安土桃山時代の真言宗の僧で、出家前は六角氏に仕える武将、出家後は外交僧・勧進僧・連歌学者として活動した。法名を応其、字を順良、房号を深覚と云い、深覚坊応其と称す。木食は木食行を修めた者への称で、木食応其は通称。
天正元年(1573年)に38歳で高野山において出家し、宝性院の勢誉から受戒、名を応其と改めた。小瀬甫庵の『信長記』では出家は25~6歳の頃であるとしている。また高野山入山のおり、十穀を絶つ木食行を行うことを発願している。応其は「客僧」という立場であり、学侶や行人、高野聖とも異なる存在であった。
また密教大辞典では天下人から厚遇を受けた政遍からも戒を受け、仁和寺宮仁助法親王より三部の大法を受け、阿闍梨にのぼったとされている。業績を重ねる一方で連歌の名手でもあり、里村紹巴と親交をもった。
天正13年(1585年)豊臣秀吉は根来寺・粉河寺・雑賀を攻略した後、高野山に対して降伏を求めた。この際応其は南院宥全、遍照尊院快言と共に高野山使僧として派遣され、秀吉からの降伏条件の書を受け取った。高野山側はこれを受諾し、応其と良運・空雅が返書を持って秀吉の元を訪れた。
『高野春秋編年輯録』では、良運は学侶を代表し、空雅が行人代表であり、応其は空雅に従ったものとしている。応其が使僧となった理由には、応其が秀吉と旧知であった説、高野説物語のあげる石田三成と旧知の間柄であった説、連歌上の交友関係が間を取り持った説がある。 これ以降、秀吉との間柄は急速に進展する。
天正15年(1587年)応其は秀吉の使僧として千利休らと共に島津氏との和睦交渉で力を尽くした。留意すべきは、同年9月22日に上方で開催された連歌の会に応其、細川幽斎、連歌師の里村紹巴、里村昌叱らに混じって、島津義久や重臣の伊集院忠棟が参加している点である。
その後、秀吉に協力して高野山に金堂や大塔を建立し、高野山の再興にあたった。天正18年(1590年)には高野山内に興山寺 (廃寺)を開基した。その際、秀吉が後陽成天皇に奏請して勅額が掲げられると共に、「興山上人」の号を賜った。「興山寺」の寺名は、高野山の「中興開山」から来ている。
また、同年荒川荘に同名の興山寺も開基している。文禄2年(1593年)には秀吉の母・大政所の菩提所、剃髪寺(青巌寺)を開基した。興山寺 (廃寺)と青巌寺は現在の総本山金剛峯寺の前身となっている。その他にも応其は全国を行脚し寺社の勧進につとめ、造営に携わった寺や塔は97にのぼるとされる。
高野山
金堂、西御堂、御影堂、宝蔵、御社拝殿、大門、看経所、安楽川経蔵、一切経蔵、大塔、上御主殿、勧学院室、南谷大師堂、興山寺 (廃寺)、青巌寺、奥院灯籠堂
高野山寺領(荒川荘)
三船神社、鞆淵八幡神社、興山寺
京都
方広寺(大仏殿、中門)、東寺(塔、講堂、御影堂、灌頂院)、醍醐寺(金堂、塔)、清滝権現、安祥寺、誓願寺、清水寺、清凉寺、三十三間堂、平等院
その他
石山寺、東大寺、室生寺、善光寺、厳島神社
応其は多くの高野衆や各地から集めた何百人もの大工を率いて寺社の大規模造営・整備にあたっていた。豊臣政権の行政機構の中に組み込まれていたわけではないが、実質上寺社造営における豊臣家の作事組織として機能していた。
文禄4年(1595年)の秀次事件では寺院法により豊臣秀次の切腹を阻止しようと抗議したが、青巌寺で秀次の切腹を行なわさせる(仏教五戒の内の殺生を行う)ことを認めざるを得ない苦しい立場に追いやられた。慶長3年(1598年)には秀吉が没して後ろ楯を失い、翌慶長4年(1599年)には青巌寺住職の座を勢誉に譲った。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは豊臣家との縁の深さから伊勢国の安濃津城(守将:富田信高、分部光嘉)や近江国の大津城(守将:京極高次)における開城交渉にあたった。しかし西軍に通じたと疑われ、戦後は近江飯道寺に隠棲した。
生誕 天文5年(1536年)
命日 慶長13年10月1日(1608年11月8日)
<< 戻る