buddhism

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仏教伝来

552年、 百済から仏教が伝わる(538年の説もある)。<< 戻る
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梁の武帝、盂蘭盆斎を設ける

梁の武帝の大同4年(538年)に帝自ら同泰寺で盂蘭盆斎を設けたことが、1269年に南宋の志磐が編纂した『仏祖統紀』に書かれています。
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仏教伝来

538年、 百済から仏教が伝わる(552年の説もある)。<< 戻る
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菩提達磨大師(ぼだいだるまたいし)

お釈迦さまから28代目の祖師である菩提達磨大師は、西インドから中国に至り、大乗仏教をもたらしたインド人僧侶です。震旦初祖、円覚大師とも呼ばれ、達摩と表記される場合もあります。般若多羅尊者に就いて嗣法。弟子には慧可、道育、尼総持、道副がいます。達磨大師の伝記に関しては諸説ありますが、禅宗の伝統的な見解では、中国の梁の時代・普通8(527)年に南海より広州(広東省)に上陸し、梁の都・建康(南京)に来て、武帝(蕭衍)と問答を交わし、帝との機縁がかなわず北に渡り、洛陽(河南省)郊外の嵩山少林寺というところで面壁九年の坐禅を修行され、不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏の宗旨を標榜し、禅宗の初祖と仰が...
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般若多羅(はんにゃたら)

不如蜜多に就いて嗣法。第27祖。弟子には菩提達磨がいる。・「第二十七祖般若多羅尊者道、貧道出息不隨衆縁、入息不居蘊界。常転如是経、百千万億巻。非但一巻両巻(貧道は出息衆縁に隨はず、入息蘊界に居せず。常に如是経を転ずること、百千万億巻なり。但一巻両巻のみにあらず)。」(「正法眼蔵」仏経)・「初祖かつて般若多羅尊者のみもとにして、仏訓道骨、まのあたり証伝しきたれり、根源をもて根源を証取しきたれり、枝葉の本とせるところなり。」(「正法眼蔵」葛藤)生誕 命日 << 戻る
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婆舎斯多(ばしゃした)

6世紀頃、カシミール生まれの仏教僧。師子菩提に就いて嗣法。弟子には不如蜜多がいる。生誕 命日 << 戻る
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不如蜜多(ふにょみった)

婆舎斯多に就いて嗣法。弟子には般若多羅がいる。生誕 命日 << 戻る
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『盂蘭盆経』(うらぼんきょう)

『盂蘭盆経』は400年代の終わり頃か500年代の初め頃に中国で成立した偽経(インドで成立したお経ではない)だと考えられています。このページに掲載しているものには竺法護(じくほうご)訳と書かれ、そう信じられていますが、竺法護は中国の西晋(せいしん。256年~316年)時代の僧侶なので、現段階で学問上はそこまで時代をさかのぼることはできないということです。それでは、どんな記録が残っているのかというのを次にあげていきます。1269年に南宋の志磐が編纂した『仏祖統紀』では、梁の武帝の大同4年(538年)に同泰寺で盂蘭盆斎を設けたことが伝えられ、梁の武帝と同時代の宗懍が編纂した『荊楚歳時記』には、7月1...
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師子菩提(ししぼだい)

6世紀頃のインドの仏教僧。鶴勒那に就いて嗣法。弟子には婆舎斯多がいる。梵語(サンスクリット語)でĀryasimha(アーリヤシンハ)、意訳して師子、獅子とも表記されます。インド西北部にあった罽賓国(けいひんこく)で布教をしていた時、檀弥羅王(だんみらおう)は仏教を弾圧し、多くの衆僧を殺害しました。王は師子菩提の首を斬りましたが、血が出ずに白乳が涌くように出ると同時に、王の右臂が刀を持ったまま地に落ち、7日後に亡くなったといいます。生誕 命日 << 戻る
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鶴勒那(かくろくな)

月氏国のバラモンの家系に生まれました。摩拏羅に就いて嗣法。弟子には師子菩提がいる。梵語(サンスクリット語)でHaklenayaśa(ハクレーナヤシャ)といい、鶴勒夜奢、鶴勒とも記述されます。生誕 命日 << 戻る
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ナーランダ/ナーランダ大学

ナーランダ大学とは、427年に建てられた世界最古の大学であったと考えられており、インド仏教の最重要拠点であった僧院です。5世紀初頭のインド、グプタ王朝のクマーラグプタ1世(シャークラ・ディティヤ王)が創建しました。ナーランダは「蓮のある場所」「知識の提供者」という意味です。それから12世紀ごろまで栄え、数千人の僧侶が学んでいたと伝えられ、多い時には1万人の学僧が集まったという記述もあります。現在はその一部が発掘、整備され公園になっています。また、ラージギル(王舎城)まで15km、ブッダガヤまで82kmほどという位置関係です。下の写真は、この地方出身と伝えられるブッダ十大弟子の1人であるサーリプ...
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倭王讃(仁徳天皇?)が、宋に使者を送る

421年、倭王讃(仁徳天皇?)が、宋に使者を送る。<< 戻る
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『梵網経』(ぼんもうきょう)

『梵網経』と通称される大乗仏教の経典『梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品第十』は鳩摩羅什訳とされる漢訳が伝わりますが、原本は伝わっておらず、パーリ語で書かれた上座部仏教所伝の『梵網経』とは内容がまったく異なり、「父母に孝順であること」など中国的な内容が見られることからも、宋(南朝/420年~479年)の頃に成立した偽経(中国撰述経典)とみる説が有力です。僧肇の序文によれば、原本『梵網経』120巻61品の1品を訳出したものであるという。 上下の二巻本で、上巻は菩薩の階位である四十種類の法門を述べている。下巻は十重四十八軽戒と呼ばれる禁戒を述べたもので、下巻を特に「菩薩戒経」と呼ぶ。中国に伝わる仏教にお...
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摩拏羅(まぬら)

世親/婆修盤頭に就いて嗣法。弟子には鶴勒那がいる。伝法の偈 心随万境転  心は万境に随って転ず転処実能幽  転処実に能く幽なり随流認得性  流れに随って性を認得すれば無喜亦無憂  喜びもなくまた憂いもなし生誕 命日 << 戻る
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世親/婆修盤頭(せしん/ばしゅばんず)

インド西北部にあったガンダーラ国(現在のパキスタン、ペシャーワル地方)のバラモンの家系に生まれました。父の名はカウシカ(Kauśika、憍尸迦)、母の名はヴィリンチ(Viriñci、比隣持)。実の兄は無著。鳩摩羅多に就いて嗣法。弟子には摩拏羅がいる。梵語(サンスクリット語)のVasubandhu(ヴァスバンドゥ)の音写で婆修盤頭、婆薮般豆、婆薮般頭と記述されることがありますが、一般的には意訳された世親、天親も知られた名前です。唯識思想を大成し、以降の仏教において大きな潮流となりました。著作には『阿毘達磨倶舎論』『唯識二十論』『唯識三十頌』『浄土論』他多数。生誕 300年頃命日 400年頃<< ...
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大和朝廷の軍が朝鮮で高句麗と戦う

391年、大和朝廷の軍が朝鮮で高句麗と戦い、任那に日本府を設ける。このころ、朝鮮からの渡来人が多く、百済から織物・彫刻・陶芸などの技術が伝わる。<< 戻る
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闍夜多(しゃやた)

インドの仏教僧。鳩摩羅多に就いて嗣法。弟子には世親/婆修盤頭がいる。生誕 命日 << 戻る
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鳩摩羅多(くもらた)

kumāralabdha。伽耶舎多に就いて嗣法。弟子には闍夜多がいる。生誕 命日 << 戻る
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敦煌莫高窟

敦煌莫高窟(とんこうばっこうくつ)は、敦煌の町の南東方約20kmに4世紀中ごろから13世紀にかけて造営された仏教遺跡です。甘粛省敦煌市内の莫高窟と西千仏洞の総称で甘粛省にある敦煌石窟の代表でもあり、中国佛教の有名な3大石窟の一つです。730余の石窟があり,塑造仏(そぞうぶつ)・壁画などの仏教美術遺品のほか、無数の古写経典や古文書類が発見されています。東西文化交流史上、また中国仏教史上にも重要な存在です。<< 戻る
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青岸渡寺 開基

開基は仁徳天皇の時代(350年~450年の間頃)、印度天竺の僧、裸形上人が那智大滝において修行を積みその暁に滝壷で八寸の金製の如意輪観音を感得し、ここに草庵を営んで安置したのが最初です。 << 戻る
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補陀洛山寺 開基

開基は仁徳天皇の時代(350年~450年の間頃)、インドから漂着した裸形上人が開いた。 << 戻る
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大和朝廷が国内をほぼ統一する

350年、このころ、大和朝廷が国内をほぼ統一する。大和朝廷は、大王(おおきみ・・・のちの天皇)を中心とした豪族の連合政権。氏と姓にもとづく政治→氏姓制度<< 戻る
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古墳文化

350年前後、各地に古墳がつくられる(前方後円墳・円墳・方墳)。大阪府堺市の仁徳陵古墳(大山古墳)は日本最大。前方後円墳は日本独特の形。埴輪。<< 戻る
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朝鮮に高句麗・百済・新羅の三国が成立

350年、朝鮮に高句麗・百済・新羅の三国が成立。<< 戻る
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伽耶舎多(かやしゃた)

4世紀頃、西域の摩提国(まだいこく)出身の仏教僧。僧伽難提に就いて嗣法。弟子には鳩摩羅多がいる。總持寺関連の書物では「迦」の文字を採用して「迦耶舎多」としていますが、正法眼蔵の各巻では「伽耶舎多」表記を採用しているようです。生誕 命日 << 戻る
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僧伽難提(そうぎゃなんだい)

4世紀頃のインドの仏教僧。室羅閥城(しらばつじょう/舎衛城/シュラーヴァスティー)の宝荘厳王(ほうしょうごんおう)の王子。羅睺羅多に就いて嗣法。弟子には伽耶舎多がいる。生誕 命日 << 戻る
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天童寺-浙江省寧波市鄞州区

・天童寺 中国・浙江省寧波市鄞州区天童寺(てんどうじ)は、300年(西晋の永康元年)遊行僧の義興により創建されたと伝えられ、唐の初年、現在の位置に移ったと言われている。天童禅寺、天童山景徳禅寺、太白山天童景徳寺とも呼ばれ、東南佛国とも称される禅宗寺院。道元禅師が当寺の住持である如浄禅師から正伝の仏法を受け継いだことから、日本の曹洞宗は天童寺を祖庭としている。<< 戻る
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『般若心経』(はんにゃしんぎょう)

『般若心経』は、正式には『般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみったしんぎょう)』といい、さらに略して『心経(しんぎょう)』と呼ばれることもあります。サンスクリット語では、प्रज्ञापारमिताहृदय(Prajna-paramita-hṛdaya、プラジュニャーパーラミター・フリダヤ)で、現在一般的に広まっているのは玄奘三蔵が漢訳した『般若心経』(掲載のもの)です。成立年代や成立場所がはっきりしていないものの紀元後300年から400年の間にインド文化圏で成立したと考えられています。なお、現存するテキストで最古のものは、鳩摩羅什(くまらじゅう)が漢訳した『摩訶般若波羅蜜大明呪経』一巻で、402...
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羅睺羅多(らごらた)

インドの仏教僧。迦那提婆に就いて嗣法。弟子には僧伽難提がいる。Rāhulabhadra(ラーフラバドラ)、羅睺羅(らごら)、羅睺羅跋陀羅(らごらばっだら)とも表記されます。生誕 200年頃命日 300年頃<< 戻る
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『正法華経』

286年、『法華経』の梵語(サンスクリット語)を竺法護(中国・西晋時代の西域僧)が『正法華経』10巻26品に漢訳する。<< 戻る
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晋が中国を統一

280年、晋が中国を統一(~316)。<< 戻る
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迦那提婆(かなだいば)

3世紀頃のインドの仏教僧。南インドのバラモンの家庭に生まれました。那伽閼刺樹那(龍樹/ナーガールジュナ)に就いて嗣法。弟子には羅睺羅多がいる。Āryadeva(アーリヤデーヴァ)、提婆、聖提婆とも表記され、伽那提婆という表記もあります(「正法眼蔵」仏祖)。著作に『百論』、『四百論』。南インドで外道に帰依していた王を論破したり、邪道の論師を多数論破したが、その弟子の一人に恨まれて殺されてしまう。しかし、命が終わる前に到っても、その外道の愚かさをあわれみ、自分を殺そうとした者をも救ったといわれます。生誕 170年頃命日 270年頃<< 戻る