸説ありますが、お父さんは内大臣久我通親(こがみちちか)、お母さんは摂政関白藤原基房の娘である伊子(い...
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弁長(べんちょう)

平安時代後期から鎌倉時代にかけての浄土宗の僧。鎮西義の祖。父は古川則茂。字は弁阿。房号は聖光房。著書『浄土宗要集』『末代念仏授手印』『徹選択集』など。生誕 応保2年5月6日(1162年6月20日)命日 嘉禎4年2月29日(1238年3月16日)<< 戻る
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明恵(みょうえ)

鎌倉時代前期の華厳宗の僧。法諱は高弁(こうべん)。明恵上人・栂尾(とがのお)上人とも呼ばれる。父は平重国。母は湯浅宗重の四女。現在の和歌山県有田川町出身。華厳宗中興の祖と称される。明恵は『大唐天竺里程記』(だいとうてんじくりていき)をつくり、天竺(インド)へ渡って仏跡を巡礼しようと企画したが、春日明神の神託のため、これを断念した。明恵はまた、これに先だつ建仁2年(1202年)にもインドに渡ろうとしたが、このときは病気のため断念している。遁世僧となった明恵は、建永元年(1206年)、後鳥羽上皇から栂尾の地を下賜されて高山寺を開山し、華厳教学の研究などの学問や坐禅修行などの観行に励み、戒律を重んじ...
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松殿基房(まつどのもとふさ)- 藤原基房(ふじわらのもとふさ)

平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。実名は藤原基房。藤原北家、関白・藤原忠通の五男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。松殿家の祖。 松殿・菩提院・中山を号す。通称は松殿関白。生誕 天養元年(1144年)/久安元年(1145年)命日 寛喜2年12月28日(1231年2月1日)菩提院松殿中山基房大居士<< 戻る
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天童如浄(てんどうにょじょう)

中国・宋時代の禅僧。明州鄞県葦江の出身。俗姓は兪。字は長翁。雪竇智鑑に就いて嗣法。弟子には道元禅師がいる。天童山景徳寺第31世住職。『如浄禅師語録』がある。嘉定17年(1224年)に天童山景徳寺の住職となる。宝慶元年(1225年)から宝慶3年(1227年)まで道元禅師は如浄の元で学ぶ。宝慶元年の夏安居の期間に大悟した道元に如浄は印可を授けている。如浄は権勢より離れ、世俗化した当時の仏教について根本から批判し、釈迦牟尼仏の頃の本来の精神に立ち帰ることを唱えた。如浄の教えは、道元禅師による日本曹洞宗開宗の基礎の形成に大きな役割をになっていた。生誕 隆興元年7月7日(1163年8月8日)命日 紹定元...
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チンギス・ハン – チンギス・カン

モンゴル帝国の初代皇帝。大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神と崇められ、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている。生誕 大定2年4月16日(1162年5月31日)諸説あり命日 太祖22年7月12日(1227年8月25...
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島津忠久(しまづただひさ)

平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。鎌倉幕府御家人。島津氏の祖。正式な名乗りは惟宗忠久という。出自・生年については諸説ある。治承3年(1179年)2月8日、春日祭使の行列に供奉している記録が史料上の初見とされる(『山槐記』)。島津忠久は元々摂関家に仕える都の武者であったが、治承・寿永の乱において源頼朝が台頭してくると、母が頼朝の乳母子だった縁で頼朝に重用されるようになってくる。生誕 命日 嘉禄3年6月18日(1227年8月1日)浄光明寺殿 得佛道阿弥陀佛<< 戻る
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慈円(じえん)

平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧侶。歴史書『愚管抄』を記したことで知られます。諡号は慈鎮和尚、通称に吉水僧正、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円と紹介されています。 父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光女加賀、摂政関白・九条兼実は同母兄にあたります。幼くして青蓮院に入寺し、仁安2年(1167年)天台座主・明雲について受戒します。治承2年(1178年)に法性寺座主に任ぜられ、養和2年(1182年)に覚快法親王の没後、空席になった青蓮院を継ぎました。建久3年(1192年)、38歳で天台座主になります。その後、慈円の天台座主就任は4度に及びました。吉田兼好の『徒然草』には、「一芸ある者なら...
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北条政子(ほうじょうまさこ)

平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝の継室。 伊豆国の豪族、北条時政の長女。子は頼家、実朝、大姫、三幡。兄弟姉妹には宗時、義時、時房、阿波局、時子など。 周囲の反対を押し切り、伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所と呼ばれる。夫の死後に落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。法名を安養院(あんにょういん)といった。頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称された。生誕 保元2年(1157年)命日 嘉禄元年7月11日(122...
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鴨長明(かものちょうめい/ながあきら)

平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての日本の歌人・随筆家。俗名は同じだが「読み」がかも の ながあきら。禰宜・鴨長継の次男。位階は従五位下。法名は蓮胤。南大夫、菊大夫とも称される。建暦2年(1212年)に成立した『方丈記』は和漢混淆文による文芸の祖、日本の三大随筆の一つである。他に同時期に書かれた歌論書の『無名抄』、説話の『発心集』(1216年以前成立)、歌集として『鴨長明集』(養和元年(1181年))といった作品がある。『千載和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に25首が入集している。生誕 久寿2年(1155年)命日 建保4年閏6月10日(1216年7月26日)<< 戻る
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栄西禅師(えいさい/ようさいぜんじ)

栄西とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧で、日本に臨済宗黄龍派の禅をはじめて伝え、建仁寺を開山した、臨済宗建仁寺派の開祖です。天台密教葉上流の流祖ともされます。また、廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えたことでも知られます。字が明菴、諱が栄西で明庵栄西(みんなん ようさい)、「ようさい」よりも「えいさい」という読み方の方が浸透しているようですが、栄西の主著である「興禅護国論」(こうぜんごこくろん)の解説本中に「ようさい」との振り仮名が付けられていることから、正式にはこちらを使います。永治元(1141)年4月20日、備中国(岡山県)吉備津宮の社家、賀陽氏(かやし)の子として誕生しました。11歳...
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法然上人(ほうねんしょうにん)

建暦二年(1212)1月25日、法然上人80歳で示寂しました。「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」の経文をとなえ、眠るように示寂されました。(法然上人の生涯についてはこちらの「 法然上人 」タグから確認出来ます)生誕 長承2(1133年)4月7日命日 建暦二年(1212)1月25日<< 戻る
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重源(ちょうげん)

平安時代末期から鎌倉時代の日本の僧。房号は俊乗房(しゅんじょうぼう、俊乗坊とも記す)。 東大寺大勧進職として、源平の争乱で焼失した東大寺の復興を果たした。長承2年(1133年)、真言宗の醍醐寺に入り、出家する。のち、浄土宗の開祖・法然に浄土教を学ぶ。大峯、熊野、御嶽、葛城など各地で険しい山谷を歩き修行をする。重源は自ら「入唐三度聖人」と称したように中国(南宋)を3度訪れた入宋僧だった。重源の入宋は日宋貿易と共に日本僧の渡海が活発になった時期に当たり、仁安3年(1168年)に栄西と共に帰国した記録がある。宋での重源の目的地は華北の五台山だったが、当地は金の支配下にあったため断念し、宋人の勧進の誘...
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源頼朝(みなもとのよりとも)

平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家。鎌倉幕府の初代征夷大将軍。 清和源氏の一流たる河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると北条時政、北条義時などの坂東武士らと平家打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平家を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼす。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。生誕 久安3年4月8日(ユリウス暦1147年5月9日、先発グレゴリオ暦1147年5月16日)命日 建久10年1月13日(ユリウ...
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雪竇智鑑(せっちょうちかん)

中国・宋時代の禅僧。天童宗珏に就いて嗣法。弟子には天童如浄がいる。生誕 1105年命日 1192年<< 戻る
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西行(さいぎょう)

平安後期の歌人。姓は佐藤、名は義清、別号に大宝房、法名を円位。武家に生まれ鳥羽上皇に北面武士として仕えるが、のち出家する。平清盛・時忠、崇徳院・徳大寺実能らと交わる。仏道修行、和歌に励み、和歌は約2300首が伝わる。勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)、『山家心中集』(自撰)、『聞書集』。その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と目される。生誕 元永元年(1118年)命日 文治6年2月16日(1190年3月31日)<< 戻...
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武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)

武蔵坊弁慶は、平安時代末期の僧衆。源義経の郎党。 『義経記』では熊野別当の子で、紀伊国出身だと言われるが詳細は不明。元は比叡山の僧で武術を好み、五条の大橋で義経と出会って以来、郎党として彼に最後まで仕えたとされる。弁慶の立往生義経が衣川の館を攻められた際、弁慶は並み居る敵兵を次々倒すが、ついには無数の矢を受けて薙刀を杖にして仁王立ちのまま息絶えたと伝えられている。ここから命を投げ出して主君を護っていた忠義の臣を表す。弁慶の泣き所弁慶ほどの豪傑でもここを打てば涙を流すほど痛いとされる急所のこと。最もよく知られているのが脛(膝頭の下から足首の上まで)で、皮膚のすぐ下、骨(脛骨)のすぐ上を神経が通っ...
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源義経(みなもとのよしつね)

源義経は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝は異母兄。仮名は九郎。河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸と呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った...
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源義仲(みなもとのよしなか)

平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍と呼ばれている。 以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。生誕 久寿元年(1154年)命日 寿永3年1月20日(1184年3月4日)徳音院義山宣公<< 戻る
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平清盛(たいらのきよもり)

平安時代末期の日本の武将で公卿。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士として初の太政大臣。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。生誕 永久6年1月18日(ユリウス暦1118年2月10日、グレゴリオ暦11...
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俊寛(しゅんかん)

平安時代後期の真言宗の僧。僧位の「僧都」を冠して俊寛僧都(しゅんかん そうず)と呼ばれることも多い。 村上源氏の出身で、父は木寺(仁和寺院家)の法印寛雅、母は宰相局。姉妹に大納言局。後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にあった。安元3年(1177年)、藤原成親・西光らの平氏打倒の陰謀に加わって鹿ヶ谷の俊寛の山荘で密議が行われた(ただし、『愚管抄』によれば、信西の子・静賢の山荘で密談が行われたとされている)。だが、密告により陰謀は露見し、俊寛は藤原成経・平康頼と共に鬼界ヶ島(薩摩国)へ配流された。(鹿ケ谷の陰謀)生誕 康治2年(1143年)命日 治承3年3月2日(1179年4月10日)<< 戻る
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西光(さいこう)

平安時代後期の官人・僧侶。俗名は藤原師光。阿波国の豪族・麻植為光の子。藤原北家魚名流、中納言・藤原家成の養子。官位は六位・左衛門尉。後白河院の近臣。生誕 命日 安元3年6月3日(1177年6月30日)<< 戻る
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天童宗珏(てんどうそうかく)

中国・宋時代の禅僧。長蘆清了に就いて嗣法。弟子には雪竇智鑑がいる。生誕 1091年命日 1162年<< 戻る
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宏智正覚(わんししょうがく)

中国・宋時代の禅僧。隰州隰川県の出身。天童正覚(てんどうしょうがく)とも記述されます。丹霞子淳に就いて嗣法。弟子には自得慧暉がいる。多くの弟子を輩出したことから宏智派の祖とされています。臨済宗楊岐派のなかに大慧派を形成した大慧宗杲と、禅のあり方を巡り激しく対立しました。宏智正覚の主張は、仏性は本来的に有されていることから、坐禅すること自体が禅の姿で、その事実に気付くことこそが大事なことだと、公案を用いない曹洞宗の禅を擁護しました。しかし、大慧宗杲はこれを「黙照禅」と呼んで批判しました。対する大慧宗杲は、公案を用いることによって言語による思考を限界に追い詰めつつ坐禅し、言語を超越した悟りへと向か...
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長蘆清了(ちょうろせいりょう)

中国・宋時代の禅僧。諡は悟空禅師。真歇清了(しんけつせいりょう)とも記述される。丹霞子淳に就いて嗣法。弟子には天童宗珏がいる。生誕 1089年(元祐4年)命日 1151年11月10日(紹興21年10月1日)<< 戻る
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覚猷(かくゆう)- 鳥羽僧正(とばそうじょう)

覚猷は、平安時代後期の僧侶。鳥羽僧正と世に呼ばれ、日本仏教界の重職を務めた高僧であるのみならず、絵画にも精通し、鳥獣人物戯画などの作者に擬せられている。そのユニークでユーモアあふれる作風から、漫画の始祖とされることもある。生誕 天喜元年(1053年)命日 保延6年9月15日(1140年10月27日)<< 戻る
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良忍(りょうにん)

良忍は、平安時代後期の天台宗の僧で、融通念仏宗の開祖。聖応大師。 尾張国知多郡の領主の秦道武の子。良仁とも書き、房号は光静房または光乗房。生年は延久4年説もある。比叡山東塔常行三昧堂の堂僧となり、雑役をつとめながら、良賀に師事、不断念仏を修める。また禅仁・観勢から円頓戒脈を相承して円頓戒の復興に力を尽くした。尾張国知多郡の富田荘(現愛知県東海市富木島町)に誕生しました。父は藤原秦氏兵曹道武、母は熱田神宮大宮司第二十四代、藤原秀範の息女でした。生まれつき美声の持ち主だったところから、幼名を音徳丸と名づけられました。十二歳で比叡山に登り、良賀僧都のもとで得度し、名を光乗坊良仁と与えられました。良忍...
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藤原清衡(ふじわらのきよひら)

平安時代後期の武将で奥州藤原氏初代当主。天仁元年(1108年)、鳥羽上皇の勅宣により藤原基衡が出羽国最上郡(現・山形県寒河江市)の慈恩寺を再興したという(『瑞宝山慈恩寺伽藍記』)。阿弥陀堂(常行堂)・釈迦堂(一切経堂)・丈六堂を新造し、鳥羽院より下賜された阿弥陀三尊を阿弥陀堂に、釈迦三尊と下賜された一切経五千余巻を釈迦堂に、基衡が奉納した丈六尺の釈迦像を丈六堂に安置した。ただし、基衡は1100年前後の生まれと目されるため実際には清衡が再興したか、再興年に誤りがあるとみられる。生誕 天喜4年(1056年)命日 大治3年7月13日(1128年8月10日)<< 戻る