1600年

人物

小西行長(こにしゆきなが)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。肥後宇土城主。アウグスティヌスの洗礼名を持つキリシタン大名でもある。 当初は宇喜多氏に仕え、後に豊臣秀吉の家臣となる。文禄・慶長の役では女婿・宗義智らと共に主要な働きをし、序盤の漢城府占領の際には加藤清正と先陣の功を争った。関ヶ原の戦いでは西軍の将として奮戦したが、敗北して捕縛された。自殺を禁じられたキリシタンであったので、切腹を拒否して斬首された。生誕 永禄元年(1558年)命日 慶長5年10月1日(1600年11月6日)<< 戻る
人物

石田三成(いしだみつなり)

安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。 豊臣政権の奉行として活動し、五奉行の内の一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名と共に西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。生誕 永禄3年(1560年)命日 慶長5年10月1日(1600年11月6日)江東院正軸因公大禅定門<< 戻る
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秀林寺-宮城県仙台市青葉区

・秀林寺 曹洞宗 宮城県仙台市青葉区北山1-3-1慶長5年(1600)、藩祖政宗により仙台城の築城が開始され、その没する寛永13年(1636)まで、36年間に亘り城下町の整備が同時に行われ、多くの寺が各地より集められた。北山五山と言われる寺々、輪王寺、秀林寺も例外ではない。(リンク先より) << 戻る
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神崎寺-千葉県香取郡

・大日山神崎寺 真言宗醍醐派 千葉県香取郡神崎町本宿231慶長5年、1600年関ケ原合戦の世、一人の行者が利根川を望む山に霊気を覚え、錫をとどめる。名を普賢を名乗った行者により山は開かれ、寺の歴史を刻むこととなった。江戸時代の書物の記録によると当山”大日山”は神崎三山に数えられておりました。鎮守神の山”神崎の杜”、愛宕権現の山”愛宕山”そして大日如来の山”大日山”が神崎三山とされ、神崎は古来より神仏を大切にしてきた土地であったことがうかがいしれます。(リンク先より) << 戻る
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南通寺-大阪府堺市堺区

・南通寺 真宗大谷派 大阪府堺市堺区御陵通3-12南通寺法名記と堺市史によると南通寺は慶長五年(西暦1600年)、釋良清によって開かれた真宗大谷派寺院である。(リンク先より) << 戻る
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到岸寺-福島県福島市

・到岸寺 浄土宗 福島県福島市大町2-30創建は慶長五年(1600年)、関ヶ原合戦の年。開山は楢葉郡折木(現在の双葉郡広野町)・古本山盛徳寺・第十四世一可良憲上人です。(リンク先より) << 戻る
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宝珠寺-和歌山県新宮市

・宝珠寺 曹洞宗 和歌山県新宮市木ノ川360和歌山県新宮市にある 「宝珠寺」(ほうしゅじ) は本来、 現在の新宮市の蜂伏地区の入口あったと言われている金錫山に天台宗の寺院として存在しておりました。しかし、幾多の 火災に遭い「湧水の池」があった木ノ川の現在の地に移転したと言い伝えられております。1600年頃、伊豆国の最勝院 16 世 説翁禅宗禅師によって、再建された曹洞宗の寺院です。(リンク先より) << 戻る
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禅源寺-茨城県北茨城市

・禅源寺 臨済宗妙心寺派 茨城県北茨城市関本町富士ケ丘1463禅源寺の由緒として正式な文書は失われてしまいましたが、1600年代の創建より400余年の年月を経た臨済宗妙心寺派の寺院です。(リンク先より) << 戻る
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海龍寺-静岡県浜松市南区

・海龍寺 臨済宗妙心寺派 静岡県浜松市南区中田島町272静岡県浜松市の中田島砂丘近くにある海龍寺は禅宗、臨済宗妙心寺派のお寺です。開創は関ヶ原の戦いの一六〇〇年頃と伝わっており(リンク先より) << 戻る
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大蓮寺-京都府京都市左京区

・大蓮寺 浄土宗 京都府京都市左京区西寺町二条下る正往寺町457名称 引接山 極楽院 大蓮寺(いんじょうざん ごくらくいん だいれんじ) 開基 慶長5年(1600) 関ヶ原の合戦の年です 専蓮社深誉和尚により開山(リンク先より) << 戻る
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西福寺-富山県高岡市

・西福寺 浄土真宗本願寺派 富山県高岡市福岡町福岡1865当寺は昔火事に遭った事から由来に関する書物はありませんが伝承によると1600年頃には西福寺は在った様です。(リンク先より) << 戻る
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青松寺-東京都港区

・萬年山 青松寺 曹洞宗 東京都港区愛宕2-4-7開山当初は麹町貝塚(今の国立劇場・最高裁判所の辺り)にあり、「江戸貝塚青松寺」と称されました。その後、慶長五年(1600年)、徳川家康公が江戸城の外堀をつくる際に、愛宕山南に続く丘陵「含海山」と呼ばれる現在の地へと移りました。(リンク先より) << 戻る
年表

関ヶ原の戦い

1600年、関ヶ原の戦い。豊臣秀吉が死ぬと、徳川家康の勢いが強まった。家康は石田三成らの豊臣方の軍を関ヶ原(岐阜県)にやぶって、全国の大名を従えた。天下分け目の戦い 関ヶ原の戦いには、全国のほとんどの大名が徳川方(東軍)と豊臣方(西軍)に分かれて戦った。<< 戻る