仏教を学ぶ

仏教を学ぶ

日蓮聖人の誕生

貞応元(1222)年2月16日、日蓮聖人は安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市、旧・千葉県安房郡天津小湊町)の小湊で誕生しました。幼名は善日麿であったと伝えられています。<< 戻る
人物

栄西禅師(えいさい/ようさいぜんじ)

栄西とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧で、日本に臨済宗黄龍派の禅をはじめて伝え、建仁寺を開山した、臨済宗建仁寺派の開祖です。天台密教葉上流の流祖ともされます。また、廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えたことでも知られます。字が明菴、諱が栄西で明庵栄西(みんなん ようさい)、「ようさい」よりも「えいさい」という読み方の方が浸透しているようですが、栄西の主著である「興禅護国論」(こうぜんごこくろん)の解説本中に「ようさい」との振り仮名が付けられていることから、正式にはこちらを使います。永治元(1141)年4月20日、備中国(岡山県)吉備津宮の社家、賀陽氏(かやし)の子として誕生しました。11歳...
仏教を学ぶ

親鸞聖人関東に赴く

親鸞聖人は三善為教(みよしためのり)の娘・恵信尼と結婚、男女6人の子女をもうけ、在俗のままで念仏の生活を営みました。建保2(1214)年、42歳の時、妻子と共に越後から関東に赴き、常陸の小島や稲田の草庵を中心として、多くの念仏者を育てました。<< 戻る
仏教を学ぶ

道元禅師の出家得度

建保元(1213)年、比叡山にいる母方の叔父良顕を訪ね、建保2(1214)年、14歳の禅師は比叡山座主・公円僧正について剃髪出家得度し、仏法房道元と名乗ります。比叡山では天台教学を中心に学びましたが、経文にある「本来本法性 天然自性身」という文言に大きな疑問をいだきます。その解決のために園城寺(三井寺)の公胤僧正を訪ね、建保5(1217)年、そのすすめにより建仁寺へ向かい、栄西禅師の高弟である明全和尚に師事されます。<< 戻る
仏教を学ぶ

一枚起請文

『一枚起請文』は、建暦二年(1212)法然上人が、お亡くなりになる直前に、その弟子の一人である常随給仕首尾18年の門弟源智上人の念仏の肝要について「一筆書きとどめて頂きたい」という要請により書かれたものです。浄土宗の教えの要であるお念仏(称名念仏)の意味、心構え、態度について、とても簡潔に説明されています。本文中に「両手印をもってす」と書かれていることから、両手の判を押し、上人自身が証明していらっしゃいます。 法然上人のお誓いの文章であることから「御誓言の書」とも呼ばれ、大本山金戒光明寺に大切に保存されています。もろこし我が朝に、諸々の智者達のさたし申さるる観念の念にも非ず、また学文をして念の...
仏教を学ぶ

法然上人の帰洛

建暦元年(1211)11月17日帰洛を許された上人は、その月の20日、5年ぶりに京都の地をふみましたが、旧居吉水の禅房はほとんど荒廃していたので、『 愚管抄 (ぐかんしょう) 』の著者であり、兼実の弟にあたる青蓮院慈円(1155~1225)の厚意にあまえて大谷の禅房(知恩院勢至堂)に入りました。<< 戻る
仏教を学ぶ

法然上人の配流

承元元(1207)年2月18日 専修念仏を停止し法然上人を土佐(実は讃岐)に、親鸞を越後に配流が決まり、安楽房遵西は六条河原で、住蓮は近江の馬淵で処刑されることに決まりました。配流の決定した上人は 還俗 (げんぞく) させられ藤井元彦という俗名が与えられました。時に門弟が上人に、「一向専修念仏を停止する旨奏上し、内々に念仏教化なされては」と申し上げたところ、上人は、「私は流刑を少しも恨んではいない。流罪によって念仏を辺ぴな地方に化導できることは、またとない結構なことである。これはまさに朝廷のご恩とうけとるべきではないか」とさとされました。「たとえ首をきられるとも、念仏のことだけは言わなければな...
仏教を学ぶ

専修念仏の停止

法然聖人の主著である『選択集』と真影(しんねい)を写すことを許され、吉水で入門後に綽空(しゃっくう)と名のられていたのを善信(ぜんしん)と改めました。そのころ法然聖人の開かれた浄土教に対して、既存仏教教団から激しい非難が出され、ついに承元元年(1207年)後鳥羽上皇によって専修念仏が停止(ちょうじ)され、法然聖人の門弟4人の死罪、法然聖人と中心的な門弟7人が流罪に処され、親鸞聖人は越後に流罪となりました。これを機に愚禿親鸞(ぐとくしんらん)と名のられ非僧非俗の立場に立ちました。<< 戻る
仏教を学ぶ

建永の法難

建永元(1206)年12月、門下の住蓮と安楽房遵西が、六時礼讃の哀調に感銘した院の女房と密通したという(捏造)事件により、法然上人はその責任を免れることが出来ませんでした。兼実は免罪運動を行いましたが、功を奏せず、後に住蓮・安楽処刑。<< 戻る
仏教を学ぶ

法然上人、九条兼実の別邸小松殿に移る

建永元(1206)年7月 九条兼実の別邸小松殿に移って庇護される。<< 戻る
仏教を学ぶ

法本房行空と安楽房遵西を召しだす御教書

建永元(1206)年2月14日、法本房行空と安楽房遵西を召しだす御教書が発せられ、法然上人は行空だけを破門されました。ついで衆徒たちは五師三綱を代表にたて、宣旨の内容が寛大なることをするどくつくと共に、念仏禁断の宣旨をくだすべきことを院宣奉行の責任者三条長兼や摂政である九条良経を相手に交渉しました。<< 戻る
仏教を学ぶ

栄西禅師、東大寺勧進職に

建永元(1206)年には、重源の後を受けて栄西禅師が東大寺勧進職に就任。<< 戻る
仏教を学ぶ

専修念仏者の庇護を内容とする宣旨

元久2(1205)年12月29日、専修念仏者の庇護を内容とする宣旨が下される。<< 戻る
仏教を学ぶ

興福寺奏状

元久2(1205)年9月、興福寺衆徒、後鳥羽院に念仏禁断の奏状に九箇条の過失を書きそえ強訴しました。法然上人およびその門弟、とくに法本房行空と安楽房遵西の処罰を強訴しました。その内容は勅許(ちょっきょ)を得ないで一宗をたてたこと、摂取不捨曼荼羅―専修念仏者だけが阿弥陀仏の光明によって救われ、これに対して念仏以外の諸善を行ずる者は光明を預からないことを絵画的に表現したものが流行していること、諸行をもって往生業としないで、称名一辺倒であること、最低の不観不定の口称念仏を勧めることは、最上の観念を捨てることであり、念仏の真意をあやまること、阿弥陀仏の名号やその浄土のことを説き示された本師である釈尊を...
仏教を学ぶ

七箇条制誡

元久元(1204)年11月、法然上人は七箇条制誡(しちかじょうせいかい)をつくり門弟を誡め、門弟百九十名の署名をとり、別に誓状をそえて座主に送りました。1.天台・真言の教説を破し諸仏菩薩をそしらぬこと2.無智の身で有智の人と諍論(じょうろん)せぬこと3.別解(べつげ)・別行(べつぎょう)の人に対し本業(ほんごう)を棄置し嫌わぬこと4.念仏門には戒行がなく造悪を恐れないなどと主張せぬこと5.ことごとに私義をとなえないこと6.痴鈍(ちどん)の身をもって道俗を教化(きょうけ)しないこと7.仏法にあらざる邪法を説いて正法とせぬこと<< 戻る
仏教を学ぶ

元久の法難

元久元(1204)年10月、延暦寺の衆徒が専修念仏の停止を天台座主真性に申請しました。<< 戻る
仏教を学ぶ

運慶・快慶らが東大寺の南大門金剛力士像をつくる

1203年、運慶・快慶らが東大寺の南大門金剛力士像をつくる。<< 戻る
仏教を学ぶ

建仁寺派(本山建仁寺(京都))の開派

建仁2(1202)年、南宋に留学して帰国した栄西禅師により始まる。臨済宗(黄龍派の禅)を日本にはじめて伝える。<< 戻る
仏教を学ぶ

法然聖人と親鸞聖人が出会い弟子入り

親鸞29歳、比叡山では悟りに至る道を見出すことができずに山を下り、京都の六角堂に100日間の参籠(さんろう)をしました。尊敬する聖徳太子に今後の歩むべき道を仰ぐためです。95日目の暁、聖徳太子の本地である救世観音から夢告を得て、東山の吉水で本願念仏の教えを説かれていた法然聖人の草庵を訪ねました。100日間、聖人のもとへ通い続け、建仁元(1201)年3月、ついに「法然聖人にだまされて地獄に堕ちても後悔しない」とまで思い、本願を信じ念仏する身となりした。<< 戻る
仏教を学ぶ

念仏禁止

正治2(1200)年5月12日 鎌倉幕府、念仏を禁止する。<< 戻る
仏教を学ぶ

道元禅師誕生

道元禅師は、鎌倉時代の正治2(1200)年1月26日(旧暦1月2日)に京都で生まれました。諸説ありますが、父は内大臣久我通親(こがみちちか)、母は摂政関白藤原基房の娘である伊子(いし)であるといわれています。9歳で『倶舎論』を読んだとの逸話が残っています。<< 戻る
仏教を学ぶ

栄西禅師、北条政子建立の寿福寺住持に

鎌倉に出向き将軍源頼家の庇護のもと正治2(1200)年、北条政子建立の寿福寺住持に請ぜられる。<< 戻る
仏教を学ぶ

不動堂建立

建久九年(1198年)、行勝上人、一心谷に不動堂(現存)を建立。<< 戻る
仏教を学ぶ

興禅護国論

建久9(1198)年、栄西禅師により「興禅護国論(こうぜんごこくろん)」が著されました。<< 戻る
仏教を学ぶ

選択本願念仏集

建久9(1198)年、法然上人は一部十六章からなる「選択本願念仏集」を撰述(せんじゅつ)しました。建久8(1197)年に九条兼実公の「浄土の教えの大事なことをまとめてほしい」と懇請されたのに応じられ、門弟の感西や証空や遵西の三人に執筆の助手役をつとめさせ、撰述にとりかりました。建久9(1198)年の春、法然上人は、浄土宗の根本宗典である『選択本願念仏集』という書物を著されました。【第一】聖道浄土二門篇【第二】雑行を捨てて正行に帰する篇【第三】念仏往生本願篇【第四】三輩念仏往生篇【第五】念仏利益篇【第六】末法万年に特り念仏を留むる篇【第七】光明ただ念仏の行者を摂する篇【第八】三心篇【第九】四修法...
仏教を学ぶ

聖光房弁長弟子入り

建久8(1197)年、後に浄土宗の第二祖と仰がれる聖光房弁長(べんちょう) 、三十六歳で法然上人に弟子入りする。<< 戻る
仏教を学ぶ

日本で初めてとなる禅宗道場・聖福寺開山

建久6(1195)年、日本で初めてとなる禅宗道場として博多の聖福寺(しょうふくじ)が栄西禅師によって開かれる。<< 戻る
仏教を学ぶ

勢観房源智弟子入り

建久6(1195)年、後に法然上人に常随給仕する勢観房源智 (げんち) 、十三歳で法然上人に弟子入りする。<< 戻る
仏教を学ぶ

禅宗停止の宣旨

建久5(1194)年、延暦寺、興福寺の訴えにより朝廷から禅宗停止の宣旨が下されるなど、栄西禅師の都での禅の布教は困難を極めた。<< 戻る
仏教を学ぶ

栄西禅師再び南宋に留学

建久2(1191)年に栄西禅師が宋から帰国し、臨済宗黄龍派の禅を伝える。 << 戻る
仏教を学ぶ

法然上人と九条兼実

文治5(1189)年8月、九条兼実と法文語および往生業を語る。<< 戻る
仏教を学ぶ

栄西禅師再び南宋に留学

文治3(1187)年、再び南宋に入り、更にインドへの巡蹟を目指すも許可されず、天台山万年寺の虚庵懐敞(きあんえじょう)のもとで臨済宗黄龍派の禅を修行し、その法の印可を受け継いで建久2(1191)年に帰国しました。<< 戻る