buddhism

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今山大師(おだいっさん)(@imayama_daishi) • Instagram

1839年(天保10年)延岡の地で疾病が猛威を振るいました。 そこで延岡城下の大師信徒たちが高野山金剛峰寺(こんごうぶじ)まで行き、弘法大師座像(現在の本尊)を勧請(かんじょう)して「家内安全」「息災延命」「五穀豊穣」「商工発展」の祈願のために大師庵を経てたことが縁起となっています。(リンク先より)・今山大師(おだいっさん)(@imayama_daishi) • Instagram
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今山大師-宮崎県延岡市

・今山大師 単立 宮崎県延岡市山下町2-39981839年(天保10年)延岡の地で疾病が猛威を振るいました。 そこで延岡城下の大師信徒たちが高野山金剛峰寺(こんごうぶじ)まで行き、弘法大師座像(現在の本尊)を勧請(かんじょう)して「家内安全」「息災延命」「五穀豊穣」「商工発展」の祈願のために大師庵を経てたことが縁起となっています。(リンク先より) << 戻る
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蛮社の獄

1839年、蛮社の獄。渡辺崋山・高野長英らが幕府の鎖国政策を批判してとらえられる。<< 戻る
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大塩平八郎(おおしおへいはちろう)

江戸時代後期の儒学者、大坂町奉行組与力。大塩平八郎の乱を起こした。 通称は平八郎、諱は正高、のち後素。字は子起。号は中斎。家紋は揚羽。大塩家は今川氏の末流で、代々大坂東町奉行組与力を務めており、平八郎は初代の大塩六兵衛成一から数えて8代目にあたる。大坂天満に生まれた。大塩平八郎の乱は江戸後期、大坂で大塩平八郎らが救民のため挙兵した反乱。1836年(天保7)は大飢饉(ききん)であったため、凶作・飢饉により米価が高騰し、大坂市中には飢餓による死者が続出していた。もと大坂町奉行与力(まちぶぎょうよりき)であり陽明学者であった大塩平八郎は、こうした市中の惨状を見て、養子格之助(かくのすけ)を通じ、救済...
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大塩平八郎の乱

1837年、大塩平八郎の乱。大阪で陽明学者で大阪奉行所の元役人の大塩平八郎が、貧しい人々を救おうとして奉行所に申し入れたが聞き入れられず、兵をあげた。乱は1日でしずめられたが、大阪は直轄地であり、また元役人であったことから、幕府は大きなショックを受けた。<< 戻る
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田能村竹田(たのむらちくでん)

江戸時代後期の南画家。 幼名は磯吉、後に玄乗、行蔵。名は孝憲。字は君彜。通称は行蔵。別号は九畳仙史・竹田老圃・竹田邨民・秋心・随縁居士・九峯無戒衲子・紅荳詞人・田舎児・藍水狂客・三我主人・西野小隠・秋声館主人など。更に斎号に竹田荘・補拙廬・雪月書堂・対翠書楼など多数。生誕 安永6年6月10日(1777年7月14日)命日 天保6年8月29日(1835年10月20日)<< 戻る
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呑山観音寺-福岡県糟屋郡

・呑山観音寺 高野山真言宗 福岡県糟屋郡篠栗町大字萩尾227-4ご本尊は「千手千眼観世音菩薩」で、天保6年の篠栗霊場開創より以前からこの地に祀られてきたと伝わる石仏です。秘仏として、厨子の中に安置されていますが、10月の第3日曜日の秋季大祭の法会の時にご開帳されます。(リンク先より)※天保6年 1835年 << 戻る
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知恩院、大方丈・黒門・集会堂などの修復

1835年(天保6年)、大方丈・黒門・集会堂などの修復なる。<< 戻る
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宝円寺-愛知県北名古屋市(観音寺-愛知県一宮市)

・宝円寺・観音寺のHP 曹洞宗 愛知県北名古屋市西之保字東屋敷20山号を大法山と号し、本尊阿弥陀如来、曹洞宗三ツ淵正眼寺ソウトウシュウミツブチショウゲンジの末寺。『寛文村々覚書』に、宝蔵庵と記されています。天保四(1833)年三月に、正眼寺三十六世賢外逸俊和尚が寺号を宝円寺に改め法地開山となりました。山号を永昌山と号し、本尊十一面観世音菩薩、曹洞宗三ツ淵正眼寺の末寺。もとは真言宗の巨刹であったが、応仁の兵燹(ヘイセン)(1467)に遭ったと伝えられている。(リンク先より) << 戻る
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天保の大飢饉

1833年、天保の大飢饉。<< 戻る
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歌川広重「東海道五十三次」

1833年、歌川広重の「東海道五十三次」ができる。<< 戻る
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頼山陽(らいさんよう)

大坂生まれの江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人。幼名は久太郎、名は襄、字は子成。山陽、三十六峯外史と号した。主著に『日本外史』があり、これは幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなった。生誕 安永9年12月27日(1781年1月21日)命日 天保3年9月23日(1832年10月16日)<< 戻る
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鼠小僧次郎吉(ねずみこぞうじろきち)

江戸時代後期の盗賊。本名は次郎吉。鼠小僧次郎吉として知られる。本業は鳶職であったと言われる。大名・旗本など権力者の武家屋敷のみを狙って盗みに入り、貧しい人達にそれを施したとされる事から、後世に義賊として伝説化された。鼠のように天井裏から侵入するため鼠小僧という異名がついた。32回の盗みを行なった時点で一度捕まり「入れ墨刑」を受ける。しかし改心することなく、1832年に二度目のお縄。自白によると、保釈後の10年間でさらに71ヵ所、90回に及ぶ盗みを重ねていた。生涯に侵入した屋敷は99軒、被害総額は約3120両(約3億円)。最期は市中引き回しのうえ小塚原刑場で磔にされ、首が晒された。その後、頭部は...
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葛飾北斎の「富嶽三十六景」

1832年、葛飾北斎の「富嶽三十六景」ができる。<< 戻る
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十返舎一九(じゅっぺんしゃいっく)

十返舎一九は、江戸時代の戯作者で『東海道中膝栗毛』の作者として知られています。生誕 1765年(明和2年)命日 1831年(天保2年)8月7日67歳心月院一九日光信士辞世の句は「此世をば どりやおいとまに せん香と ともにつひには 灰左様なら 」。浅草の東陽院に葬られ、墓碑は東京都中央区勝どき4丁目に移転した同院に残っています。<< 戻る
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良寛(りょうかん)

江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家。号は大愚。本名は山本栄蔵。18歳の時、突如出家し、子供の頃に勉学を積んだ曹洞宗海嶽山光照寺(出雲崎町尼瀬)にて修行をする。安永8年(1779年)22歳の時、備中玉島(現・岡山県倉敷市)の円通寺の国仙和尚を"生涯の師"と定め、師事する。寛政2年(1790年)印加(修行を終えた者が一人前の僧としての証明)を賜る。翌年、良寛34歳の時「好きなように旅をするが良い」と言い残し世を去った国仙和尚の言葉を受け、諸国を巡り始めた。48歳の時、越後国蒲原郡国上村(現燕市)国上山(くがみやま)国上寺(こくじょうじ)の五合庵(一日五合の米があれば良い、と農家から貰い...
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大師寺-三重県四日市市

・大師寺 高野山真言宗 三重県四日市市北納屋町4-12天保年間(1830年~1844年)に四日市市北納屋町に住む信仰厚き人々により、弘法大師像を勧請して、一宇の御堂が建立されました。それは四日市における真言宗最初の道場でありました。当時より、海上安全・家内安全を祈り、大師様のご加護により、安穏の日々を送って来たと伝えられています。(リンク先より) << 戻る
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松平定信(まつだいらさだのぶ)

江戸時代中期の大名、老中。陸奥国白河藩3代藩主。定綱系久松松平家9代当主。江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる。1787年から1793年まで寛政の改革を行った。定信は田沼の政策の経済政策をことごとく覆したとしばしば言われるが、しかし近年では田沼政権との連続面があったことも重視される。生誕 宝暦8年12月27日(1759年1月25日)命日 文政12年5月13日(1829年6月14日)守国院殿崇蓮社天誉保徳楽翁大居士<< 戻る
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高橋景保(たかはしかげやす)

江戸時代後期の天文学者。通称、作左衛門。天文学者である高橋至時の長男として大坂に生まれた。渋川景佑の兄。 高橋景保は幕府の命により伊能図をもとに日本輿地図藁を作成する。江戸で幕府天文方高橋景保のもとに保管されていた伊能図をシーボルトに見せた。地図は禁制品扱いであったが、高橋はその写しをシーボルトに渡した。後のシーボルト事件はこの禁制の地図の写しを持ち出したことにあった。生誕 天明5年(1785年)命日 文政12年2月16日(1829年3月20日)<< 戻る
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正壽寺-愛知県名古屋市西区

・正壽寺 曹洞宗 愛知県名古屋市西区則武新町1-8-2金剛山 正壽寺は、名古屋市西区にある曹洞宗の寺院です。文政12年に活舜全孝尼首座と養頑護拙尼首座が開基し、大光智仙尼和尚初住にて開山しました。ご本尊さまに釈迦牟尼仏をお祀りしています。(リンク先より)※文政12年 1829年 << 戻る
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小林一茶(こばやしいっさ)

俳人。本名は小林弥太郎、一茶とは俳号である。別号は圯橋、菊明、新羅坊、亜堂。庵号は二六庵、俳諧寺。 信濃国柏原で中農の子として生まれた。15歳の時に奉公のために江戸へ出て、やがて俳諧と出会い、「一茶調」と呼ばれる独自の俳風を確立して松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳諧師の一人となった。代表作『父の終焉日記』『七番日記』『おらが春』生誕 宝暦13年5月5日(1763年6月15日)命日 文政10年11月19日(1828年1月5日)<< 戻る
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大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)

江戸時代後期の伊勢国奄芸郡白子の港を拠点とした回船の船頭。 天明2年、嵐のため江戸へ向かう回船が漂流し、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。ロシア帝国の帝都サンクトペテルブルクで女帝エカチェリーナ2世に面会して帰国を願い出、漂流から約9年半後の寛政4年に根室港入りして帰国した。生誕 宝暦元年(1751年)命日 文政11年4月15日(1828年5月28日)釋久味信士<< 戻る
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シーボルト事件

1828年、シーボルト事件。フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが国禁である日本地図などを日本国外に持ち出そうとして発覚した事件。役人や門人らが多数処刑された。<< 戻る
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高田屋嘉兵衛(たかたやかへえ)

江戸時代後期の廻船業者、海商である。幼名は菊弥。淡路島で生まれ、兵庫津に出て船乗りとなり、後に廻船商人として蝦夷地・箱館に進出する。国後島・択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展に貢献する。ゴローニン事件でカムチャツカに連行されるが、日露交渉の間に立ち、事件解決へ導いた。生誕 明和6年1月1日(1769年2月7日)命日 文政10年4月5日(1827年4月30日)高譽院至徳功阿唐貫居士<< 戻る
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大槻玄沢(おおつきげんたく)

一関藩出身の江戸時代後期の蘭学者。諱は茂質、字は子煥。出身地の磐井から磐水と号す。『解体新書』の翻訳で有名な杉田玄白・前野良沢の弟子。「玄沢」とは、師である2人から一文字ずつもらってつけた通り名である。天明8年(1788年)、蘭学の入門書『蘭学階梯』を記したことで、蘭学界での地位を確立した。師である杉田玄白から『解体新書』の改訂を命ぜられ、寛政2年(1790年)改訂に着手した。寛政10年(1798年)の『重訂解体新書』がそれで、改訂作業は文化元年(1804年)にいちおう完了した(刊行は文政9年(1826年))。生誕 宝暦7年9月28日(1757年11月9日)命日 文政10年3月30日(1827...
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西教寺-兵庫県豊岡市

・西教寺 浄土真宗本願寺派 兵庫県豊岡市庄境1210文化八年四月、高槻・本照寺(富田御坊)の聞法道場(布教拠点)として、建立される。近在の門徒衆による募財等により、荘厳等整えられていく。明治(明治4年推定)になり、三洲布教校にて宗乗を学んだ信海法師が開基住職として就任し、これより、道場から寺院となり、布教活動を展開し、教えを広めていく。(リンク先より)※文化八年 1825年 << 戻る
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外国船打払い令

1825年、幕府が外国船打払い令を出す。<< 戻る
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山内出火により東本願寺両堂消失

1823(文政六)年11月、山内出火により東本願寺両堂消失。<< 戻る
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大田南畝(おおたなんぽ)

天明期を代表する文人・狂歌師であり、御家人。 勘定所勤務として支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚であった一方で、文筆方面でも高い名声を持った。膨大な量の随筆を残す傍ら、狂歌、洒落本、漢詩文、狂詩、などをよくした。特に狂歌で知られ、唐衣橘洲・朱楽菅江と共に狂歌三大家と言われる。生誕 寛延2年3月3日(1749年4月19日)命日 文政6年4月6日(1823年5月16日)<< 戻る
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福聚寺-京都府舞鶴市

・福聚寺 臨済宗東福寺派 京都府舞鶴市字常721伝承によると、福聚寺は、常村北側山腹にあり、火事で焼け1823年【文政6年】現在地に移りました。その後1927年【昭和2年】藁葺き屋根から瓦葺屋根に吹き替え現在に到っております。(リンク先より) << 戻る
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シーボルトが鳴滝塾を開く

1823年、シーボルトが鳴滝塾を開く。<< 戻る
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上杉鷹山(うえすぎようざん/治憲/はるのり)

江戸時代中期の大名。出羽国米沢藩9代藩主。 領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている。諱は初め勝興、後に治憲であるが、藩主隠居後の号である鷹山の方が著名である。生誕 寛延4年7月20日(1751年9月9日)命日 文政5年3月11日(1822年4月2日)元徳院殿聖翁文心大居士<< 戻る