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田中平八(たなかへいはち)

幕末、明治の実業家、相場師。横浜で糸屋平八商店を営み、生糸・洋銀などの相場で財を成し、「天下の糸平」と呼ばれた。本姓は藤島。幼名は釜吉。名は政春。生誕 1834年8月15日(天保5年7月11日)命日 1884年(明治17年)6月8日<< 戻る
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岩倉具視(いわくらともみ)

公家、政治家。雅号は対岳。謹慎中の法名は友山。補職・位階・勲等は、贈・太政大臣贈・正一位大勲位。維新の十傑の1人。生誕 1825年10月26日(文政8年9月15日)命日 1883年(明治16年)7月20日<< 戻る
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佐藤尚中(さとうたかなか/しょうちゅう)

幕末から明治初期の蘭方医。幼名を竜太郎、舜海と称し、笠翁と号す。佐藤泰然の弟子でのちに養子となる。下総国小見川出身。東京順天堂の第2代堂主、順天堂医院の初代院長。生年については諸説ある。ドラマ化もされた人気漫画「JIN−仁−」の主人公、南方仁のモデルとも言われている。生誕 1827年5月3日(文政10年4月8日)命日 1882年(明治15年)7月23日<< 戻る
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坂本乙女(さかもとおとめ)

江戸時代末期から明治時代にかけての女性。土佐藩郷士坂本八平と幸の三女。弟に坂本龍馬がいる。 本来の名は留で、「乙女」は「お留」への当て字である。「乙女」を「とめ」と読むこともある。薙刀に長け、剣術・馬術・弓術・水泳などの武芸や、琴・三味線・舞踊・謡曲・経書・和歌などの文芸にも長けた、文武両道の人物だったという。弘化3年(1846年)に母・幸が死去すると龍馬の母親代わりを務め、書道・和歌・剣術などを教えた。乙女は当時にしてはかなり男勝りな性格で、体も大きかったため龍馬に常に勝っていた。生誕 1832年2月2日(天保3年1月1日)命日 1879年(明治12年)8月31日<< 戻る
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大久保利通(おおくぼとしみち)

武士、政治家。位階勲等は贈従一位勲一等。明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。また「維新の十傑」の1人でもある。初代内務卿を務めるなど、内閣制度発足前の明治政界のリーダーであった。生誕 文政13年8月10日(1830年9月26日)命日 明治11年(1878年)5月14日<< 戻る
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村田新八(むらたしんぱち)

武士(薩摩藩士)・政治家。明治10年以降、賊軍の将として遇されたが、大正5年(1916年)4月11日に正五位を追贈されて名誉回復した。生誕 天保7年11月3日(1836年12月10日)命日 明治10年(1877年)9月24日<< 戻る
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西郷隆盛(さいごうたかもり)

武士(薩摩藩士)・軍人・政治家。薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。諱は元服時に隆永(たかなが)のちに武雄・隆盛(たかもり)と名を改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変更。号は南洲(なんしゅう)。隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名で届け出てしまい、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門・大島吉之助などの変名も名乗った。藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される...
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和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)

仁孝天皇の第8皇女。江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室。家茂死後には落飾し、静寛院の院号宣下を受け、静寛院宮と名乗った。 「和宮」は誕生時に賜わった幼名で、「親子」は文久元年の内親王宣下に際して賜わった諱である。孝明天皇の異母妹。明治天皇の叔母にあたる。品位は二品、薨後贈一品。生誕 1846年7月3日〈弘化3年閏5月10日〉命日 1877年〈明治10年〉9月2日<< 戻る
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木戸孝允(きどたかよし)

武士、革命家。和田小五郎、桂小五郎。明治維新の指導者として活動し、維新の三傑の一人。名の孝允は「こういん」と読まれることもある。父は萩藩の藩医。吉田松陰に師事。のち江戸で剣術、西洋兵学を学ぶ。公武合体派に反対し、尊皇攘夷運動に奔走。藩の重職に就き、藩論を討幕へと導く。慶応2年(1866)鹿児島藩との間に薩長連合を締結。王政復古のクーデター後、五箇条の誓文草案を起草。参与に任ぜられ、版籍奉還の実現に尽力した。明治3年(1870)6月参議。4年岩倉遣外使節団に副使として参加。以後文部卿、内務卿、地方官会議議長、内閣顧問等を歴任。立憲制の漸進的樹立を唱えた。生誕 天保4年6月26日(1833年8月1...
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本木昌造(もとぎしょうぞう/もときしょうぞう)

江戸幕府の通詞、教育者であり、日本における活版印刷の先駆者として知られる。諱は永久、幼名作之助または元吉。異表記に昌三、笑三、咲三。なお、木本昌造は誤記である。 通詞の家系へ養子に入り、幕府の通詞をする傍ら、西洋への興味から操船、造船、製鉄、活字製造などに関わった。生誕 文政7年6月9日(1824年7月5日)命日 1875年9月3日<< 戻る
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澤宣嘉(さわのぶよし)

幕末の公卿。権中納言・姉小路公遂の五男。参議・澤為量の養子。官位は従三位・右衛門権佐。澤家8代当主。維新後、初代外務卿。安政5年(1858年)の日米修好通商条約締結の際は養父と共に勅許に反対して廷臣八十八卿列参事件に関わる。以後、朝廷内において尊皇攘夷派として活動した。文久3年(1863年)に会津藩と薩摩藩が結託して長州藩が京都から追放された八月十八日の政変により朝廷から追放されて都落ちする(七卿落ち)。生誕 天保6年12月23日(1836年2月9日)命日 明治6年(1873年)9月27日<< 戻る
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山内容堂/豊信(やまうちようどう/とよしげ)

幕末の外様大名。土佐藩15代藩主。官位は、従四位下・土佐守・侍従、のちに従二位・権中納言まで昇進、明治時代には麝香間祗候に列し、生前位階は正二位まで昇った。薨去後は従一位を贈位された。諱は豊信。隠居後の号は容堂。 土佐藩連枝の南邸山内家当主・山内豊著の長男。母は側室の平石氏。生誕 文政10年10月9日(1827年11月27日)命日 明治5年6月21日(1872年7月26日)<< 戻る
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安藤信正(あんどうのぶまさ)

江戸時代後期の大名。陸奥国磐城平藩5代藩主。官位は従四位下・侍従、長門守、対馬守。対馬守系安藤家10代。幕末に若年寄、次いで老中を務めた。生誕 文政2年11月25日(1820年1月10日)命日 明治4年10月8日(1871年11月20日)謙徳院殿秀譽松巌鶴翁大居士<< 戻る
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毛利敬親 / 慶親(もうり たかちか / よしちか)

長州藩の第13代藩主。敬親は幕末の混乱期にあって有能な家臣を登用し活躍させ、また若い才能を庇護することで窮乏していた長州藩を豊かにし幕末の雄藩に引き揚げ、結果として明治維新を成し遂げるきっかけを作った人物としても有名である。生誕 文政2年2月10日(1819年3月5日)命日 明治4年3月28日(1871年5月17日)<< 戻る
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伊東玄朴(いとうげんぼく)

江戸時代末期(幕末)から明治にかけての蘭方医。江戸幕府奥医師。名は淵。近代医学の祖で、漢方医が主流の中で、官医界における蘭方の地位を確立。伊東玄朴の墓は台東区谷中の天竜院にある。生誕 寛政12年12月28日(1801年2月11日)命日 明治4年1月2日(1871年2月20日)師天院素行然僕居士<< 戻る
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小松帯刀清廉(こまつたてわききよかど)

幕末の薩摩藩家老、政治家。前名は肝付 兼戈。通称は尚五郎のちに帯刀。維新の十傑の1人。吉利領主。 薩摩藩を雄藩に押し上げた藩政改革と幕末政局(薩長同盟、大政奉還など)において重要な役割を果たした。生誕 天保6年10月14日(1835年12月3日)命日 明治3年7月20日(1870年8月16日)<< 戻る
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大村益次郎(おおむらますじろう)

幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者。維新の十傑の一人に数えられる。 長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。生誕 文政7年5月3日(1824年5月30日)命日 明治2年11月5日(1869年12月7日)<< 戻る
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土方歳三(ひじかたとしぞう)

幕末期の幕臣、新選組副長。蝦夷島政府 陸軍奉行並。 諱は義豊、雅号は豊玉、家紋は左三つ巴。 新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として組織を支え、戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、またいわゆる「蝦夷島政府」では、軍事治安部門の責任者に任ぜられて指揮を執った。生誕 天保6年(1835年)命日 明治2年5月11日(1869年6月20日)歳進院殿誠山義豊大居士<< 戻る
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沖田総司(おきたそうじ)

幕末の武士、新選組一番隊組長及び撃剣師範。本姓は藤原を称した。諱は春政、後に房良(かねよし)。幼名は宗次郎。生誕 天保13年(1842年)命日 慶応4年5月30日(1868年7月19日)賢光院仁誉明道居士<< 戻る
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近藤勇(こんどういさみ)

江戸時代末期の武士。新選組局長。後に幕臣に取り立てられ、甲陽鎮撫隊隊長。勇は通称で、諱は昌宜という。慶応4年からは大久保剛を名乗り、後にさらに大久保大和と改めた。家紋は丸の内に三つ引。天然理心流四代目宗家。生誕 天保5年10月9日(1834年11月9日)命日 慶応4年4月25日(1868年5月17日)貫天院殿純忠誠義大居士<< 戻る
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小栗忠順(おぐりただまさ)

江戸時代末期の幕臣、勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行。 通称は又一。「又一」は、代々小栗家当主が名乗る名前。安政6年、従五位下豊後守に叙任。文久3年、上野介と改名した。三河小栗氏第12代当主で、父方の祖父は同じく勘定奉行を務めた中川忠英。安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国した。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。生誕 文政10年6月23日(1827年7月16日)命日 慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)陽寿院殿法岳浄性大居士<< 戻る
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中岡慎太郎(なかおかしんたろう)

志士。陸援隊隊長。名は道正。通称ははじめ福太郎、光次、のち慎太郎。号は遠山・迂山など。変名は石川清之助など。坂本龍馬らと共に薩長同盟の斡旋に尽力するも近江屋事件で横死した。生誕 天保9年4月13日(1838年5月6日)命日 慶応3年11月17日(1867年12月12日)<< 戻る
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坂本龍馬(さかもとりょうま)

江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。 諱は直陰、のちに直柔。通称は龍馬。 他に才谷 梅太郎などの変名がある 。 土佐藩郷士の家に生まれ、脱藩したあとは志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中を結成した。薩長同盟の成立に協力するなど、倒幕および明治維新に関与した。大政奉還成立の1か月後に近江屋事件で中岡慎太郎、山田藤吉らと共に暗殺された。暗殺者は諸説あるが、京都見廻組という説が有力である。1891年(明治24年)4月8日、正四位を追贈される。生誕 天保6年11月15日〈1836年1月3日〉命日 慶応3年11月15日〈1867年12月10日〉<< 戻る
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高杉晋作(たかすぎしんさく)

江戸時代末期の長州藩士。幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。生誕 天保10年8月20日(1839年9月27日)命日 慶應3年4月14日(1867年5月17日)<< 戻る
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徳川家茂(とくがわいえもち)

江戸幕府第14代征夷大将軍。初めは第12代将軍・徳川家慶の偏諱を受けて慶福と名乗っていた。 実父・徳川斉順は家慶の異母弟で、家茂は第13代将軍・家定の従弟にあたる。将軍就任の前は御三家紀州藩第13代藩主であった。 徳川斉順の嫡男であるが、父は家茂が生まれる前に薨去している。祖父は第11代将軍徳川家斉、祖母は妙操院。御台所は孝明天皇の皇妹・親子内親王(静寛院宮)。第13代将軍・徳川家定の後継者問題が持ち上がった際、家定の従弟にあたる慶福は徳川家一門の中で将軍家に最も近い血筋であることを根拠に、大老で譜代筆頭の彦根藩主井伊直弼ら南紀派の支持を受けて13歳で第14代将軍となった。生誕 弘化3年閏5月...
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武市瑞山(たけちずいざん)- 武市半平太(たけちはんぺいた)

幕末の志士、土佐藩郷士。土佐勤王党の盟主。通称は半平太で、武市半平太と呼称されることも多い。優れた剣術家であり、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政・吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功した。京都と江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導し、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変により政局が一変すると前藩主・山内容堂によって投獄される。1年8か月20日の獄中闘争を経て切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した。生誕 文政12年9月27日(1829年10月24日)命日 慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)常照院日...
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岡田以蔵(おかだいぞう)

江戸時代末期の土佐藩郷士。司馬遼太郎の小説名から「人斬り以蔵」の名でも知られる。諱は宜振(よしふる、読みに諸説あり)。幕末の四大人斬りの一人。武市瑞山(半平太)に師事し、小野派一刀流(中西派)の麻田直養(勘七)に剣術を学ぶ。薩長他藩の同志たちと共に、安政の大獄で尊王攘夷派の弾圧に関与した者達などに、天誅と称して集団制裁を加える。1863年の八月十八日の政変後、土佐勤王党は大弾圧を受け、翌年に以蔵も捕らえられ苛烈な拷問を受ける。慶応元年(1865年)閏5月11日に打ち首、獄門となった。生誕 天保9年1月20日(1838年2月14日)命日 慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)<< 戻る
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久坂玄瑞(くさかげんずい)

幕末の長州藩士。幼名は秀三郎、諱は通武、通称は実甫、誠、義助。妻は吉田松陰の妹、文。長州藩における尊王攘夷派の中心人物。栄典は贈正四位。生誕 1840年(天保11年)5月命日 元治元年7月19日(1864年8月20日)<< 戻る
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佐久間象山(さくましょうざん/ぞうざん)

江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家。通称は修理、諱は国忠、のちに啓、字は子迪、後に子明と称した。位階は贈正四位。象山神社の祭神。象山神社の隣が生家で、長野県の史跡に指定されている。松代三山の一人。生誕 文化8年2月28日(1811年3月22日)命日 元治元年7月11日(1864年8月12日) 清光院仁啓守心居士<< 戻る
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芹沢鴨(せりざわかも)

幕末の水戸藩浪士、壬生浪士の初代筆頭局長。前名は下村嗣次と推定されている。諱は光幹で、本姓は桓武平氏繁盛流大掾氏とされるが、実際は出自、出生年に諸説があり、確定されていない。生誕 天保3年(1832年)命日 文久3年9月16日(1863年10月28日)もしくは9月18日(10月30日)<< 戻る
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緒方洪庵(おがたこうあん)

江戸時代後期の武士、医師、蘭学者である。大坂に適塾を開き、人材を育てた。天然痘治療に貢献し、日本の近代医学の祖と言われる。 諱は惟章または章、字は公裁、号を洪庵の他に適々斎、華陰と称する。生誕 文化7年7月14日(1810年8月13日)命日 文久3年6月10日(1863年7月25日)華陰殿法眼文粛居士<< 戻る
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清河八郎(きよかわはちろう)

江戸時代末期の庄内藩出身の志士。田中河内介と共に九州遊説をして尊王攘夷派の志士を京都に呼び寄せ、一方で浪士組を結成し新選組・新徴組への流れを作り、虎尾の会を率いて明治維新の火付け役となった。 幼名は元司、諱は正明、号は旦起、木鶏。本名は齋藤正明で、清川八郎と改名したのち、清河八郎を名乗った。生誕 文政13年10月10日(1830年11月24日)命日 文久3年4月13日(1863年5月30日)<< 戻る