buddhism

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光善寺-東京都港区

・光善寺 浄土真宗本願寺派 東京都港区元麻布1-7-4天正11年(1583年)、本願寺11代門主顕如上人のご教導により僧、明藝(みょうげい)、武蔵国世田ヶ谷上宿に一宇を建立し、松本山光善寺と号す。(公式ページより) << 戻る
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斎藤利三(さいとうとしみつ)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。明智光秀の家臣。春日局の父。生誕 天文3年(1534年)命日 天正10年6月17日(1582年7月6日)陽剛院殿亡蹄利三居士<< 戻る
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明智光秀(あけちみつひで)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。越前の朝倉義景に仕えた後、織田信長に従う。細川藤孝(幽斎)と共に将軍足利義昭と信長の間を取りもち、公家との交渉で力を発揮した。信長の命で丹波(現在の福知山、亀岡、南丹、綾部、京丹波と兵庫県篠山、丹波の各市町)を平定し、福知山城(福知山市)を築城した。亀山城(亀岡市)から出陣し、信長を本能寺(中京区)で討つ。わずか10日余り後、天王山(大山崎町)の戦いで豊臣秀吉に敗れてその日に命を落とし、「三日天下」と言われるようになった。生誕 1528年頃命日 天正10年6月13日(1582年7月2日)秀岳院宗光禅定門前日洲条鉄光秀居士長存寺殿明窓玄智大禅定門<<...
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織田信長(おだのぶなが)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。三英傑の一人。全国統一を推し進めた。尾張の清洲の城主で1560年に桶狭間の戦いで今川義元をやぶった後、急激に勢力を強めた。1568年、足利義昭を助けて京都に上り、義昭を室町幕府の将軍にした。1570年には姉川の戦いで、浅井・朝倉の連合軍をやぶり、浅井氏、朝倉氏を滅ぼした。1573年に室町幕府第15代将軍の義昭を追放し、約240年続いた室町幕府を滅亡に追い込んだ。1575年、長篠の戦いで武田勝頼をやぶり、翌年、近江に安土城を築いて全国統一のための本拠地とした。しかし、全国統一まであと一息のところで、1582年中国地方の毛利氏を攻略する途中、本能寺...
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本能寺の変

天正10年6月2日(1582年6月21日)、本能寺の変。織田信長が京都の本能寺で明智光秀におそわれ、自刃。<< 戻る
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森蘭丸(もりらんまる/成利/なりとし)

安土桃山時代の武将。織田信長の近習。俗称は蘭丸。本能寺の変で主君と2人の弟と共に討死した。名前については異説が多く、幼名を乱(らん)とするものや、諱を長定(ながさだ)や長康(ながやす)とするものなど。生誕 永禄8年(1565年)命日 天正10年6月2日(1582年6月21日)月江宗春居士瑞桂院殿鳳山智賢居士正翁定是禅定門<< 戻る
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織田信忠(おだのぶただ)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。織田信長から生前に家督を譲られ、後継者と認められた。織田家当主二代目となる。武田氏を滅亡させた直後に本能寺の変で父・信長は本能寺、信忠は新二条御所にて自刃した。岐阜城主。生誕 弘治3年(1557年)命日 天正10年6月2日(1582年6月21日)大雲院三品羽林仙巖大禅定門<< 戻る
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武田勝頼(たけだかつより)

戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国大名。甲斐武田家第20代当主。 通称は四郎。当初は諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、諏訪勝頼、武田四郎、武田四郎勝頼ともいう。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。生誕 天文15年(1546年)命日 天正10年3月11日(1582年4月3日)景徳院殿頼山勝公大居士<< 戻る
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願正寺-大分県日田市

・願正寺 真宗大谷派 大分県日田市隈2-8-29天正9年(1582年)、西心和南により、現在地(隈町)に圓庵が結ばれました。以来、宗誓禅師、祐心律師、祐圓前大徳、釋永知と法灯は受け継がれています。 寛永12年(1636年)、初代住職となる大心庵釋祐心の願いにより、大谷本願寺13代宣如より「親鸞聖人御影」が下付されて、真宗寺院としての形が完成しました。(リンク先より) << 戻る
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長延寺-神奈川県横浜市緑区

・命帰山 長延寺 浄土真宗本願寺派 神奈川県横浜市緑区三保町2440開基玄栄法師は、武蔵国都築群小机城の領主笠原越前守信為の嫡子で、童名を竹丸という。天正10年(1582年)顕如上人、織田信長との和睦後故郷都築群吉田村(現在の港北区新吉田町)に帰り、一宇を建立する。上阪しその旨、顕如上人へ報告、方便法身の尊形および蓮如上人御真筆の六字名号と併せて、寺号長延寺、法名玄栄を下附され開基となる。(リンク先より) << 戻る
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安楽寺-東京都港区

・安楽寺 浄土真宗本願寺派 東京都港区芝1-12-181582年(天正10年) 安楽寺創建 ※「本能寺の変」の年1639年(寛永18年) 開基(一世)釋良信往生1923年(大正12年) 関東大震災の延焼により本堂消失1929年(昭和4年) 本堂再建(リンク先より) << 戻る
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長源寺-島根県松江市

・長源寺 臨済宗南禅寺派 島根県松江市東津田町1030長源寺が建てられたのは天正10年と伝えられており、開山は立翁廣本禅師大和尚(りゅうおうこうほんぜんじだいおしょう)です。同じく松江市にある南禅寺派宝亀山安国寺の中興です。中興とは、いったん盛んになったものが、また再び盛んになることをいいます。(リンク先より)※天正10年 1582年 << 戻る
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東照寺-山形県尾花沢市

・東照寺 曹洞宗 山形県尾花沢市大字富山543東照寺の前身は岩谷沢の宝珠山岩生寺という天台宗の寺でありました。その後、関谷に移り、廃寺になっておったところに、天正10年(1582年)向川寺12世 學應憲初大和尚様をご開山に招き、曹洞宗の寺院として現在に至っております。(リンク先より) << 戻る
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大用寺-神奈川県秦野市

・井宮山大用寺のホームページ 曹洞宗 神奈川県秦野市曽屋2-1-8大用寺は山号を井宮山(セイキュウザン)、寺号を大用寺とする曹洞宗の寺院です。御開山は、天正十年(1582年)、真翁宗達大和尚によるが、織豊時代の天正十九年(1591年)宗達遷化、と記録にある(リンク先より) << 戻る
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大友・有馬・大村ら九州のキリシタン大名が少年使節をローマに送る

1582年、大友・有馬・大村ら九州のキリシタン大名が少年使節をローマに送る。<< 戻る
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山城(京都府)で検地を行う

1582年、羽柴秀吉が山城(京都府)で検地を行う。<< 戻る
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山崎の戦い

1582年、山崎の戦い。羽柴秀吉が明智光秀をやぶる。<< 戻る
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勝覚寺-香川県東かがわ市

・勝覚寺 真宗興正派 香川県東かがわ市三本松426天正四年三好氏落城のとき、その家臣板西城主赤澤信濃守は中富川の合戦において討ち死にし、天正十年(1582)赤澤信濃守の一子正本法師が菩提を弔うため、大坂天満興正寺で証秀上人につき得度し、丹生の郷小砂村に小砂坊を開基したのが勝覚寺の始めとされている。(公式ページより) << 戻る
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浄恩寺-和歌山県田辺市

・浄恩寺 浄土宗 和歌山県田辺市元町273開山は天正九年に光誉岌山上人により御所谷(現在地より西に500m)に創建され、後に慶長13年、秀誉良山上人により現在地に移転されます。(リンク先より)※天正九年 1581年<< 戻る
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宝円寺-石川県金沢市

・宝円寺 曹洞宗 石川県金沢市宝町6-14天正9年(1581年)、利家公が能登国所口(今の石川県七尾市)に移られた際、同和尚を越前から招き入れ、一寺を創建されるがこれを「宝円寺」と名付けられた。 尚、同11年(1583年)、利家公が金沢城主となられるに及び、再び大透和尚を金沢へ招き、「護国山宝円寺」を建立し開祖とされた。(リンク先より) << 戻る
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福田院-山形県新庄市

・福田院 曹洞宗 山形県新庄市大字福田934天正9年(1581)に、清水大蔵公の家臣であった角沢楯主 角沢伊勢守と同妻の二霊を開基とし、角沢伊勢守の菩提寺として会林寺第七世玉室秀建大和尚様により開山されました。もともと「白龍山 西園寺」と称されましたが、元和元年(1615)に新庄市福田に移り、「白龍山 福田院」と号しました。(リンク先より) << 戻る
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聞乗寺-埼玉県上尾市

・雲龍山 「聞乗寺」 浄土真宗本願寺派 埼玉県上尾市原市290聞乗寺は現在埼玉県上尾市に本堂(聞法道場)と御堂内墓地(納骨堂)を有りしていますが、元来は富山県氷見市に寺籍を有する寺院です。その歴史は古く天正9年(1581)真言宗石動山天平寺の僧慶専により開基創建、後年本願寺第十二代准如宗主(1577~1630)のとき御本尊を本願寺より拝受し浄土真宗に改宗しました。現本堂は大正元年(1911)の建立、鐘楼堂は江戸時代の建立でしたが、平成21年修復いたしました。(リンク先より) << 戻る
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円乗寺-東京都文京区 – 八百屋於七墓所

・円乗寺 八百屋於七墓所 天台宗 東京都文京区白山1-34-6圓乗寺は天正9年(1581年)、圓栄法印が本郷に密蔵院として創建したと伝えられており、元和6年(1620年)に實仙法師が圓乗寺と寺号を改めました。本尊は釈迦牟尼如来と、江戸三十三観音第11番札所の聖観世音菩薩です。(リンク先より)八百屋於七墓所。 << 戻る
仏教を本気で学ぶ

織田信長、高野攻め

天正九年(1581年)、織田信長、高野攻め。高野山は比叡山と同じように、独自の武力を蓄えていた。寺領は17万石以上あり、3万6千の兵を養っていたと記されている。高野山が織田信長を裏切った荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せる。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。一方、『高野春秋』では前年8月に高野山宗徒と荒木村重の残党が組織する「高野大衆一揆」の関係の有無を問いかける書状を松井友閑を通じて送り付け、続いて9月21日に一揆に加わった高野聖らを捕縛し入牢あるいは殺害した。このため天正9年(1581年)1月、根来寺と協...
仏教を本気で学ぶ

石山合戦終わる

1580(天正八)年3月、本願寺、織田信長と和睦(石山合戦終わる)。8月、教如、本願寺を退く。大坂本願寺焼ける。<< 戻る
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大日院光明寺-山口県美祢市

・大日院光明寺 西山浄土宗 山口県美祢市西厚保町原1266寺伝によると現光明寺の開基は真言時代の旧光明寺焼失からおよそ180年後の天正8年(1580年)であったという。かつてのご本尊大日如来が鎮座する草庵(大日堂)のそばに浄土教寺院として開かれたのである。(リンク先より) << 戻る
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妙音寺-神奈川県三浦市

・花山曼荼羅 妙音寺 公式サイト 高野山真言宗 神奈川県三浦市初声町下宮田119「新編相模国風土記稿」によれば、当山は今から400年ほど前(天正年間、1580年代)に中興の祖、賢栄法印により、「昔の寺地、妙音寺原(現在地より北へ二キロの台地)より移し、建設されたもの」とある。当時は戦国大名の一人である小田原北条氏の雨乞いの祈願所として庇護を受けていた。(リンク先より)※天正年間 1573年からグレゴリオ暦1593年 << 戻る
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真宗寺-兵庫県姫路市

・真宗寺 浄土真宗本願寺派 兵庫県姫路市新在家本町3-12-8天正八年 1580年 順西 安室村新在家馬生(現、西新在家)に真宗寺を開基 播磨国末寺帳天和三年 1683年 順慶 一宇(本堂)を創建 兵庫県飾磨郡誌(リンク先より) << 戻る
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玉泉寺-静岡県下田市

・玉泉寺 曹洞宗 静岡県下田市柿崎31-6真言宗の草庵であったのを、天正の初め(1580年代)開山一嶺俊栄大和尚の来錫によって曹洞宗に改宗され、現在に及ぶこと440年の歴史を有する古刹であります。嘉永7年(1854年)3月、日米和親条約の締結、同年5月の付録13ヶ条の締結により、当寺は米国黒船乗員の休息所・埋葬所に指定されました。その2年後、安政3年(1856年)タウンゼンド・ハリス総領事、通訳官ヒュースケンが下田に着任し、同年8月玉泉寺を日本最初の米国総領事館として開設しました。境内に星条旗が掲揚され、以来2年10カ月、玉泉寺は幕末開国史の中心舞台となりました。又、それ以前は日露和親条約の交...
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東泉寺-静岡県御前崎市

・東泉寺 曹洞宗 静岡県御前崎市池新田25-1天正八年(1580年)、笠原村龍巣院の住職能天春藝が、この洞仙寺跡に堂宇を建てて、弟子たちと共に移り住みました。時はちょうど、本能寺の変の2年前に当たります。翌九年に笠原村龍巣院末寺「東泉寺」として開創し、ここで寺の基礎を築きました。その頃の当地はまだ住むも少なく、信徒の数も開祖当初はわずかに13戸程度と聞きます。開祖能天春藝は、ここで13年間住職として勤めた後、求められて龍巣院の住職に戻りました。(リンク先より) << 戻る
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松平信康(まつだいらのぶやす)- 徳川信康(とくがわのぶやす)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川家康の長男。母は関口親永の娘で今川義元の姪・築山殿。また、後に松平宗家の居城の岡崎城主を務めたため、祖父・松平広忠同様に岡崎三郎と名乗った。永禄10年(1567年)5月、信長の娘である徳姫と結婚し、共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らす。同年6月に家康は浜松城(浜松市中区)に移り、岡崎城を譲られた。7月に元服して信長より偏諱の「信」の字を与えられて信康と名乗る。元亀元年(1570年)に正式に岡崎城主となる。天正元年(1573年)に初陣する。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは徳川軍の一手の大将として参加し、その後も武田氏との戦いでいくつもの...
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竹中半兵衛(たけなかはんべえ/重治/しげはる)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初名は重虎、のちに重治。通称は半兵衛。父は竹中重元、弟に重矩。子に重門。従弟に竹中重利。 羽柴秀吉の参謀として活躍し、黒田孝高と共に「両兵衛」「二兵衛」と称された。6月13日の命日と地元の農作業が落ち着いた一月後の7月13日には「軍師竹中半兵衛重治公を偲ぶ法要」が恒例で供養が行われる。生誕 天文13年9月11日(1544年9月27日)命日 天正7年6月13日(1579年7月6日)深竜水徹<< 戻る