鎌倉時代

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日蓮聖人、仏門へ

天福元(1233)年、父母の元を離れ、生家近くの天台宗清澄寺(後に日蓮宗)の道善房に師事します。薬王丸(やくおうまる)と改名し、四年間仏修行に励みました。そして虚空蔵菩薩に「日本一の智者となしたまへ」と祈願されました。<< 戻る
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聞光寺-新潟県柏崎市

・聞光寺 真宗大谷派 新潟県柏崎市西本町1-10-411232 貞永1 12月7日開基 宗観 磯辺村に一宇を結ぶ12月7日開基 宗観没(リンク先より) << 戻る
人物

明恵(みょうえ)

鎌倉時代前期の華厳宗の僧。法諱は高弁(こうべん)。明恵上人・栂尾(とがのお)上人とも呼ばれる。父は平重国。母は湯浅宗重の四女。現在の和歌山県有田川町出身。華厳宗中興の祖と称される。明恵は『大唐天竺里程記』(だいとうてんじくりていき)をつくり、天竺(インド)へ渡って仏跡を巡礼しようと企画したが、春日明神の神託のため、これを断念した。明恵はまた、これに先だつ建仁2年(1202年)にもインドに渡ろうとしたが、このときは病気のため断念している。遁世僧となった明恵は、建永元年(1206年)、後鳥羽上皇から栂尾の地を下賜されて高山寺を開山し、華厳教学の研究などの学問や坐禅修行などの観行に励み、戒律を重んじ...
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宝福寺-岡山県総社市

・宝福寺 臨済宗東福寺派 岡山県総社市井尻野1968寺伝によると創立年代は不明ながら、日輪大阿閣梨を始祖とする天台宗の古刺であったものを、鎌倉時代の貞永元年(1232)に当時の住職であった鈍庵和尚がこの地に新しく伽藍を建立したと伝えられています。(リンク先より) << 戻る
年表

御成敗式目(貞永式目)

1232年、御成敗式目(貞永式目)がつくられる。第3代執権北条泰時がつくった最初の武士による法律(全51か条)。<< 戻る
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光円寺-神奈川県小田原市

・光円寺 浄土真宗本願寺派 神奈川県小田原市城山4-23-32光円寺の原名を実相寺という。頼賢という僧侶が相模小田原に実相院を開いて第一祖となった。実相院の建立年は不明であるが、寛喜3年(1231)に寺院設立の証を与えられているのはわかっているから、その時から頼賢の入寂の文永10年(1273)12月までであると思える。今から約750年前であるしかし、その後約300年続いた実相院も1500年代には廃寺となった。(リンク先より) << 戻る
年表

実相院(光円寺)に寺院設立の証が与えられる

光円寺の原名を実相寺という。頼賢という僧侶が相模小田原に実相院を開いて第一祖となった。実相院の建立年は不明であるが、寛喜3年(1231)に寺院設立の証を与えられているのはわかっているから、その時から頼賢の入寂の文永10年(1273)12月までであると思える。(公式ページより)<< 戻る
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東海寺-栃木県宇都宮市

・東海寺 真言宗智山派 栃木県宇都宮市篠井町827鎌倉時代の寛喜二年(1230年)小山城主朝比奈兼秀の孫和田新兵衛朝盛が出家し円覚に改め寺を開創した。(リンク先より) << 戻る
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専長寺-富山県滑川市

・専長寺 浄土真宗本願寺派 富山県滑川市寺家町257当山の資料によると、寛喜元年(1229年)(承元3年1209年説あり)承久の乱により流罪に処された後鳥羽上皇の皇子・圓信が、越中国砺波郡山田荘梅原里(南砺市梅原)に真言宗寺院・大法(宝)寺を開基したことに始まる。(リンク先より)<< 戻る
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如来寺-山梨県富士吉田市

・如来寺 浄土真宗本願寺派 山梨県富士吉田市新倉613安貞二年(西暦一二二八年)当時の住職、浄圓は、聖徳太子の御跡をたどって旧鎌倉街道を甲州路に入られ、勝沼萬福寺の聖徳太子旧跡を巡拝中の親鸞聖人に開法帰依し釈浄心と法名をいだき、浄土真宗となりました。(リンク先より) << 戻る
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中原寺-千葉県市川市

・瑞雲山中原寺 浄土真宗本願寺派 千葉県市川市国府台5-26-39古くは天台宗で開基学禅坊が、甲斐国山梨郡牛奥村に一寺を建立したことに始まります。中興と言われた永信は安貞二年に、親鸞聖人が聖徳太子の霊場を慕い等々力村の万福寺に入御の折に、聖人の御教化を受けて直ちに弟子となり浄土真宗に深く帰依しました。(リンク先より)※安貞二年 1228年 << 戻る
仏教を本気で学ぶ

『普勧坐禅儀』(ふかんざぜんぎ)

1228年、道元禅師が中国から帰国後直ちに建仁寺にて著された『普勧坐禅儀』には坐禅の心がまえや作法などについて書かれています。オリジナルは格調高い四六駢儷体の漢文で、坐禅の基本的な仕方から、その本旨までが記されています。現在、一般的には書き下し文が読まれることが多い為、こちらのページでも書き下し文を公開しています。道元禅師の開宗宣言ともいうべき書で、現在も坐禅中に読誦するなど、只管打坐をその旨とする宗門において重要な宗典です。①ルビ(かな読み)②書き下し本文(大太字)『普勧坐禅儀』たずぬるにそれ、どうもとえんずう、原ぬるに夫れ、道本圓通、いかでかしゅしょうをからん。争か修証を仮らん。しゅうじょ...
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道元禅師の帰国

安貞2(1228)年、28歳の道元禅師は5年におよぶ修行を終え日本に帰国しました。帰国後直ちに建仁寺にて著された『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』には坐禅の心がまえや作法などについて書かれています。格調高い四六駢儷体の漢文で、坐禅の基本的な仕方から、その本旨までが記されています。道元禅師の開宗宣言ともいうべき書で、現在も坐禅中に読誦するなど、只管打坐をその旨とする宗門において重要な宗典です。<< 戻る
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乗誓寺-神奈川県横須賀市

・東教山 乗誓寺 浄土真宗本願寺派 神奈川県横須賀市東浦賀1-20-10乗誓寺の開基である了源(平塚入道了源)は、藤原鎌足を祖として十八代を数える末裔であり、伊豆の曽我十郎祐成を父に、大磯の虎御前を母にもち、出家前の名を河津三郎信之と称したと伝えられる。曽我十郎、虎御前とも、江戸期より今日まで、歌舞伎や謡曲、浄瑠璃、浮世絵などでは『曽我物語』として広く民衆に親しまれ、仇討物語の代表的な演目として有名である。河津三郎信之(出家前の了源)は、父と同じく武士として源実朝に仕え、多くの武功を残した。その恩賞として平塚の地を賜るが、同族の宿縁と積年の仇敵に感じるところがあり、求道の日々を過ごすこととなる...
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光栄寺-岡山県井原市

・光栄寺 浄土真宗本願寺派 岡山県井原市芳井町吉井651当寺は、開基である法名浄源が明光上人(光照寺)に供し備後に下り、1227(安貞元)年に備中豊谷山に庵を結び、豊谷山光栄寺となる。その後、「澤岡山(さおかざん)光栄寺」と改称する。本堂での御法座や書道・華道教室、日曜学校などで門徒や地域の人が集うお寺であった。(リンク先より) << 戻る
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大報恩寺-京都府京都市上京区

・千本釈迦堂 大報恩寺 真言宗智山派 京都府京都市上京区五辻通六軒町西入溝前町鎌倉初期安貞元年(1227)義空上人によって開創された寺です。本堂は創建時そのままのものであり、応仁・文明の乱にも両陣営から手厚き保護を受け、奇跡的にも災火をまぬがれた京洛最古の建造物として国宝に指定されています。義空上人は、藤原秀衡の孫にあたり、19才で比叡山澄憲僧都に師事、拾数年ののちこの千本の地を得て、苦難の末本堂をはじめ諸伽藍を建立しました。(リンク先より) << 戻る
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願成寺-福島県喜多方市

・願成寺 浄土宗 福島県喜多方市上三宮町上三宮字籬山833叶山 三寳院 願成寺と申します。嘉禄三年(1227年)、法然上人の高弟 隆寛律師 御開山、開基はその弟子 實成房上人。大施主は、時の領主であり、頼朝の供奉員 佐原十郎義連公。(リンク先より) << 戻る
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光行寺-広島県福山市

・光行寺 浄土真宗本願寺派 広島県福山市神辺町川北764当山開基勝尊上人は親鸞聖人の直弟子、明光上人の従者(三大老)の一人として安貞元年(1227年)沼隈山南に一寺を建立し東光坊と称す。その後山南に在りし寺を中条(西中条深水)に移し、更に神辺古城に移す。 元和年中、水野勝成福山に城を築くに当たり四方の道俗居を福山に移す。その時寺を城東に移し(現在東町光善寺)、神辺の旧地に一寺を建立して覚圓寺光行寺と号す。ここに第十世祐教の弟、祐尊をして継がしむ(1624年)。その後神辺大火にあい古城に在りし寺を川北領家(現在地)に移し今日に及ぶ。(リンク先より)<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

大谷廟堂が破却される

1227年(嘉禄3年)、比叡山の衆徒が大谷廟堂を破却する。<< 戻る
人物

慈円(じえん)

平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧侶。歴史書『愚管抄』を記したことで知られます。諡号は慈鎮和尚、通称に吉水僧正、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円と紹介されています。 父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光女加賀、摂政関白・九条兼実は同母兄にあたります。幼くして青蓮院に入寺し、仁安2年(1167年)天台座主・明雲について受戒します。治承2年(1178年)に法性寺座主に任ぜられ、養和2年(1182年)に覚快法親王の没後、空席になった青蓮院を継ぎました。建久3年(1192年)、38歳で天台座主になります。その後、慈円の天台座主就任は4度に及びました。吉田兼好の『徒然草』には、「一芸ある者なら...
仏教を本気で学ぶ

『教行信証』(きょうぎょうしんしょう)

『教行信証』とは、元仁元(1224)年頃に書かれた親鸞聖人の著作です。正式名称は『顕浄土真実教行証文類』(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)です。全6巻からなる浄土真宗の根本聖典です。法然上人が著した『選択本願念仏集』の解説書とその正しさを証明した文書とされています。・・・・・・・・・・・・・・・・・・▶ 総序▶ 教巻▶ 行巻▶ 信巻▶ 証巻▶ 真仏土巻▶ 化身土巻・・・・・・・・・・・・・・・・・・顕浄土真実教行証文類序 竊かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。 然れば則ち、浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて...
年表

北条政子、金剛三昧院に多宝塔を寄進

貞応二年(1223年)、北条政子が源頼朝のために、金剛三昧院に多宝塔(現存・国宝)を寄進する。<< 戻る
年表

道元禅師の嗣法

貞応2(1223)年、24歳のとき、道元禅師は明全和尚と共に博多から南宋(中国)に渡り諸山を巡ります。天童山にて天童如浄禅師(てんどうにょじょうぜんじ)とめぐりあいます。道元禅師は如浄禅師を生涯の師(本師)として仰ぎ、坐禅修行に励みます。ついには悟りの境地を認められ印可証明をうけ、お釈迦さまより脈々とつづく正伝の仏法を受け継がれました。(嗣法)<< 戻る
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日蓮聖人の誕生

貞応元(1222)年2月16日、日蓮聖人は安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市、旧・千葉県安房郡天津小湊町)の小湊で誕生しました。幼名は善日麿であったと伝えられています。<< 戻る
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東昌寺-神奈川県逗子市

・青龍山 東昌寺 高野山真言宗 神奈川県逗子市池子2-8-33東昌寺は、鎌倉時代に北条泰時により執権家歴代の菩提寺として鎌倉の西ケ谷(鎌倉市小町)に建立された東勝寺に由来すると伝えられています。東昌寺は、当時、青龍山東勝寺と呼ばれていました。一方、後に東昌寺の境内に移されることになった丈六阿弥陀如来を祀った阿弥陀堂が、承久2年(1221年)に池子の大上阿弥陀ヶ谷(おおがみあみだがや: 現在の県立逗子高校の奥)に建立されました。この阿弥陀堂は、源実朝の非業の死を弔うために母親の政子刀自(とじ: 年輩の女性を敬意を添えて呼ぶ語)が、仏師・運慶に依頼して丈六阿弥陀如来像を彫らせ祀ったと伝えられていま...
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神藏寺-京都府亀岡市

・朝日山神蔵寺 臨済宗妙心寺派 京都府亀岡市ひえ田野町佐伯岩谷ノ内院芝60朝日山神蔵寺は開創1221年の歴史のあるお寺で、別名:佐伯薬師として親しまれております。毎年、紅葉、桜の季節には、ライトアップして、境内いっぱいが鮮やかな色彩に包まれます。(リンク先より) << 戻る
年表

六波羅探題をおく

1221年、京都に六波羅探題をおく。→朝廷や西国の武士を監視。<< 戻る
年表

承久の乱

1221年、承久の乱。<< 戻る
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高松寺-広島県福山市

・高松寺 臨済宗佛通寺派 広島県福山市加茂町北山1603承久2年(1220年)現在地に宗海覺樹という人によって、高松院(こうしょういん)として建立されました。当時は天台宗であったと言われています。その後文安4年(1447年)臨済宗佛通寺派高松寺(こうしょうじ)となり、現在に至っています。(リンク先より) << 戻る
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成就院-神奈川県鎌倉市

・鎌倉 成就院 公式ホームページ 真言宗大覚寺派 神奈川県鎌倉市極楽寺1-1-5護摩修法が行われていたこの地に、鎌倉幕府<三代執権北条泰時>が<1219年>成就院を建立。 1333年新田義貞の鎌倉攻めで焼失し西ヶ谷に移ったが、1688年元禄元年江戸時代ににより元の地に再建され、現在に至る。(リンク先より) << 戻る
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北条政子が政治の実権をにぎる

1219年、北条政子が政治の実権をにぎる。「尼将軍」<< 戻る
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源実朝が暗殺される

1219年、源実朝が暗殺され、源氏が3代で絶える。<< 戻る